ジャニー喜多川の幼少期は「空白の16年」として、本人の口からもほとんど語られていない。しかし、彼の“倒錯”の原点は、その幼少期にあったのではないか。アメリカ在住のノンフィクション作家・柳田由紀子氏は、ジャニーが若き日を過ごした和歌山のある島を訪れた。

【画像】ジャニー喜多川氏が幼少期を過ごした「中の島」は、これらの島々の奥にある

◆◆◆

碧の海に浮かぶ「僕の島」

 名古屋と紀伊勝浦を結ぶ特急「南紀号」は、およそ250キロの距離を4時間かけてゆっくりと走った。列車が愛知から三重、和歌山へと進むにつれ、山々の緑が深まり清流が目立ってくる。終着駅のひとつ手前、新宮駅を越すと、車窓に息を飲むようなエメラルドグリーンの海が広がり、南紀号は、流麗な海岸線を舐めるようにして紀伊勝浦駅に到着した。

 半分眠ったような駅前商店街を歩くこと7、8分、全国有数の鮪の水揚げを誇る勝浦港が見えてきた。目当ての島に行くには、この港から船に乗るよりほか方法がない。

 碧の海を眺めながら船着場に佇んでいたら、すぐ横を少年のグループが、いとも器用にスケートボードを操りながら駆け抜けていった。今どきのヒップな服装、長い脚、それに男臭さを感じさせない中性的な雰囲気に、つい「ジャニーズ系」のひと言が頭に浮かぶ。この少年たちは、私がこれから行くあの島に、かつて、自分たちと同じ歳頃のジャニー喜多川が住んでいたことを知っているのだろうか。


『Guinness World Records 2012』に掲載されたジャニー喜多川氏。連続性加害発覚後、氏のギネス世界記録は公式サイトから削除された

 奥深い勝浦湾に点在する島々や入り江一帯は、「紀の松島」と呼ばれる。リアス式海岸が描く景勝が、日本三景の陸前松島に匹敵することからこう名づけられた。それにしても美しい海だ。畏怖を感じさせるほど澄み切っている。私を乗せた船は、島々を縫って静々と進航し、勝浦湾に130も浮かぶ島のひとつに錨を下ろした。

 和歌山県東牟婁(むろ)郡那智勝浦町勝浦の「中の島」--。和歌山県の南部に位置するこの島は現在、全島が高級リゾート施設になっているが、明治後期には帆船が出入りする船宿が、ジャニーが暮らしていた頃には、木造2階建て客室18室の日本旅館が建っていた。彼が、「親戚のおじさんと愛しあう日々を送った」と、被害者で元ジャニーズJr.の大島幸広さん(39)に語ったという「僕の島」である(第1話参照)。

祖父は島の旅館番頭

 ジャニー喜多川が日本に住んだ1歳10カ月から18歳1カ月までの16年間は、これまで明かされることのなかった空白の歳月だ。彼は、この全期間を関西圏で生きた。実際、過去のビデオを慎重に視聴すると、普段は東京の言葉を使う彼が、ふいに関西弁で話す場面に出くわすことがある。

 生前、ジャニーは「空白の16年」をほとんど語らなかった。というよりも、その大半をアメリカで暮らしたと思わせるように慎重に振る舞ったが、和歌山だけは例外だった。たとえば、被害者のひとり、俳優の服部吉次さん(79)は、私が今春訪ねた時にこう回想した。

「和歌山のことはしきりに話していましたね。だから、よほどよい想い出があるんだなと、僕は思った」

 ジャニーが中の島に住み始めたのは、遅くとも1939年(昭和14)、7、8歳の時。この年、僧侶だった父の諦道(たいどう)が「和歌山県勝浦港中之島に転居」したと、真言宗の専門誌、「六大新報」の同年5月号が記している。

 だが、もしかすると、それ以前だったかもしれない。というのも、34年(昭和9)5月に母、江以(えい)が早逝しており、かつ、祖父の常吉が、「昭和10年頃に……中の島の経営を一任」されているからだ(『中の島15年の歩み』中之島温泉土地株式会社/73年)。

