依存症は、それを認めたときに初めて快方に向かうと言われる。だとするなら、自分の納得できる言葉で自分を提示したいではないか(写真:矢部ひとみ撮影)

「シリーズ ケアをひらく」は、第73回毎日出版文化省を受賞した医学書院のレーベル。2000年のスタート以来、医療関係者以外の幅広い読者に購読されています。

そのシリーズ最新作、作家の赤坂真理さん著『安全に狂う方法 アディクションから掴みとったこと』より一部抜粋・編集してご紹介します。

やってきて吸い寄せられる

I am addicted to alcohol.

これは英語の典型的な文章であるが、これを「わたしはアルコール(お酒)に依存している」と訳すことは、わたしにはできない。自分に好みはたくさんあるはずだが、ある好みにおいてだけコントロールが効かないということなのだ。“それ”のことばかり考え、何を対価に差し出してもそれを欲しいと思ってしまうこと。“それ”に吸い寄せられるようになってしまうこと。

お酒でも、薬物でも、恋愛でも、特定の人物でも、宗教教義でも、教祖でも、特定のホストやアイドルやYouTuberなどの推しでも。

be addicted に似た意味合いの英語は、I(わたし)から見るなら、すべて受け身だ。

be obsessed(取り憑かれる)

be possessed(乗っ取られる。直訳では「所有される」)

言葉の遊びをしているわけではない。大事なことなのだ。言葉は人の意識をつくり、その集まりが、集合意識をつくる。その意識にのっとって治療法というものも発想される。だとしたら、言葉をきちんと理解しなければ、本質から外れた治療法が主流となっていくこともありうるのだ。本質から外れた対応をしても、いつまでも本質はその人の中で放置される。

依存症は、それを認めたときに初めて快方に向かうと言われる。だとするなら、自分の納得できる言葉で自分を提示したいではないか。

当事者の実感がにじんだ言葉=「固着」

「生活に支障をきたしてもなお、あるものから離れられないこと」。これをなんと言うか。

説明しようとしたら、この文章のように和漢混淆の文で言うしかない。そうすることを日本語のオフィシャルな用語はひどく嫌う。和語というのは、漢語の補足説明のような位置付けになる。これは日本語の長い歴史においてできた言語特性であり、そうである以上、日本人の意識特性をどこかで縛っているメンタリティだろう。

たしかに、誰もが共通に運用できるには統一された簡潔な言葉であることが望ましいが、当事者がそれに合わせさせられるとしたら、本末転倒ではないか。当事者には当事者の実感があり、本来はそれが聞かれてから、それに合わせて治療法というものが発想されるべきだ。けれど実際は治療法や治療者に、当事者のほうが話を寄せていくという事態が起こりやすい。

さて、述べたように日本語は、オフィシャルな用語は漢語にしなければ気が済まない文化だ。だったら、と考えてみる。もっと端的な漢語を探してみようではないか。

とても歴史の古い言葉が頭に浮かんだ。「執着」。これは「依存症」よりはるかにアディクションの本質に近いし、ブッダはすでにすべての苦しみの元のことを執着だと言った。だとしたらアディクションの苦しみとは、人類の歴史と同じくらいに長い。人間の苦しみはすべて多かれ少なかれアディクション、と言うことができる。

さらに考えてみる。対象から離れられないという意味に強調を置くと、わたしとしてはこう言ってみたくなる。

固着」。

ここでは、依存症や嗜癖という言葉に替えて、基本的に「アディクション」「固着」を使っていきたい。

何かに固着すること。こだわらずにいられず、そのことが頭から離れず、実行せずにいられない気持ちになること。しかしその実行によって、新たな苦しみが生まれてしまうこと。

考えてみれば不条理きわまりないこうした状態に、ある年齢以上の人間のほぼ全員が悩んだことがあるはずだ。これはほぼ心のメカニズムそのもののようにも思える。だからアディクションについて考えることは、人類にとっての「心の取り扱い説明書」を書くようなものだとわたしは思う。

それは最初に傷を覆う方法だった

人類の問題としてアディクションを考えてみたい。人として幸せになるために、だ。アディクションから回復するためにではない。回復は手段であって目的ではない。それに、どこに戻りたいというのだろうか。そもそも元いた世界がつらかったからアディクションが始まったのではないか。アディクションでそこから逃れたかったのではないか。

依存症の治療として、主訴だった症状が止まったことを達成だとみなす考え方が流布している。世間はおろか治療者も支援者もそう考えているふしがある。そのうえで「回復」が最もよいこととされている。「回復」とは、症状が止まるのみならず、社会の有用な一員となり、後続アディクトたちの手本となることであるという。ハードルが高すぎないか?

社会に望まれる回復とは「再適応」に他ならない。型が決まっている。むろんそれが当人にとっての最終目標であったならば、わたしとて異論はない。しかし、苦しかったところにまた帰りたいだろうか。本当に欲しかったものは、「幸せ」ではなかったか。そもそも幸せになりたかったからこそ、アディクションをしたはずだ。そう、幸せになりたくて始めたことだ。それがどんなにダメージがある方法だったにしても。

お酒を飲む人は、緊張をやわらげたくて飲んだ。すると緊張はやわらいで、幸せだったはずだ。その幸せが忘れられなかったからこそ、その方法に固着した。その方法しか知らなかった。その方法しか効かないと思い込んだ。その方法自体、ダメージの大きいものだったということは、始めたときには知らなかった。あるいは頭では知っていたとしても、今ここにある苦しみから逃れることで精一杯だった。切羽詰まっていた。

それだけの苦しみがあったということだ。本当はその苦しみ自体を取り扱えればいちばんよかったかもしれない。けれどそんな方法はわからなかったし、苦しみに直面すること自体が怖かったのだ。

かくて、それを覆う方法を見つけた。一般的にアディクション(≒依存症)とみなされているものは「最初に傷を覆う方法」のことである。これをやめたときに、自殺してしまう人も少なからずいる。

緩衝帯が逆に日常を圧迫してしまう状態

いわゆる依存症という病が、最初からあるわけではない感じがしていた。症状そのものが一番の問題でもない気がしていた。アルコールならアルコールが、最初からその問題として、あるわけではない気がしていた。


わけがあって飲んだ。生きづらさがあって飲んだ。それが真実だろう。生きづらさを紛らわしながら、この世界でやっていくために飲んだ。この世界とのあいだにアルコールでクッションをつくりながら、世界と折り合おうとした。つらくても、そうまでしてがんばった。

こういう意味で、アディクトには真面目な人たちが多い。よく信じられているような「だらしない人たち」ではなく、むしろ人一倍真面目くらいの人が多い。なにしろアルコールや合法違法の薬物を大量に使ってまで、この世界に適応しようとしていたのだから。

アディクションとは、それがどういうものであったとしても、当人が最初の生きづらさを緩和しようとして発見した「セルフ緩和ケア」であると思う。いちばん手に入りやすいもので、いちばん合うものを選択する。繰り返すが、そうやってこの世界の諸事に対応しようと一生懸命な彼らは、真面目な人たちである。

世界と折り合うために、セルフ緩和ケアによって「クッション」あるいは「緩衝帯」をつくる。アディクションとは、クッションが日常を圧迫し過ぎた状態、あるいはクッションが日常を凌駕してしまった状態をいうのだと思う。そして、それだけつらかったということに他ならないと思う。

(赤坂 真理 : 作家)