「人は変われる」と言われる日まで…町田で再起をかける金明輝の挑戦【サッカー、ときどきごはん】
2023年クラブのみんなが大喜びする中に
噛みしめたような笑顔を浮かべている人物がいた
2021年、監督職を辞すると
日本全国を回って頭を下げ続けていた贖罪の日々にピッチを離れざるを得なかったが
指導の実力を知る人が再びサッカー人生に戻してくれた
この2年間、口に出せなかった思いを
金明輝氏に聞くとともにオススメの店を教えてもらった
■サッカーの名誉を傷つけてしまった
最初に2年前、2021年の話からですか。
今もね、改めて……やっぱりたくさんの方々にご迷惑をかけたという……部分があります。選手にしても……サガン鳥栖というクラブに対してもそうですし……自分は未熟だったっていう認識でいます。
S級ライセンスからA級への降級だったり……サガン鳥栖を辞めざるを得なかったっていうことで、やはり……心苦しいというか、まあまあいろんな複雑な気持ちが交錯しましたし、やっぱりね……家族、周りの人たちにすごい迷惑かけて……そういった部分もあったので。だから辞めたあと、長い間、分かってはいても、なかなか立ち直れなかったっていうのは……はい、ありましたね。
2011年に鳥栖で選手を引退して、鳥栖のスクールコーチとして拾っていただいてから指導者としてのキャリアが始まりました。鳥栖に住んでジュニアユースのコーチ、監督をして、ユースの監督になったのです。ユースの練習場は佐賀市内だったから、ユースの監督になったときに住居も佐賀に移しました。やっぱり寮の近くに住んでないと、なかなか私生活まで含めて選手を見られないということで。
それでもね、問題起きたときすぐに対応できるかという懸念があったので、ユースの寮で寝泊まりするようにもしました。それぐらいの気構えがないとユースを教えてはいけないと思いました。
当時、県リーグ所属で、そこで自分のできること、選手に足りないことをトライして、だんだん上のリーグに上がっていくことができました。選手たちも、すごく頑張ってくれたし、やっぱりジュニアユースから見ていた世代なので、選手たちの特徴を把握していたのがよかったと思います。
3年目からはスカウティングもして、中学校とのスムーズな関係性もあったので1、2年生なんかはいい選手を取れましたね。それが松岡大起や大畑歩夢、本田風智等で、それ以外にもいい選手が揃っていました。その年代をしっかりとスカウティングできて、そこからトップの監督になるまで、ユースの監督としていい経験をさせてもらいました。
2018年10月にマッシモ・フィッカデンティ監督が辞任したことでトップチームの監督になったんですが、そのとき第29節まで終わって残り5試合でした。7勝9分13敗、勝点30で17位と自動降格圏でしたし、しかも18位のV・ファーレン長崎は勝点28で勝ち点差もほとんどなく、最下位転落とJ2降格が見えていましたね。
いや、ほんとに今ならできないですね。いろんな知識がついてしまったからなおさら。そこから残り5試合を3勝2分で勝点41まで積み上げて、最後は得失点差でJ1参入プレーオフも回避できました。最終節の鹿島アントラーズとのアウェイ戦は、0-0で引き分けていたけれど時間稼ぎして、ギリギリで残留することができました。
その翌年の2019年はルイス・カレーラス監督が就任したのでコーチに戻りました。あのまま監督を続けていても力がなかったでしょうね。でも、結局5月にカレーラス監督が辞めることになって、またそこから監督を務めさせていただいたのです。結局、途中就任が2回あって変則ですけど、2021年まで4シーズン監督をやらせていただきました。
2019年が15位、初めて1シーズン指導できた2020年は13位、2021年は7位と、年々順位は上がっていたので、2022年は勝負しなければ、といったところでした。自分が未熟だった部分で、僕によって心が傷ついた人がいたと思います。それからクラブにも迷惑をかけたというところがあります。
2021年、仕事もライセンスも全部なくなってしまいました。家族もいるのですが、収入の道は閉ざされてしまって人生が真っ暗ですよ。
降級はしたけれどA級ライセンスはあったので、指導をしてはいけないということではなかったし、正直に言うとお話しをしてくださるところもありました。けれども自分の中で「みそぎ」というか、自分自身を改める時間は必要だと思っていたのです。それが1年なのか、2年なのかは分かりませんでしたけど。
