1949年、台湾から同年の最後の引き揚げ者246人を乗せた日本丸が8月14日に佐世保港に入港した(写真・共同)

8月15日、日本はまた敗戦の日を迎えた。同時に、台湾など植民地にいた日本人や元日本人にも8月15日は人生での大事件となっている。ここでは、台湾で敗戦を迎え、その後ようやく「帰国」、東京大学から文部省(当時)に入省した光田明正さんの激動の人生と経験、中華・中国と台湾との関係を証言する。

光田明正さんは戦前の日本統治下の台湾に生まれ、文部省(当時)で留学生課長、学術国際局審議官などを歴任。国際交流基金常務理事や長崎外国語大学学長を務めた日本の国際化に貢献した第一人者である。

祖先は中国大陸の福建から台湾に渡り、日清戦争をきっかけに日本国籍を選択した台湾人。日本が台湾を統治するにあたり、政府は住民らに国籍選択をさせたが、光田さんの祖先は、近代化に成功した日本で日本人として生きることを選択する。

敗戦まで大日本帝国の領土は、北は樺太から千島、西は朝鮮半島、南は台湾から南洋諸島(委任統治)を含んでいた。日本はむしろ敗戦によってさまざまなルーツや文化と日常的に接する機会をなくしたと言える。当時、光田さんら台湾人は「本島人」と呼ばれていたが、現代風に呼称するなら何々「系」日本人、つまり台湾系日本人と呼べるだろう。

敗戦で中華民国国籍に変わる

光田さんは自身のことを次のようにはっきりと言う。

「戦後の一時期、現実の国際政治上は日本国籍でない時期があったが、自分はずっと『日本人』だった」

光田さんの父方の黄家は、1744年に中国大陸の福建から台湾に渡った資産家一族で、農場主として財を築いた。一方で、曽祖父は官僚登用試験である「科挙」で合格するなど、当時の知識層の一族でもあった。

母方の林家は、同じく福建のアモイの出身。長老派のクリスチャン・ファミリーで、祖父は英語を解し、イギリス系「ジャーディン・マセソン商会」(怡和洋行)に勤めていた。日本が台湾を植民地化する前に台北支店に転任となり、台湾に移っていた。

光田さんの両親は、日本の台湾統治が軌道に乗った後に生まれている。そのため、自らを日本人として疑うことなく生活し、父親は1928年に東京商科大学(一橋大学の前身)、母親は1930年に日本女子大学を卒業した。

光田さん自身は1936年に生まれ、台北幼稚園から台北師範付属小学校へ入学。家庭内では日本語で会話し、友人も日本人ばかりで、いわゆる差別をされたことや感じたことはなかった。

ところが小学校在学中に敗戦を迎える。国籍選択のあった頃とはうって変わって、否応なく日本国籍を失ってしまったのだ。中華民国国籍となり、国民政府の教育を行う建国中学に入学することになった。

教室での用語は日本語から中国語の世界に変わったが、同級生らとは教師の目を盗んで日本語で会話していた。後にこの時の実体験に基づく言語の接触は、国の留学政策を取りまとめる仕事で大いに役立つようになる。光田さんは著書で次のように記している。

「私は、英語、ドイツ語、フランス語を学んでいる。カナダに留学し、パリに3年住んだことがある。他方、私は生まれ故郷、台湾の通常の福建語(閩南語)は、17歳まで生活用語として用いていると同時に、北京語も台北での中学・高校を通して学習用語、学校での通常会話用語として用いてきた経験がある。この経験を通してみると、北京語と閩南語の距離は、英独の間よりはるかに大きく、英仏の距離にも匹敵するものと感じられる」(『中華の発想と日本人』講談社、1993年)

1947年2月28日に発生した「2・28事件」(大陸から来た人に対する台湾人虐殺事件)に代表される、戦後中国大陸から渡ってきた外省人と呼ばれる中国人の台湾人へのさまざまな迫害が起きたため、日本人と認知して日々を過ごしてきた光田さん一家は、日本へ渡ることを考える。

しかし、国民党政権下の台湾でパスポートを取ることは容易ではない。親戚や友人らのさまざまな伝手を頼って何とかパスポートを入手すると、そのまま日本大使館でビザを取得。一家はすぐに飛行機で日本に向かった。

すぐに日本国籍に変えられなかった

1953年、当時17歳の光田さんは、日本に到着したらすぐに日本国籍に戻れると思っていたという。しかし、戦後の日本は彼らを日本人とは見なさず、「5年以上」居住しないと国籍取得の申請ができなかった。そもそも国籍は勝手に中華民国国籍に変えられたのにもかかわらず、だ。


