京都御所(写真: Daikegoro / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は若宮(敦成親王)の誕生から50日を祝う宴の席での、紫式部のエピソードを紹介します。

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若宮の誕生から50日を祝う宴の席

藤原道長の娘・中宮彰子が産んだ若宮(敦成親王)の誕生から50日のお祝いが、寛弘5年(1008年)11月1日に行われました。

女房として彰子に仕えていた紫式部は、自身の日記のなかで「女房たちが着飾って参集した御前の光景は、まるで絵に書いた物合の場のようでした」と描写しています。物合とは、左右に分かれ、お互いに物を出し合いその優劣を競う遊戯のことです。

このお祝いの席には、公卿・大臣も参列していました。しかし、その中には、酔い潰れてよからぬことをする者もいました。その時の様子も、紫式部は書き残しています。

右大臣(藤原顕光)などは、几帳の布のとじ目を引きちぎる粗相をしたそう。その状況を見て、周りにいた女房たちは「いい歳をして」と皆、つつきあっていたとのことです。

そうとも知らず、右大臣は女房の扇を取り上げるという行為にまで及びました。いつの世にも、酔うととんでもないことをする人はいるものですね。困ったものです。

紫式部はさらに変わったことをしている公卿を発見します。公卿が女房に近寄り、女房の袖から見える衣の枚数を数えているのです。

そんなことをしていたのは、右大将(藤原実資)でした。紫式部は、右大将の行為を「さすがにほかの方と違う」と記していますが、これは誉めているのでしょうか?

紫式部が右大将に嫌悪感を抱いていないことは、この直後に紫式部が右大将に話しかけていることからもわかります。紫式部の性格からすれば、おかしな行動をする人に進んで話しかけないと思われますが、(お酒の場だし、少しくらいはいいだろう。どうせ、私のことなど誰もご存じないのだから)と思い、右大将に近づいて、言葉をかけたようです。

紫式部曰く、右大将は「今風のおしゃれな人よりも、こちらを圧倒する雰囲気をお持ち」だとのこと。紫式部は、ほかの人とは違う雰囲気を右大将から感じ取り、興味を抱いて話しかけたのでしょう。

紫式部は右大将の様子を、芸の披露は苦手のようで、自分の順番が近づくにつれてソワソワしていたとも記しています。結局、右大将は、無難な「千歳万代」という祝い歌を歌い、その場を切り抜けたようです。

源氏物語を執筆中の紫式部を冷やかす人物も

そうした最中で、左衛門督(藤原公任)が「この辺りに若紫(紫の上)は御出でかな」と言って、やって来ました。

紫の上というのは、紫式部が書いた小説『源氏物語』の女性登場人物です。このことから、この頃には、すでに紫式部が『源氏物語』を書き、その内容が公卿の間で話題になっていることがわかります。左衛門督は、酔った勢いで、紫式部を冷やかしにきたのでしょう。


京都府宇治市 源氏物語宇治十帖モニュメント(写真: soulman / PIXTA)

紫式部はその言葉を聞き「光源氏に似たような人もここにはお見えではありません。私が紫の上などとはとんでもない。そんな方はいらっしゃいません」と、そのまま聞き流したようです。クールな対応ですね。

とにもかくにも、若宮の誕生50日の御祝いの席では、公卿たちの普段見られないような姿が見えたようです。

そのほかにも、隅の柱では、権中納言が兵部という女房の袖をひき、聞くに耐えない冗談を大声で飛ばしていたとも紫式部は書いています。

しかし、その大声を聞いても、邸の主人・藤原道長は注意も何もしなかったとのこと。無礼講は続き、権中納言はますます酔ってしまいました。

(このままでは、大変なことになる)と紫式部は感じ取り、宰相の君と示しあわせて、宴が終了したらすぐに身を隠してしまおうと考えます。ところが、東廂(廊下のような細長いスペース)には、道長の息子たちや宰相中将がいて、騒々しくて、行くことができない。そこで、中宮の御帳台(天蓋付きのベッド)の後ろに隠れていました。

しかし、そこでもある人に見つかってしまいます。殿(道長)に見つかってしまったのです。

身を隠していたが、道長に見つかってしまう

道長は、几帳の布を取り払い、紫式部と宰相の君を捕まえて、道長の前に座らせました。紫式部たちにとって最悪の事態になってしまったと言えるでしょう。

道長は「和歌を一首詠め。さすれば許してやろう」と話します。紫式部は、恐る恐る次のような歌を詠みました。

「いかにいかが数へやるべき八千歳のあまり久しき君が御代をば」と。(今日の五十日の御祝いを、どのように数えましょうか。八千歳余りも続くに違いない、末永い若君の御世を)という意味の歌を詠んだのです。

道長が満足したのは言うまでもないでしょう。「見事に詠んだな」と2度ばかりつぶやくと、自らも「あしたづのよはひあらば君が代の千歳の数も数え取りてむ」(鶴は千年の齢を持つという。その寿命がもし我にあるならば、若君が千歳になるまでその年を数えることができるだろう。我は命が尽きるまで若君に尽くす覚悟だ)と詠んだのです。

自信満々、生気に満ちあふれた歌ですね。紫式部は道長の歌を聞いて「本当にしみじみと頷けるお歌だ。殿は若君誕生をずっと願っていたのだから。殿がこのように盛り立てるので、儀式や御祝いの品といったすべてのものの輝きが増すのだ。私のような分際の者まで、千代どころではない若宮様の将来が次々に思い浮かべられた」との感想を書き残しています。

道長はご機嫌で「中宮様、お聞きですか。うまく詠めましたぞ。中宮の父として私はなかなかのものだ。私の娘として、中宮様も素晴らしい。妻も、よい夫を持ったと思っているだろう」と饒舌に語ります。

紫式部は道長のおしゃべりを少し不安に感じました。中宮は、道長の酔いに任せた言葉を機嫌よく聞いておられましたが、道長の妻(源倫子)は、部屋に引き上げてしまったのです。道長の放言を聞くに耐えないと思ったようですね。

道長も妻には頭が上がらなかった

道長は妻の不快感に気付いたようで「部屋まで送らないと、母上が機嫌を悪くされるからな。中宮よ、(席を離れるのは)失礼だと思われるでしょうが、親あればこそ子も尊ばれるのですぞ」と言うと、慌てて、妻の後を追うのでした。

女房たちは笑いながら、殿をお見送りしたそうです。栄華を極めつつある道長も、妻には頭が上がらなかったと思われます。

(主要参考・引用文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)