2022年はまず千葉の夢フィールドで日本サッカー協会のコンプライアンス講習を受けて、ボランティア活動もしました。海岸の掃除もやりましたね。
それからハラスメント講習だったり、その他の事案だったり、すべて学び直しました。マンツーマンで1回約3時間、それを8コマ、1カ月間かけて。その間に夢フィールドではいろんな地域のサッカー協会だったり、リーグ、トレセンの会議だったり、アンダー世代の代表の活動があったので、いろいろ顔を出させていただいて「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と頭を下げていました。
自分のせいでサッカーの名誉に傷がついた、多大な迷惑をかけていると感じていましたから、みなさんに謝らなければと、自然とそういう思いになりましたね。他の人の指導を見る中でいろんな気付きもありましたし、意見を求めていただけることもあって、それは本当にありがたかったですよ。
研修が終わった後は、日本サッカー協会の方から「アンダー世代の知識とトップを見てきた経験とを使って、全国の埋もれている若くていい選手を見に行ってはどうか」というお話しをいただきました。それで全国の2種、3種、中学3年生から高校2年生までを見に行っていました。
47都道府県とは言わないですけど、北海道の中学の全国大会も含めて、青森から始まって東北、北陸、関東、中部、近畿、四国、九州とすべて行きました。そこでもう一度サッカーのよさが心に染みましたし、またサッカー界に貢献したいと思いましたし、指導者の責任は大きいというのも感じました。
そこで会ういろんな監督にも、軽はずみな挨拶ではダメだと思っていたし、サッカー界に関わっている人たちすべてに本当に迷惑かけたと思っていたので、みんなに謝罪をさせてもらいました。そのとき、前向きな声をかけてくれている人が多かったので、僕としては、本当にあの時間が一番プラスになりました。また、その方々の指導を見てまた勉強になりましたし。
鳥栖は地方クラブですが、やっぱりJクラブの監督だったので、想像していたよりずっとみなさんに僕の名前を知っていただいていました。自分自身、そんなに名前を知られていると思ってはなかったんですけど、高校生とかもみんな分かっているし。そういった部分を含めて、監督のポジションとはどういうものか、自覚が足りなかったというのは改めて気づかされました。
2022年はそうやって過ごして、12月にS級コーチライセンスを取れるかどうか判定する、「S級トライアル」を受けました。正直に言えば、一度S級ライセンスを取っていて、少なからずトライアルを受けることについての葛藤というか、取るかどうかを迷ったこともありました。S級を持っていなくても指導できるわけですし。
でもやっぱり時が経てば経つほど、もう1度指導の現場に立ちたいという思いと、もう1回、止まった時を動かしたいという思いが大きくなってきましたね。それから日本サッカー協会の人たちも「規定の過程を踏んで再度S級ライセンスを取得することについては問題ない」と言ってくださったので、受験しようと決心したのです。
2021年に関西の芦屋大学が大学生を見る機会を与えてくださったので、不定期でしたが練習を指導させていただきました。5、6年前のユースの選手と今の学生との違いなどもアップデートさせてもらって、最新の感覚にアジャストする作業ができました。その意味で、芦屋大学のスタッフ、選手たちにはとても感謝しています。
S級コーチライセンスのトライアルを受ける前には、自分の中で「昔の自分には足りない部分があった」と前向きに捉えることができていました。変なプライドが残っていたり、「なんで自分だけ」という、少しでも自分を肯定する気持ちが残っていたりしたらできなかったと思うので、それもよかったと思います。
でも僕がS級コーチライセンスを再取得することに、きっと反対意見もあったと思います。それでも「もう1回やらせてあげよう」という方がいるから受験させてもらえたわけですから。とにかく全力で、そしてどの年代よりもいいものにしようという思いで取り組むことができました。
そして「トライアル」を受けると決めたときに、FC町田ゼルビアの黒田剛監督から電話があったのです。
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