2021年、四段だった頃の伊藤匠新叡王(筆者撮影)

2024年6月20日、将棋界に衝撃が走った。

無敵の王者・藤井聡太八冠が初めてタイトル戦で敗れ、全冠の一角である叡王を失ったのだ。5番勝負を3勝2敗の接戦で制したのは、藤井と同学年である伊藤匠新叡王。2人は小学3年生のときに全国大会で対戦し、負けた藤井が号泣した。

伊藤は将棋ファンにはデビュー時から知られた存在だが、一般的には今回初めてその名を耳にした人も多いだろう。

将棋界400年の歴史で最強の天才と言われる藤井聡太。彼に勝った伊藤匠とは、果たしてどんな棋士なのか。

藤井に「負けてほしいと思っていた」

伊藤は2002年10月10日生まれの21歳。5歳のクリスマスプレゼントに将棋盤と駒をもらったのが将棋との出会いだった。

その3カ月後から、宮田利男八段が開いている東京・三軒茶屋将棋倶楽部に通い始める。将棋の才能は目覚ましく、小学3年のときに全国小学生将棋大会で準優勝している。このときの準決勝では藤井聡太に勝ったが、2人が小学生の大会で対戦したのはこの一度だけだった。

藤井は小学4年で棋士養成機関である奨励会に入会した。伊藤はその翌年に5年生で入会する。奨励会は関西と関東に分かれているため、2人が顔を合わせることはなかったが、伊藤は先をいく藤井をずっと意識していた。

2016年10月1日、藤井は史上最年少でプロデビューを果たした。伊藤は奨励会員の仕事である記録係を、藤井の対局で何度か務めている。

藤井が中学3年で棋戦初優勝を飾った第11回朝日杯将棋オープン戦でも、伊藤は記録係として最も間近で対局を観ていた。そのとき藤井の優勝が近づく中、「負けてほしいと思っていた」と正直な心情を吐露している。

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叡王戦で無敵の王者・藤井聡太を破った伊藤匠新叡王(写真右)。2人の物語のはじまりは12年前にさかのぼる(画像:時事)

伊藤が棋士になったのは2020年10月1日、藤井に遅れること4年だった。「早く公式戦で対戦したい」と願ったが、藤井はすでにタイトル2つを持ち、新人の四段棋士が当たるまでには、予選をいくつも勝ち上がっていかねばならない存在になっていた。

ここまでの2人の経歴を並べると、伊藤が平凡な棋士のように感じるかもしれない。だが藤井が特別すぎるだけであって、伊藤もまた“天才棋士”であることに疑いはない。

17歳でのプロデビューは、トップ棋士になる期待値が十分に高いものであったし、また初の通年参加となった2021年度には新人王戦で優勝、そして藤井の5年連続勝率1位を阻止して年間勝率1位にも輝いた。2023年度には最多対局賞、最多勝利賞も獲得している。

デビュー時からプロ間での評価も高く、「序盤の精度はすでにトップレベル」との声も聞かれた。もし藤井がいなかったら、伊藤は間違いなく将来の棋界の第一人者として期待されただろう。そんな彼が生まれるわずか3カ月前に、将棋史をことごとく塗り替えていく男が生を受けていたのは、宿命なのだろうか。


伊藤匠叡王。撮影当時は四段(筆者撮影)

「藤井聡太も“人間”だった」

今回の伊藤のタイトル奪取を、プロはどう見ているのか? 日本将棋連盟常務理事の森下卓九段に話を聞いた。森下は羽生善治の七冠時代に挑んだ棋士であり、タイトル戦の挑戦者に6度なっている。

「私は実力的には、伊藤さんが勝っても何の不思議もないと思っていました。ただ、最初に勝つということは大変なことなんです。今から28年前に羽生さんが七冠を制覇したとき、誰もが精神的に『勝てない』という気持ちがあった。羽生さんは神に近い存在だと、どこか潜在意識に刷り込まれてしまうんですね。

藤井さんにしても『AIを超えた』とか『神の一手』とか、そうした言葉があふれることで、知らず知らずに対戦する相手も暗示にかかってしまうんです」

もちろん羽生、藤井の実力が抜けていることには違いがない。ただ森下は、それだけでなく周囲の雰囲気が、さらに勝ちづらくなる状況を生んでいるというのだ。

伊藤はこの半年間に竜王戦、棋王戦、叡王戦と3つの棋戦で挑戦者になった。1つのタイトルに挑戦するだけでも大変な中で、この実績は彼がトップ棋士への階段を上り詰めていることを表している。

デビュー1年目頃に言われたのは、序盤の精度に比べて、まだ終盤がトップ棋士とは差があるということだった。だが今回の叡王戦では伊藤の終盤での逆転が光った。注目すべきは、第5局の感想戦で藤井が自らのミスを認めながらも、「伊藤さんの力を感じた」と発言したことである。森下は言う。

「人間とAIの終盤は違うんです。AIの終盤は読む力、計算力のみなんですけど、人間の終盤はその人の醸し出している雰囲気も大きい。

たとえば、谷川浩司十七世名人の全盛時に“光速の寄せ”という表現がありました。相手が一緒になって負かされてしまうような状態になる。“2人がかりで寄せる(玉が詰まされる形になっていく)”とまで言われました」

圧倒的な力を感じさせることで、相手が自ら吸い寄せられるように終局に向かってしまうというのだ。

「終盤力は、やっぱり戦っていく中で強くなっていく。藤井さんと連戦してきて、伊藤さん自身の力がついただけでなく、周りの棋士からの『彼が指すなら正しい』という信用もついたんじゃないでしょうか。何よりも最強の相手と戦い続けることで、迫力も増していきます」

今回の伊藤のタイトル奪取で、棋士たちの意識はどう変わっていくのだろうか?

