田端駅南口駅舎は山手線・京浜東北線を見下ろすように立つ。自動車などは乗り入れできず、徒歩でのみアクセス可能だ(筆者撮影)

山手線は日本を代表する通勤鉄道路線だが、全30駅の中には地元住民の乗降がほとんどのような駅もある。その1つといえるのが田端駅だ。

田端駅は1896年に日本鉄道(現・JR東日本)の手によって開業した。当初は山手線の駅ではなく、現在で言うところの東北本線の駅だった。今も田端―東京間は、正式な路線名としては東北本線の一部だ。

駅開設以前、周辺は農村然としていた。それが上野駅まで鉄道1本でつながり、街の雰囲気は大きく変わっていく。岡倉覚三(天心)が1889年、上野に東京美術学校(現・東京藝術大学)を開校していたからだ。

文士と芸術家が集った地

東京藝術大学は傑出した芸術家を多数輩出する大学である。その前身の東京美術学校も、当然ながら優れた芸術家を全国から多く集めた。

現在の上野駅―田端駅間は山手線と京浜東北線が走り、その間に鶯谷駅・日暮里駅・西日暮里駅の3駅が存在しているが、当時は山手線も京浜東北線もなく、両駅は東北本線で隣駅の関係にあった。つまり、田端駅は東京美術学校のある上野に近接しているという理由から芸術家たちにとって最高の環境だった。

こうして駅を中心に田端文士・芸術村が形成されていく。その形成過程をたどると、板谷嘉七(波山)がキーマンだったとされる。板谷は陶芸家として初の文化勲章受章者となるほどの優れた芸術家だが、青年期は彫刻家を志していた。

板谷は東京美術学校の彫刻科を卒業し、石川県工業学校(現・石川県立工業高校)に彫刻科の教師として赴任。しかし、翌年に石川県工業学校の彫刻科は廃止される。同校を創立し、初代校長を務めた納富介次郎は1873年のウィーン万博や1876年のフィラデルフィア万博に政府随員として参加。万博を経験した納富は、帰国後に窯業を振興することが日本発展につながると考え、陶芸家の育成に努めた。

板谷が赴任したとき、納富は他校へ転出していた。それでも同校は納富の薫陶を受け継いでおり、陶磁科は看板学科になっていた。そうした経緯もあり、板谷は彫刻科が廃止された後は陶磁科の教員として同校で指導を続けた。こうして板谷は彫刻から陶芸家へ転身し、1903年には同校を辞して田端へ移住。すでに陶芸家として活動を始めており、その才能は田端で花開いていく。

板谷が田端に居を定めた頃から、芸術家・文士が続々と田端へと集まってくるようになった。1911年には直木三十五、1913年には岡倉天心、1914年には芥川龍之介、1916年には室生犀星、1923年には菊池寛など数えきれない。変わったところでは、ステンドグラス作家の小川三知が1912年から没するまで居住している。

先述した東京美術学校出身者では、滝野川町(現・北区)の町会議員も務め鋳金の第一人者でもある香取秀治郎(秀真)、さらに息子で鋳金作家として人間国宝になった香取正彦、彫刻家の吉田三郎、洋画家の吉村芳松などが居住した。

田端に集った芸術家・文士は、ここを終の住処にしたわけではない。わずかな期間だけ居住したり別宅として使用されたりしたケースも少なくないが、多くの芸術家・文士が集まって切磋琢磨し、それが優れた作品の誕生につながったことは間違いない。

明治期は大ターミナルだったが…

田端駅が開設された約半年後、日本鉄道は土浦線・隅田川線(現・常磐線)を開業した。土浦線は1901年に海岸線と改称し、国有化後の1909年に常磐線となる。当初の海岸線は田端駅を経由していた。さらに、常磐炭田の石炭や日立鉱山の銅などをスピーディーに横浜港へと運搬することが求められたこともあり、1903年に田端駅と品川線を結ぶ支線の豊島線(現・山手線の田端駅―池袋駅間)が建設された。


田端駅の一帯には、鉄道八景と名付けられた鉄道関連の展示物が点在する(筆者撮影)

豊島線の完成によって、田端駅は3路線が乗り入れる当時日本屈指のターミナル駅になった。これほどの巨大ターミナルなら、田端が大発展すると誰もが思うことだろう。しかし、その後は予想に反して都市開発の潮流から取り残され、発展とは無縁な歴史を歩んでいく。それどころか、歳月の経過とともに段階的にターミナル機能を喪失していった。

