「三権分立はフィクション」と泉房穂が断じる根拠
三権分立を真に受けているのは日本人だけではないかという(写真:リュウタ/PIXTA)
フランス革命後の議会を引き合いに、そもそも「財界人の財産を守ることが議会の最大の関心事」だったと言い切る前明石市長の泉房穂氏は、民意を反映できる「住民投票」や「国民投票」の重要性を説きます。
政治の世界だけでなく、弁護士として法曹の世界にも通じた泉氏が「三権分立はフィクション」だと断じる制度的・歴史的な根拠とは。
※本稿は、泉氏の著書『さらば! 忖度社会 崖っぷちニッポン改造論』から、一部を抜粋・編集してお届けします。
教科書で習う「三権分立」はフィクション
日本は民主主義国家で、三権分立の国。三権のうち議会は立法権を担い、有権者から選挙で選ばれた政治家たちが法律を定め、行政監視の役割を果たす。そんなふうに学校の教科書で習ったかもしれません。貴族出身のフランス人思想家モンテスキューが『法の精神』で記したものが、その源流になっています。
司法と立法と行政の均衡による権力の抑制。
しかし、そんなシステムが現実にきちんと機能していると思いますか?
少々乱暴に言いますが、モンテスキューの思想などそもそも噓っぱちです。三権分立がベストなシステムとして機能していると、国民がまともに信じている国は、世界広しといえども日本くらいのものではないでしょうか。
それが噓っぱちだと気づいているからこそ、多くの国の人々は、権力は常に暴走するという危機感とともに、監視役であるメディアの重要性を強く認識しているのだと思います。
イギリスの思想家ロックが唱えたのは「二権分立」でした。彼の論において司法権は分立しておらず、裁判所と行政が一緒になっています。現実も、これに近いのではないでしょうか。
総理大臣が最高裁の裁判官を任命する権利を持っている以上、司法が行政から完全に独立できるわけがありません。最高裁は、当然のことながら時の権力者に「迎合」するしかありません。
裁判所は公明正大な判断を下す、という「勘違い」
私は教育学部卒ですが、若い頃に師と仰いでいた政治家・石井紘基さんから「泉くん、政治家を目指す前に、まずは弁護士になれ。本気で人のために尽くして、世の中のことをもっと深く知りなさい」と言われたことをきっかけに、司法試験を受験、30代の時には明石市で弁護士として働いていました。
司法の世界は狭いので、最高裁の裁判官などにも顔見知りが何人もいます。いわゆる権力におもねるタイプの人たちが多く、ゴマすりが上手な人たちが出世していって最高裁に辿り着く。国にケンカを売るような判決文を書く人は、最高裁には辿り着けません。
もちろん心ある裁判官もいます。勇気ある判決文を書いた判事もいます。しかし、そのような裁判官はいずれも地方の裁判所に飛ばされ続けて終わり、最高裁まで辿り着くことはないのです。
最高裁で働く友人は、「泉、お前はいろいろ好き勝手に言っているが、自民党とケンカなんかできないんだよ。忙しいなかで人を増やしてもらおうと思っているところに、予算を削られでもしたら大変なことになる。"わかっているだろうな"と自民党からジロリと睨まれつつ、頭を下げて予算を通してもらっている状態で、政治的なことに違憲判決なんか出せるわけがないんだよ」と言っていました。本音でしょう。
最高裁判所など、単なるゴマすり役人集団です。それを世間は勘違いしていて、裁判所は中立で独立した司法権を持っており、公明正大な判断を下せるなどと思い込んでいるのです。現実は小学校や中学校の教科書どおりになんて動いてはいません。
基本的に、裁判所というのは時の権力の下僕のようなもの。時の権力が逮捕した人が政治犯として有罪にされていった歴史をみれば、裁判所が中立なわけがないのです。
検察庁も似たようなものです。検察は行政機関の1つですが、今回の自民党派閥による裏金問題には、そもそも本気で切り込む気がなかったのだろうと思わざるを得ません。結局は、会計責任者ら7名と安倍派の所属議員3名を立件したのみで、安倍派幹部は誰一人起訴されずに手打ちとなりました。
そもそも、検察庁自体も裏金疑惑と無縁ではありません。2002年、当時現職の大阪高検公安部長が、テレビ朝日の『ザ・スクープ』という番組で検察庁の内部で密かに行われてきた裏金づくりの実態を告発しようとしていたところ、その収録の数時間前に、いきなり過去の微罪によって逮捕、起訴されて実刑判決を受けるという事件が起きます。
裏金づくりをリークしようとした部長の口を封じるために検察が動いたとしか思えない展開でした。
自分たちが裏金疑惑にまみれている検察に対して、自民党の裏金問題を徹底的に洗い出すのではないかと期待するほうが無理なのかもしれません。
議会は「個別利益」代表者の集合体にすぎない
