1984年、インドのボパール市の化学工場で起こった有毒ガス事故(写真:Raghu Rai/Magnum Photos/アフロ)

複数の「正しさ」が衝突し、対立が深まる時代、人は「何でもあり」の相対主義に陥りがちになると指摘するのが、応用倫理学を専門とする村松聡・早稲田大学教授です。論理ではわりきれない問いに直面したときに“筋を通す”ための倫理とは何か? 世界最悪の産業災害ともいわれる「ボパール化学工場事故」を題材に村松氏が解説します。

※本稿は村松氏の新著『つなわたりの倫理学 相対主義と普遍主義を超えて』から一部抜粋・再構成したものです。

死亡者が2万人を超えた悲惨な事故

技術者倫理(engineering ethics)──ビジネス倫理や企業倫理とも言われる──では、企業自身がグローバル化し、さまざまな地域、国へと進出するようになるとともに、地域、国家の間にある不公正の問題が浮かび上がってきた。多国籍企業の問題、あるいは南北問題として必ずといっていいほど取り上げられるボパールのケースをみてみよう。

1984年12月、アメリカの多国籍企業ユニオン・カーバイド社が農薬を製造していたインド中央に位置するボパール市の化学工場で、有毒ガス事故が起きる。農薬セヴィンの製造過程で生じる有毒なイソシアン酸メチルが漏れ出た結果生じたものだった。

この有毒物質は毒性が強く、経口摂取すると呼吸困難、重度の場合、肺気腫、肺出血などを引き起こし死に至る。常温では通常無色の液体で、ボパールの工場でもタンクの中に貯蔵されていた。

ところが貯蔵タンクに水が混入し、発熱反応が起きてしまう。イソシアン酸メチルは沸点が39℃と低いため、温度の上昇と共に気化する。タンクの爆発により、最初の1時間で30トン、2時間ほどで40トンの有毒ガスが大気中に拡散していった。

その結果、事故翌日までに付近の住民2000人以上が死亡する。ボパールを州都とするマディヤ・プラデーシュ州は死者3787名を確認、最終的に有毒ガスが原因と考えられる死亡者は2万人を超え、2018年の時点でなお60万人ほどの人が後遺症に悩むと報告されている。

なぜ貯蔵タンクに水が混入したのか。未熟な技術者による水を使ったパイプの洗浄によるミスから、意図的な混入まで諸説あって、正確にはわかっていない。

危機管理対策にも問題があった。工場には不測の事態に備えて被害を抑える防御システムがあったが、事故当時、経費削減のため作動していない。イソシアン酸メチルを冷却し気化を防ぐ冷却システムは1982年以来操業停止していて、高温を知らせる警報は取り外されていた。

ガスを中和するために作られたガス浄化装置は待機モードになっていて、休止中。イソシアン酸メチルがガスとなった場合に焼却処分するフレア・タワー(燃焼塔)は、点検のため連結パイプを外されている。

安全のための訓練も久しく行われていなかった。本国アメリカであれば毎年行われる安全監査も行われていない。また、インド人従業員の多くは英語ができないにもかかわらず、英語の作業マニュアルの使用を求められていたらしい。

工場内と公共用の警報は連結されていなかった

警報にも問題があった。警報は2種類あり、1つは工場内の警報、もう1つはボパール市へ警報する公共用であったが、2つは連結されていない。会社内の警報のおかげで社員は避難している。一方、ボパール市民のほとんどは、ガスについて知らされず、ガスが近隣一帯を直撃した。

これが、技術者倫理の教科書で必ず取り上げられるボパールの化学工場事故の概要である。ボパールで起きた事故は、事故発生時の安全対策の不備やずさんな危機管理体制など、東日本大震災でおきた津波による原子力発電所のメルトダウンを想起させるかもしれない。しかし取り上げられる問題の観点は異なる。

事故は、ユニオン・カーバイド社の本国アメリカの安全基準に沿っていたならば、そもそも発生しなかった。アメリカで許されない、実施しない基準による操業が行われていたのではないか。

