「意識不明で緊急入院した幼い娘を残し仕事へ」事業失敗し部下に見切られボロボロの社長が今、笑顔満面の理由
■「売れるだろう」とメディアも絶賛したが…
2010年に電動バイクの製造・販売を手掛けるテラモーターズ(現・テラチャージ)を設立しました。ビジネスの理論を学び、スタートアップについても知見を備えて起業したつもりでした。しかし、ビジネスは理に適っていて条件を満たせば成功が掴めるような、甘い世界ではない。そのことを思い知らされたのが14年の経験です。
我々は創業当初から世界を舞台に勝負することを見据え、市場規模が大きく競合優位が取れそうな新興国への進出を狙っていました。そのチャンスが創業2年目に訪れます。
フィリピンでは三輪タクシー「トライシクル」が庶民の足となっています。当時のマニラで走っていた約350万台の三輪タクシーは首都近郊の大気汚染の一因と考えられていたため、フィリピン政府はまず10万台をEVに置き換えようとプロジェクトを進めていました。プロジェクトは幾度となく中断したのですが、12年末に突如風向きが変わりました。ADB(アジア開発銀行)がこのプロジェクトに3億ドル(当時のレートで約246億円)を拠出することになったのです。これで実現性が一気に高まり、我々は入札に参加することを決めました。
入札に際して我々はA4用紙を積み上げて高さ1メートルほどにもなる資料と、約3000万円をかけた試作車を完成させました。日本からは東芝、ヤマハ、韓国からはLG、サムスンと、巨大資本も参加していましたが、試作車まで用意したのはウチだけでした。プロジェクトに懸ける本気度を示し「自分たちにはここまでできる」とアピールする必要があったからです。
その結果、テラモーターズは審査を通過した3社のうちの1社になることができました。私はここが勝負どころと見て第三者割当増資で10億円を調達、量産体制を整えました。
しかし、プロジェクトは遅々として進みませんでした。フィリピン政府やADBの詰めが甘かったのです。
当初、我々はADBなりフィリピン政府なりが完成車を買い取るなどして、トライシクルの運転手に貸与するのかと思っていました。ですが実際には「とりあえず販売してくれ。利用者に後から補助金をつけるから」という施策になったのです。
トライシクルの運転手はほとんどが低所得層の個人事業主です。環境配慮を理由にわざわざ高額な最新型EVを買うはずがありません。プロジェクトは2度もキャンセルになりました。最終的には、量産体制を整えたにもかかわらずプロジェクトからの撤退を余儀なくされました。
ほぼ時を同じくして我々はベトナムでも、電動バイクの生産・販売計画を進めていました。2年間の歳月と開発費用2億円以上を投じた「A4000i」が完成。スマートフォンと連携する世界初の機能がウリで前評判は上々、現地メディアにも絶賛されました。「これなら欲しい」「売れるだろう」。事前の市場調査で聞かれた声に安心して、14年9月にはハノイ市に豪華な販売店をオープン。15年中に10店舗まで拡大する計画を立てました。
■意識不明の末娘と、経営者としての責任と
ところが、いざ売り出してみると売れ行きはさっぱりでした。日本円で35万円という価格設定が高すぎたのかもしれませんし、電動バイクというカテゴリー自体が早すぎたのかもしれません。いずれにせよ、事前の市場調査に油断して、最後の最後、経営者としての私の「本当に売れるのか」という掘り下げが足りなかったのです。
フィリピン、そしてベトナムでの相次ぐ失敗で、テラモーターズの成長戦略の両輪が同時に失われてしまいました。このままでは前進することはおろか、経営を維持していくことすら危うい状況にありました。そんな私に追い打ちをかける出来事が襲い掛かります。
14年の私はフィリピンとベトナムに出ずっぱりで、ほとんど日本にいませんでした。国内事業は10年に販売を開始した電動バイク「SEED」シリーズのアフターサービスやメンテナンス業務が主で、外資系コンサルティング会社出身の優秀な執行役員に任せきりでいました。しかし、海外事業での失敗で「もうこの会社に未来はない」と見切られてしまったのでしょう。12月に辞職されてしまいました。
そもそもスタートアップにジョインしようという人材は、給与や安定性よりもダイナミックな成長に魅力を感じて集まってくるのです。こうなった以上は引き留めることはできません。彼が去ると、7人もの部下が相次いで会社を去っていきました。
さらに不運は続きます。年の瀬も迫った12月25日、末娘が急な発熱から重度の熱性痙攣を起こして、緊急搬送されたのです。病院に駆けつけると娘は意識を失ったまま、酸素マスクをつけ、幾本ものセンサーコードに繋がれていました。
「娘さんの予後ですが、正直何とも言えません。この年頃のお子さんには熱性痙攣はよくありますが、娘さんは重篤です。症例では3分の1は回復しますが、3分の1は植物状態になり、3分の1は命を失ってしまいます」
動揺する私に担当医師は冷徹にこう言ったのです。回復するかわからない娘の側にいたい。親として当然の感情を強く抱きました。
しかし、私は企業のトップ。自分が起業した会社が、すぐにも次の一手を打たなければならない危機に瀕していました。私は心の中で娘と妻に謝りながら会社に戻ると、年の瀬のオフィスで社員を集め、こう言ったのです。
「世のスタートアップが目指す最初の山の頂は、売り上げ10億円だ。我々は来年これを達成する。だから、ついてきてほしい。年明けからすぐに動く!」
14年の売上高は2億円。成長の柱と見込んだ両輪を失って、どうやって10億円を達成するのか、具体的な策は何もありませんでした。社員への宣言は、完全にノーロジックです。
それでも、私にはほかに選択肢がなかった。やるしかない……やるしかない……やるしかない!