司法の独立を期待するのは難しいとして、国権の最高機関たる国会はどうでしょうか。国民の代表者を選挙によって送り込む議会制民主主義こそが、多様な民意を国政に反映させるために必要だというのが私たちの常識となっていますが、果たしてそうでしょうか。
私の敬愛する政治哲学者ルソーは、はるか昔から議会の欺瞞性を鋭く見抜いていました。議会の議員たちは、「社会一般の普遍的正しさ」つまり「一般意志」の代弁者ではない、というのがルソーの考えです。彼らは、自分を選挙で選んでくれた業界や地域を代表しているに過ぎない、と。
つまり、国民全体の代表者ではなくて、個別利益の集合体、個別の欲望である「特殊意志」の集合体としての「全体意志」が議会であって、これは社会全体の人々の「一般意志」とはまったく別のものであるとルソーは看破していました。
実際、労働組合、宗教団体、地域、企業の集合体など、それぞれのノイジーマイノリティから送り込まれた議員たちで構成された議会において、多数決によって物事を決めようとしたところで、自分を支持してくれた集団の利益を守る方向に進んでいくに決まっています。
そんな「特殊意志」の集合体に過ぎない「全体意志」に、社会全体のための合理的な判断など期待できるはずもないのです。
議会制民主主義、つまり間接民主主義を提唱したのは、先ほど「二権分立」を唱えたと紹介したイギリスの思想家ロックです。
彼の思想は、のちのフランス革命における人権宣言などにも大きな影響を及ぼしていますが、そもそもフランス革命後の議会のベースにあるのは、「政府が勝手に税金を決めるな。税金を徴収される側の意見を聞け」という商売人や富裕層たちの主張でした。
税金を取られる側の理屈、つまり財界人の財産を守ることが議会の最大の関心事でした。
議会制民主主義は、金持ち階級の財産と権利をいかに守るかという関心のもとに生まれた制度であって、議会で守ろうとしていたのは、一般市民の人権や平等などではなく、既得権益であり財産。最初から、社会の普遍的な正義を守ろうなどと考えてはいませんでした。
一般意志が政治に反映されやすい「直接民主主義」
こうしたルソーの視点は、今の議会の状況を考えるうえでも非常に有効です。
つまり、候補者たちは選挙の時には一般向けに耳ざわりのいいことを並べ立ててしゃべるので、選挙の期間中だけは有権者は主権者のように扱われるし、そのような錯覚を抱かされます。しかし、選挙が終わってしまえば蚊帳の外に追いやられるだけなのです。
比例代表における自民党の得票率はたった3割程度というのはよく言われることですが、これは投票された有効票における割合の話。投票に行かなかった人、棄権した人も含めた有権者全体の割合で言うと、自民党に投票した人は2割にも達していません。
わずか5人に1人も支持していない政党が与党となり、議会で重要な政策を決定しているのが現状です。
先ほども述べたように、議会に送り込まれた政治家は、ノイジーマイノリティの代弁者でしかなく、特定の業界や党派、宗教などとは無関係な多くの庶民、つまりサイレントマジョリティの声を代弁する議員などどこにも存在しない。そのような議会が、社会全体のための合理的判断を下せない状況に陥ってしまうのは自明のことです。
一方で、ルソーが理想としたのは議会制民主主義、つまり間接民主主義ではなく、直接民主主義でした。市民が直接首長を選び、首長が権限を行使することで、市民全体にとって共通の利益となること、つまり一般意志が政治に反映されやすくなると考えた。
あるいは、大きな方針を決定するには住民投票・国民投票を行う。そうやって直接的に市民が決めていくことで、個別の既得権益に左右されない合理的な一般意志が確立されるのだというルソーの考えに、私は大きく影響を受けています。
議会の果たすべき役割は時代とともに変化していく
何が言いたいかというと、議会制民主主義と直接民主主義、どちらが正しいのか、ということではなく、両方にそれぞれのよさと限界があるのだということ。
かつ、議会の果たすべき役割は時代とともに変化しているということです。
たとえば、日本の場合、人口も増えて税収も増えていたいわゆる右肩上がりの時代、分配型の時代には、議会も一定の機能を果たせていたと思います。
黙っていてもパイが増える時代でしたから、選択と集中という政治決断は必要ない。議員たちが、地域代表や業界代表などの役割を担うことで、それぞれの分野において見落とされがちなテーマを俎上に上げていき、パイの分配を行っていきました。
社会全体であまり知られていない問題を広く知らしめる、きっかけづくりという意義もあったと思います。「こんな分野にも行政のサポートが必要ですよ」という気づきを共有してくれるというところに、各種の族議員の役割があったということです。
(泉 房穂 : 前明石市長)