「七冠の羽生さんから三浦弘行五段(現九段)が最初に棋聖を奪ったとき、他の棋士たちに『自分にも勝てるんじゃないか』という意識が芽生えた。今回伊藤さんが勝ったことによって、藤井不敗という神話が崩れたことは大きい。どこか人智を超えた存在だったものが、藤井聡太といえども『生身の人間なんだ』と思えるわけです」


伊藤匠叡王。撮影当時は四段(筆者撮影)

藤井さんにミスをさせるというのは、すごい技術

伊藤と同じ宮田門下で、4歳上の兄弟子である斎藤明日斗五段は叡王戦第5局の中継を固唾を飲んで見つめていた。

「リアルタイムで観戦し、本当に驚いて受け止めています。藤井さんはタイトル戦では無敵の雰囲気が漂っているところがあり、そこを伊藤さんが最初に崩したという意味で驚きを隠せない感じですね。

もちろん、弟弟子に先をいかれたという意味では悔しさもあります。でも、普段から将棋を教えてくれている伊藤さんが今回タイトルを獲られたのは、自分にとってもすごい希望になりました」

斎藤は小学生時代から三軒茶屋の教室で、弟弟子の伊藤や兄弟子の本田奎六段と研鑽を積んできた。本田は2019年に棋王戦で挑戦者になり、斎藤は2022年度の年間勝率で藤井聡太に次いで棋士全体の2位につけた実績を持つ。3人の若手俊英が揃う宮田一門は、“三軒茶屋の三兄弟”とも呼ばれる。

「藤井さんがいつも通りではないという雰囲気も、少しはあったかもしれません。ただ、藤井さんにミスをさせるというのは、すごい技術だと思います。伊藤さんの局面を難しくさせる力や、粘り強い持ち味が発揮できたのだと思う」

今回の伊藤の勝利がもたらしたものはなんだろうか?

「やはり藤井さんも人間で、調子の良し悪しがあり、安心したというのは変ですけど、そういう一面もあるということを感じました。それは元からあったのかもしれませんが、今までは調子が悪いときにしっかり咎められる人があまりいなかった。今回のシリーズは、伊藤さんが藤井さんの人間らしい部分を引き出した印象がありましたね」

これからの将棋界の展望について、前出の森下は言う。

「今回、藤井さんは叡王を奪われましたけど、よほどの天才が現れない限り、4つ、5つのタイトルをつねに持っているような状況が続くと思います。誰が追ってくるか、というのが注目になりますね。

藤井さんは、羽生さんと同じで精神的にすごくタフでラフなんです。そして体力もある。2人とも将棋は理詰めですが、このメンタルによって“喧嘩ファイト”がめちゃめちゃ強い。

将棋も精神的な格闘技であることは間違いないですから、負けてガクッときて、そのまま挫けてしまうこともあれば、いろんな要素で勝とうという気持ちが出てこない場合もある。でも藤井さんも羽生さんも、つねに勝とうという意思が桁外れなんです。将棋界で随一のタフでラフは、この2人に尽きると思います」

自ら陽の光の当たる場所へと出た

かつて文筆家としても活躍した棋士の故・河口俊彦八段は、「僅差だけども永久に勝てない将棋と、大差だけれども逆転する可能性の将棋がある」と書いている。

藤井の将棋の形勢をAIが表す評価値は、緩やかに登り続け、大きな波を迎えることなく終局、勝利へと向かうことが多い。“藤井曲線”と呼ばれるその線は、河口の言葉にあるように、永久に逆転が起きないことを思わせる。これまでトップ棋士が挑んだタイトル戦で、そのような光景を幾度も目にしてきた。

伊藤は藤井の背中をずっと追い続けてきた。2人の距離は“藤井曲線”のように、たとえ僅差であっても、入れ替わることがないように感じられた。だが、巨大な枝葉の影にいた男は、力ずくでその枝を登り、自ら陽の光の当たる場所へと出たのだ。

中学時代には環境に馴染めずに不登校を経験し、進学した高校は将棋の勉強のために1カ月で退学を決めた。学校で友達を作ることもなく孤独な中でも、将棋の勉強を止めた日はなかった。自分を引っ張っているのが、藤井の存在であることにも気づいていた。

これから2人は、大舞台で幾度も戦っていくことになるだろう。伊藤はタイトルを獲った今も、変わることなく将棋漬けの日々を送っている。


伊藤匠叡王。撮影当時は四段(筆者撮影)

(野澤 亘伸 : カメラマン/『師弟〜棋士たち魂の伝承』著者)