人権はどこの社会においても同じく妥当する。アメリカの労働者の人権を保護しなければならないように、インド人労働者の人権も保護しなければならない。それを怠っていたのではないか。つまり、多国籍企業の典型的な二重基準問題としてボパールの化学工場事故はまっさきに取り上げられるケースなのだ。

ナイキやアディダスでもあった二重基準

多国籍企業の二重基準はユニオン・カーバイド社に限ったことではない。

1990年代、アメリカのスポーツ用品の製造会社として有名なナイキは、インドネシアのジャカルタで、16歳以下の子供を1日わずか2ドルたらずで働かせて、運動靴を製造していた。2000年代に入っても、ドイツの有名なスポーツ用品製造会社アディダスが過酷な条件のもと子供の労働力を使ってバングラデシュやインドネシアで製品を製造し先進国に輸出している、と国際的な批判を浴びた。

ナイキもアディダスも、決して本国アメリカやドイツで子供の労働の搾取など行わない。どちらも、スポーツをする若者にとって、手に入れたい「かっこいい」ブランドであり、品質のイメージを大切にしている。それだけに発展途上国での労働の実態には唖然とするし、新たな帝国主義、植民地主義と糾弾されても仕方がない。弁解の余地はないだろう。

過酷な子供の労働や、長時間にわたる労働を強いるなど論外である。それでは、先進国と一律に労働者の権利を保護し、世界中同じ水準で労働形態を考えなければいけないのだろうか。

一方には、人権は世界どの地域においてもかわりはないのだから同じにすべきである、とする考え方がある。これは倫理的な普遍主義と呼ばれる。他方、それぞれの国、地域には事情があるからその事情と状況に応じるべきとする主張がある。郷に入っては郷に従えというわけだ。倫理的相対主義とよく言われる。どちらにも難点がある。

事件後数年して、ある雑誌に載ったボパールの被害者のインタビューを紹介しよう。

事故当時、トゥンダ・ラルは、煉瓦職人として仕事があるときは1日1ドル50セントを稼いでいた。事故の後遺症で1日数時間しか立っていられない状態で、会社からの補償金を待ちながら、時々、町中で物乞いをして糊口を凌いでいた。そんな中、彼は取材のインタビューに語っている。

もし明日工場が再開されるなら、どんな仕事でも受けるよ。1分たりとも躊躇なんかしないね。工場で仕事がしたい。ガス爆発の前、ユニオン・カーバイドのプラントはボパール中で働くのに一番いいところだったからね。

「多国籍企業は忌々しいが必要」というジレンマ

ユニオン・カーバイド社に幾多の看過できない、許しがたい落ち度、欠陥、怠慢があるのは言うまでもないが、問題は、ボパールでその工場が最良の職場だった事実にある。


厳密に先進諸国と同じ基準、同じ待遇を求めるとすれば、たとえば同じ賃金を要求するならば、企業が第三世界に進出する「うま味」はない。ボパールの化学工場事故は未然に防げたが、「ボパールで働くのに一番いいところ」もできなかった。普遍主義は、自分の手を汚さない満足に終わる可能性がある。

化学工場は、ボパールの貧しいスラム街に隣接していた。もし化学工場が閉鎖されると──先進国であれば当然これは閉鎖されたにちがいない──ボパールが困る。当初、ユニオン・カーバイド社に対するインド政府の対応も、糾弾するというよりも歯切れの悪いものだった。それもこうした事情を反映しているのだろう。多国籍企業は忌々しいが必要、これが第三世界に共通するジレンマかもしれない。

一方、力ある先進社会の下請けとして貧しい社会を依存させ従属させる構造は、植民地主義にほかならない、とする批判もおきる。だからこそ、人権、労働者の待遇、周辺の環境に対して世界中どこにおいても同じ基準を求める普遍主義の主張も生じる。

ユニオン・カーバイド社の幾多の不備は、母国アメリカでは許容されない基準を、インドでは許容範囲として、会社が採用した。つまり二重基準に基づいている。社会に相対的な基準はていのよい搾取である。ここに相対主義の問題がある。

(村松 聡 : 早稲田大学文学学術院文化構想学部教授)