まず姿を消したのは海岸線の旅客列車だ。上野駅が始発駅の海岸線は、その次が田端駅。そこから南千住駅へと向かうが、そのためにはスイッチバックをしなければならなかった。同様に南千住駅から走ってきた列車が上野駅に向かうには、田端駅でスイッチバックとなる。

現代の電車はスイッチバックに多くの時間を要しないが、当時の列車は蒸気機関車牽引のため機関車の付け替え作業を伴う。日本鉄道は多大な時間を要するスイッチバックを省略するべく、田端駅を経由しない路線を計画。1905年に日暮里駅―三河島駅間を結ぶ短絡線を完成させた。同線の完成で、海岸線の旅客列車は田端駅に発着しなくなった。それでも田端駅―南千住駅間の貨物線は生き残った。それが新しい顔になっていく。

明治後期から、政府は工業立国を目指して製造業振興の旗を振った。多くの工場が京浜工業地帯で操業し、それらの工場には常磐炭田の石炭や日立鉱山の銅が供給された。日本鉄道の海岸線と豊島線はこれらを結ぶ重要な役割を果たす路線になる。

一見すると日本鉄道の貨物列車は遠回りしているように思えるが、当時は上野駅―神田駅間が未開通のため、京浜工業地帯へと物資を運ぶには田端駅から池袋駅へと迂回するのが最短距離だった。こうした背景から田端駅は貨物の要衝地となり、1915年には面積9万3000坪、線路長は2万mという広大な田端操車場が開設される。同操車場は敷地の広大さだけでなく、日本初となるハンプ(人工的に勾配を設け、重力で下る貨車を仕分けする施設)が設置されるなど、最新鋭の設備があったことも特筆される点だろう。

操車場開設が変えた街の姿

操車場の開設は、田端に一大変革をもたらす。広大な操車場は街を南北に分断するので、その対策として開設前の1913年に江戸坂跨線橋と呼ばれる歩行者専用橋が架橋された。同跨線橋によって駅南北の往来は確保されたが、駅舎は移転。それまでは現在の南口付近に所在していたが、新しい駅舎は約500m北西に移設された。これにより動線が変わり、それは街にも影響を与えた。


現在、元田端操車場の敷地は大半が新幹線の車両基地になっている(写真:tarousite/PIXTA)

貨物の要衝地となった田端駅は、1923年の関東大震災で本領を発揮した。地震で都心部の駅は壊滅。上野駅は倒壊こそしなかったが、その後に起きた火災で焼失した。その数時間前、同駅には多くの避難民が押し寄せていた。駅構内は人であふれ、それを危険と判断した上野駅長は一部の避難民を列車で田端駅まで退避させた。広大な操車場が避難場所に適切だったからだろう。田端まで退避した避難民は一命を取り留めている。

田端駅は震災後もフル活用された。政府は家屋や仕事を失った被災者に対して、地方への疎開を推奨。疎開は無賃乗車が認められ、多くの被災者が地方へと移った。その際、上野駅は震災で焼失していたので、田端駅が地方への出発駅としての役割を担う。さらに、地方都市から届けられる救援物資の受け取り場所としても同駅と操車場は大いに機能している。

関東大震災は東京市(現・東京都)に大きな損害を与えたが、他方で周辺部の都市化を促した。荒川遊園(現・あらかわ遊園)や尾久三業地がある尾久町(現・荒川区東尾久・西尾久地区)は東京郊外の行楽地だったが、震災後は宅地化が一気に進展。尾久町に隣接する田端もそれに伴い宅地化が進み、人口は急増した。宅地化は街の様相を変え、駅からの動線も変化した。

現在の田端駅には北口と南口があり、多くの乗降客は北口を利用している。北口には小さいながらも駅前広場やロータリーがあり、駅ビルもある。一方、南口は自動車が乗り入れできず、徒歩のみでしかアクセスできない。その雰囲気は時間が昭和で止まったかのようなたたずまいで、とても日本を代表する路線・山手線の駅とは思えない。しかし、関東大震災が起きるまでは、南口側が街の玄関口として機能していた。それが、震災以降は尾久町に近い駅北側エリアの人口が増えていく。