年が明け15年1月3日、私はインドに飛びました。製品も販売チャネルもありませんでしたが、どこかへ行って何かを探すしかなかったのです。絶対に何かがあるはずだと信じて――。
■しつこく食い下がって本音を聞き出した
南アジアのインドやバングラデシュは、東南アジアと同じく排出ガスによる大気汚染が深刻で、三輪タクシー「リキシャ」のEV化ニーズがありました。我々がこれまでに培った電動バイクやEVの技術が十分に生かせます。
入院から2週間後、幸いにも娘は無事に意識を取り戻してくれました。同じタイミングで、南アジアへの賭けはインドよりも先にバングラデシュで結実します。2月半ばに現地の二輪メーカー・ランナー社と合弁会社を設立。現地で組み立てを行う電動三輪車「R6」を、ランナー社が有する約400店舗の販売網を活用して販売しました。
バングラデシュにはすでに中国の電動三輪車が進出していましたが、故障が多くユーザーに強い不満がありました。また天然ガスの価格が上昇し、旧来のリキシャからの買い替え需要がありました。バングラデシュでは補助金に頼らずとも、十分に電動三輪車が売れる土壌が揃っていたのです。
とはいえ、現地の人々が口々に言う「素晴らしい製品だ。実際に発売されたらぜひ買いたい」という評判が信用ならないことは、ベトナムで思い知りました。私は幾度も現地を訪れ、想定されるユーザーに「本当に買いたいか」「幾らなら買うか」「どういう使い方をするのか」をしつこいほど食い下がって、本音を聞きました。
現地責任者は当初「従来型のリキシャは約18万円です。R6なら10万円高くても売れます」と鼻息荒く言っていたのですが、私が聞いて回った感触ではどうも怪しい。私は「R6」の販売価格を従来型より10%高いだけの約20万円に設定し、発売に踏み切りました。
結果、「R6」は爆発的にヒットしました。EVという先進性、日本メーカーに対する信頼、ランナー社の販売力が見事にかみ合いました。さらに9月にはインドでも三輪リキシャ「T4」を販売。着々と販売地域と販売実績を伸ばしていきました現在は年間2万台を出荷し、同国の電動三輪車でシェアトップを握っています。
目標だった売上高10億円も達成し昨年度は30億円に到達しました。我々は土壇場のところで負の連鎖を食い止め、新しい市場で息を吹き返し、再び成長路線に戻れたのです。
中国Xiaomi社の創業者・雷軍(レイ・ジュン)が「風が吹くなら豚でも飛べる」と言ったように、スタートアップが成功する鍵は「スジのいい当たりを見つける」ことに尽きます。努力が実を結ぶか無駄になるかは、ひとえに創業者が下した最初の選択にほぼすべてが懸かっている。そう言っても過言ではないほど、「どの市場に踏み入るか」が重要なのだと学びました。
22年、我々はEV充電インフラ事業に参入し、社名を「テラチャージ」と改めました。現在日本にはEV充電器が約3万基しかないところ、テラチャージは事業立ち上げから1年9カ月で2万5000基もの受注を獲得。急成長を遂げています。修羅場を抜け、土壇場から逆転し、我々は最高のスジを当てました。この充電インフラをいかに世界中に広めていくかが、我々の次の勝負です。
※本稿は、雑誌『プレジデント』(2024年7月19日号)の一部を再編集したものです。
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徳重 徹(とくしげ・とおる)
テラチャージ代表取締役社長
1970年、山口県生まれ。九州大学工学部卒業後、住友海上火災保険(現・三井住友海上火災保険)入社。商品企画・経営企画に従事。退社後、米Thunderbird経営大学院にてMBAを取得。2010年にテラモーターズ(現・テラチャージ)を起業。
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(テラチャージ代表取締役社長 徳重 徹 構成=渡辺一朗 撮影=大槻純一)