光田明正さん(写真・高橋正成)

戦後の価値観の大転換で、自分たちはいつの間にか日本人ではなく「外国人」になっていた。今でも光田さんは理解に苦しむ変化だったという。そのような中、私立の國學院大学久我山高校がなんら分け隔てなく受けいれてくれたことは大きな喜びだった。

その後東京大学に入学し、卒業間際の1959年に一家の国籍取得が認められた。翌年、文部省に入省。心に決めたのは、人を育て、東洋の伝統的価値観である儒教などの学問を中心とした人材育成を実践することだった。さまざまな文化や言葉に接していたからこそやり遂げたい仕事だった。

光田さんの考え方の中でとくに注目したいのは、文明圏の人々としての「中国人」、あるいは「中華」という考えと、国民国家あるいはその人々の「国民」を指す「中国」や「中国人」は明確に違うという点だ。

それは、光田さんの先祖が中国大陸出身ではあるが、自身や家庭が台湾にあったことで、よりはっきりと区別できる状況にあったことが考えられる。つまり住民の意思をまったく顧みずになされたアメリカのルーズベルト大統領らの「カイロ宣言」で、台湾の中国帰属が一方的に宣言されたことや、今日の中国政府が強硬に主張する「台湾は中国の不可分の一部」という主張には、実体験による「ノー」を光田さんは突き付けているのだ。

光田さんは今も少年時代に学んだ明治天皇御製の和歌「新高の山のふもとの民草も/しげりまさると聞くぞ嬉しき」を心の支えにしている。また常々、「日本人がしっかりしないと、喜んで自ら日本人となった母や祖先がいたたまれない」と語る。

かつて「一視同仁」として他民族の文化を尊重し、日本人として扱っていた頃を忘れたのか。今の日本人に問いたい光田さんの本音ではないだろうか。

「台湾からの大陸への投資について、『言語が同じ……、親戚がいるから』という報道を見かけることがある。私にとっては理解しにくい説明である。滑稽でさえある。福建語を母語として共有する福建人の親戚がいるとしても、台湾人にとっては、日本統治下の五十年近くを念頭においた場合、それは観念的な、少なくとも四、五世代前に戻っての親戚である。大半は、それよりはるか前の移民の後裔であるから、日本の語感で言う『親戚』にはあたらない。二百年以上前に分岐した者同士も親戚であろうか」(前掲書)

また光田さんは、戦前のほとんどの漢民族が日本に反対する「抗日」勢力に属していたにもかかわらず、台湾はこの陣営に加わらなかった。それどころか日本国民として中国大陸や東南アジアに出て行った。そして漢民族としての古い歴史を共有するかもしれないが、1895年の下関条約以降は近代国家の国民として中国大陸の人々とは異なる道を歩んだと述べている。

そして、日本人が見落としがちな、文明は1つだが文化は多様であること。また大きな文明圏と付き合う際にマクロ的に文明圏を貫くものを見出す努力と多様性に目を向ける必要性を訴えている。

中国でも漢族とウイグル族とは違う

例えば中華料理はフランス料理やイタリア料理とは明確に違う。この違いは文明と置き換えることができる。一方で、中華料理の中にも四川料理があり、広東料理があり、浙江料理がある。これらは文化に相当する。

これら多様な文化に通底するものは何か。各文明圏の中核的共通性、その中での多様な文化の独自性の探求が、文明を理解することであり、多様な文化との付き合い方だということだ。

国際情勢が大きく変化する現代において、光田さんが発した1つひとつの言葉と意味をしっかり考えたい。ちょうど2023年4月21日の衆議院千葉5区補欠選挙で自由民主党の英利アルフィヤ氏が当選した。彼女は日本生まれで、ウイグル人の父とウズベキスタン人の母を持つ。そのような経歴にさまざまな声が上がっていたが、光田さんは次のように語った。

「英利氏は完璧な日本語を使う。まぎれもなく日本国民である。しかし、両親より受け継いだ文化があるはずであり、それは日本文化をより豊かにするプラス要素として、社会的働きをすれば、他人にはできない貴重な貢献ができる。素晴らしいことではないかと期待する」という。

また「一方、メディアはご両親について『中国ウイグル自治区出身』と報じることが多い。現在、ここは漢族も多く住んでおり、ウイグル族か漢族かを判断することは難しい。英利氏は、『アルフィヤ』という名前からウイグル族と推測できるが、ウイグル族(イスラーム文明圏)と漢族とでは異なる文明を背景に持っている。メディアはこの点に注意して報じたほうが良いと思う」と忠告した。

(高橋 正成 : ジャーナリスト)