田端駅北口駅舎は2008年に建て替えられて駅ビルがオープンした(筆者撮影)

街の玄関は南口から北口へ

1929年、田端駅は再び変化を突きつけられる。東北本線の運行本数が増えたため、その対策として列車線(東北本線)と電車線(京浜東北線)の線路を分離。この際に列車線の駅として尾久駅が新設され、それまで田端駅に発着していた東北本線と高崎線の列車は尾久駅経由に変更された。こうして、田端駅は電車線だけの駅になった。それと同時に、駅舎は以前の場所へと戻されている。

1935年には、駅に面した道路の切り通しが開削された。同時に、それまで歩行者専用跨線橋として利用されていた江戸坂跨線橋を廃止する代わりとして田端大橋が架橋された。これにより、田端駅の玄関機能を北口が担うようになる。

田端大橋は、鉄道省出身の技術者だった田中豊が設計を担当した。もともと田中は橋梁のエンジニアではなかったが、関東大震災の復興事業で人手が足りないとの理由から橋梁の設計を担当させられる。そこで田中は才能を開花させ、相生橋・永代橋・蔵前橋・駒形橋・言問橋・清洲橋といった隅田川橋梁群を手がけた。これらの橋梁は、現在も美しいデザインとして語り継がれている。

その実績から、田中は東京帝国大学の教壇にも立つようになった。そして、1933年に鉄道省を退官して東京帝国大学の教授に転身。田端大橋の設計依頼は、退官から2年後に打診されている。

それまでの鋼橋はリベット留めと呼ばれる技術で接合されてきたが、田端大橋は最新技術の全溶接接合が用いられた。時代の最先端技術で架橋されたことを踏まえると、田端駅に寄せられていた期待の大きさがうかがえる。

田端大橋は1987年に新田端大橋が架橋されたことで自動車橋としての役目を譲り、田端ふれあい橋へと改称したが、取り壊されることなく、現在も歩行者専用橋として多くの住民・来街者に利用されている。


田端駅北口。切り通しが開削されたことにより、田端大橋が架橋された。手前に写っている道路が新田端大橋(筆者撮影)

田端駅は戦火で焼失し、街も焼け野原となった。1945年、東京は都心部から優先的に復興事業が進められた。東京は焼け野原になっていたので後回しにされた地域も多いが、田端駅は応急処置的ながらも例外的に復旧が推進された。それは同駅が有する貨物機能の早期回復が望まれたことが理由だが、旅客列車においても山手線と京浜東北線の分離といった大改造が実施される。

現在、山手線と京浜東北線は別々の線路を走っているが、かつては同一の線路を走っていた。同じ線路を両者が交互に走ることで施設を効率的に使える一方、運転本数を増やせないというジレンマを抱えていた。輸送力は限界に達していたこともあり、国鉄は両線の分離運転を計画。1949年から工事が始まり、1956年に完了した。これによって、田端駅―田町駅間は山手線と京浜東北線が別々の線路を走るようになった。

影は薄くても重要駅

駅そのものは主に貨物輸送で存在感を発揮したものの、田端の街は戦災復興でも区画整理が進まず、細分化された土地が多く残っていた。そうしたことから、東京のあちこちが開発に沸く高度経済成長期やバブル期といった時代においても大規模な再開発が実施されることはなかった。

一方、1993年11月には、駅前に田端文士村記念館がオープン。現在、地元・北区は芥川龍之介旧居跡地の一部を買い取り、同地で記念館の整備を進めている。


田端駅北口に1993年に開館した田端文士村記念館(筆者撮影)

こうした文化的な開発が進められる一方で、駅には長らく商業開発の機運が芽生えることはなかったが、国鉄の民営化によりJRが発足し、JR東日本が駅ビルやエキナカといった駅を中心とする開発を加速した頃から、少しだけ風向きが変わり始めた。これは2008年に駅ビルとして結実するが、それでも山手線の駅としては小規模な開発にとどまっている。


田端駅北口には2022年に東京支社から改称したJR東日本の首都圏本部がある(筆者撮影)

そんな街の様子から、田端は山手線の中でも影の薄い駅として扱われがちだが、JR東日本が首都圏本部を置いていることからもうかがえるように、重要性は開業時から変わっていない。


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(小川 裕夫 : フリーランスライター)