 3人の幼子の養育は、諦道の男手ひとつでは難儀だったろう。反対に、旅館なら板前も中居も揃っている。しかも、祖父は番頭、現代でいえば支配人なのだ。

 ジャニーは大島さんに、中の島を「お伽の島」と形容したというが、確かにここは、穢土(えど)とは遠く離れた楽園のような島だ。吉野熊野国立公園の特別地域に指定された島の面積は、およそ2万坪。ユズリハやヤマモモ、シダ類が密生し、島の頂上からは、紀の松島全景や熊野灘を見晴るかすことができる。海ではイルカたちが陽気に飛び跳ね、そのうえ、島の数カ所から温泉さえ湧出している。戦前唯一の欠点は飲み水がないことだったというが、代わりに水舟が行き来したというのだから、いっそ優雅である。

 これほど美しい島で、幼いジャニーと「親戚のおじさん」による倒錯の世界が繰り広げられたのか? そのおじさんとは、いったい誰だったのか? 姉のメリーは、2人の関係を知っていたのだろうか? 今となってはすべてが藪の中だが、メリーが、「弟は子どもの頃、男と関係を持ちながら育った」(第1話参照)と、元歌手で女優の故・名和純子に告白したと伝えられることからも、私には、性加害は実際に行われ、メリーはその事実を知っていたと思えてならない。

足元が揺らぎ始めた父

 さて、アメリカから帰国後、京都の旧嵯峨御所・大本山大覚寺に籍を置いた諦道だったが、35年(昭和10)2月末をもって依頼免職した。入寺からほんの1年2カ月の短さには驚くが、その後も活発な動きはしていたようで、「六大新報」には、僧侶の集会や布教師の送別会の出席者として諦道の名がたびたび登場する。

 が、そこに肩書はない。

 たとえば、同誌37年7月号の「公人私人」欄には、「喜多川諦道師(省線立花駅前)去五日米国ロスアンゼルス高野山別院附属ボーイスカウト来朝の件につき、諸準備打合せのため入洛の砌来社」とある。併記された彼以外の「公人私人」には、「神戸聖徳院主」や「古義学務部長」「勧修寺執事」といった職名があるのに、ひとり諦道だけが地名のみでいかにも座りが悪い。

 どうやら諦道は大覚寺を辞した後、兵庫県尼崎市の立花町に越したようだ。他の記事には、肩書代わりに「尼崎市」の記載も見られる。

 そして、次に諦道の名が「六大新報」に現れるのが、先述した39年(昭和14)5月号の「喜多川諦道師 今回和歌山県勝浦港中之島に転居」で、ここでもやはり職業は不記だ。

 ロサンゼルス、京都、兵庫、和歌山・中の島……たった5、6年の間に、3児の父が3カ所も居を移すとは尋常ではない。喜多川諦道の一生を追う時、この人にとって人生のピークはアメリカ出国の日、信徒や邦人が「自動車百数十台を連ねて」(『羅府新報』33年8月25日付/第1話参照)、港まで彼と家族を見送ったあの日だったと思えてくる。諦道は、開拓向きの人物なのだ。だからこそ、自由の国、アメリカの誕生間もない貧乏寺で、本来持っていた奔放な気質を開花させることができた。

 ところが帰国すると、元々寺の子でもないので帰る拠点がない。滞米10年の活動は僧侶の位に反映されないので、四十路近くになってもたいした権限もない。なにより、異国で苦楽をともにした妻は早逝してしまった……。彼が、デラシネ、根無し草になる条件は、充分すぎるほど揃っていたのである。

本記事の全文(約12,000字)は「文藝春秋 電子版」に掲載されています(日米徹底ルポ「誰も知らないジャニー喜多川」第2話 那智勝浦湾に浮かぶ「島」への移住、空白の16年、敗戦後ふたたびアメリカへ)。

 

【連載】日米徹底ルポ「誰も知らないジャニー喜多川
・第1話 僧侶の父、アメリカでの虚実、母の早逝、和歌山への移住

・第2話 那智勝浦湾に浮かぶ「島」への移住、空白の16年、敗戦後ふたたびアメリカへ

(柳田 由紀子/文藝春秋 電子版オリジナル)