終戦時の首相だった鈴木貫太郎(写真:近現代PL/アフロ)

海軍大将や学習院院長を務め、昭和天皇の「人間宣言」の文案作成にもかかわるほど、天皇から信頼を寄せられていた山梨勝之進。その山梨が最晩年に力を注いだのは、海上自衛隊幹部学校で行った講話でした。その講話録の中から、今回は終戦時の首相だった鈴木貫太郎のエピソードをお届けします。

※本稿は『歴史と名将 海上自衛隊幹部学校講話集』から一部抜粋・再構成したものです

鈴木貫太郎のような立場になった人はいない

先刻承ると、切りつめた時間にきわめて組織的に教程を組んでおられるので、2回にわたる時間が惜しい大事な時間であり、それをいただいては済まんのではないかと思いますが、1カ月ほど前、鈴木貫太郎大将の伝記がでましたので、その記念祝賀会がありました。その席で迫水久常元経済企画庁長官から、あなたが海軍を代表して、鈴木大将に対して何か挨拶して下さいとの依頼があり、6、7分話をしました。

鈴木大将がどういう立派な仕事をし、どんな功績があったか、それは、どんなに偉い人であったかということは、世界各国の歴史に長くその名が残ることでしょうが、私としてはわれわれの教官であり、海軍の人であるという見地から、かつては双眼鏡を手にとって、ブリッジから海を眺めた人である鈴木大将に対して、一言感謝の辞を捧げたいと思ったのでした。そのときの話を取捨選択して、申し述べたいと思う。

鈴木大将は私らの教官であります。日本の昔の海軍の用兵の話をするときにまた出ますが、永い日本の歴史において、鈴木大将のような立場になった方は他にはないと思う。

もともとが将軍でして、戦をして敵に勝つのが務めで、またかつてはそのとおりであったのですが、あのような最高の舞台で、戦(第二次世界大戦)をやめる立場にたった。戦をやって勝利をうるのが将軍の一面であり、戦をやめるのが他の一面で、どちらが難しいかというと、場合によってはあとの方が難しいということができる。

しかも将軍は政治・外交は嫌いで、その方面には野心もなければ、興味もない純粋な立派な武人です。運命の皮肉がそうしてしまったのです。どうしてあれができたか。それは鈴木将軍が沈勇大胆な武将であったから、あのときにやめることが可能であり、日本の陸海の全軍が、若干の抵抗はあったにしても、ついてきたのだと信じて疑わない。

これは米内光政海軍大臣の力が非常にあずかっていたわけです。また陛下のことは申すまでもないことです。

しかし鈴木大将のあの貫禄があってこそ、押し切れたのです。あれがもし普通の文官の方があの地位にあったら、軍は収まらなかったろうと思う。

「あんな臆病者の勇気のないものが戦をやめろと言っても、降参するものか」と言ってやめるものではない。いわゆる「鬼鈴木」と言われ、勇気と胆勇では、日本一看板づきの人がこうだからというので、その押しと貫禄で、陛下の御決定までいったと思われ、実に歴史始まっての第一人者であると思う。

三方ケ原の戦が好きだった鈴木貫太郎

鈴木大将は何かを考えて、故意にそうあったのかどうかはわからないが、最後まで三方ケ原の戦のことが好きで、当時よく左近司政三中将あたりと、三方ケ原の戦のことを話しておられた。

三方ケ原の戦はむろん陸戦ですが、なぜに好きであったかということを、私も少し考えてみた。

三方ケ原の戦は徳川家康が30歳のときで、武田信玄の全盛時代、信玄の死ぬ半年前です。そのとき信玄の率いた軍勢は4万と言われているが、実際来たのは2万から3万の間で、信玄は脂ののったいわゆる日本一の信玄で、浜松の北にやって来た。

ところが徳川家康は30歳で、兵8千をもって「自分の部屋に入ってきて、枕をけっていく乱暴者があるのに、黙って見ておるくらいならば、自分は弓矢を捨て、鎧を焼きすててしまうんだ。じっとしておれるか」と言う。

織田信長が非常に心配して、日本一の信玄では危ないから、決してとりあってはいけない。浜松を捨て岡崎まで逃げろとすすめた。そして平出監物ほか1名、合わせて2人を将として援兵をよこした。

家康は何と言われても、私には考えがあるから、御厚意は有難いが心配無用だと言って戦った戦です。むろん負けたが、立派な名誉ある負け方で、兵を引いて浜松に夕方入って来たのですが、信玄の方も、小荷駄が十分ないから兵を引いて行った。

家康の訓練の行き届き方は底知れない

浜松まで全軍引き上げ、家康は城中に入って、門を開き、ある侍大将の妻君が粥を出したのを満腹するまで食べて、ごうごうといびきをかいて熟睡した。そこへ山縣三郎兵衛昌景と馬場美濃守信房が馬をならべて門まで追って来たが、門が開いてもの静かなので止まり、中に何があるかわからない、伏兵があるだろうというので引き揚げて帰った。

帰ってから真田昌幸にこの話をしたところが、「あなたがたはしくじった。諸葛孔明が門を開いて琴を弾きながら、司馬仲達が追っかけてきたときにやった計略、そして仲達がおそれて逃げた話を覚えているか。もし中へ入っていたならば徳川公を虜にできたのに」と言われて、2人は「ああそうだったか」と言ったという軍談がある。

また馬場が、たんねんに戦場にある徳川方の死骸を調べてみると、北を向いているものはみなうつ伏せになっており、南を向いているものはみな仰むけになって倒れている。

突進したものばかりで、誰1人として逃げたものはない。全力をつくした証拠である。家康の訓練の行き届き方は底が知れんですと、馬場美濃守が信玄に言ったということになっている。鈴木大将はこの話が好きでしようがない。

鈴木大将はどちらかというと、海軍の名将としては、ネルソンよりも、アメリカのファラガットの方に、感じと肌ざわりが近い。陸ではナポレオンではなくて、ウェリントン型と申したい。

ちょっと見たところ村夫子然として、田舎の村長のような感じでした。「おれは勇気満々だ」という感じではなくて、渋い地味な方で、偉いんだとか、元気なんだというふうなところはない。田舎の村長が袴をはいたような感じの方でした。そして無限の勇気を包蔵しているところは、実に東洋型だと思うのです。

学者であり、哲学者である曾国藩のこと

関連して申したいのが、学者であり、哲学者である曾国藩のことです。この人は清朝末期における中国の大政治家であり、大学者、大軍人でありまして、非常に偉い人でありました。

ここに『康熙字典』以上の辞典を書いた諸橋轍次(編集部注。1883〜1982。漢学者。『大漢和辞典』を完成させたことで知られる)という人の『経史論考』という立派な本があるが、これに軍人としてではなくて、むしろ学者としての曾国藩のことが書いてある。

その終わりのところに兵学者、軍人としての性格に対して、価値ある記事がのっている。そのなかに「千古兵を知るは諸葛孔明」とあります。孔明は中国の何千年の歴史において、名将としてまた立派な人です。敵の仲達でも、孔明を天下の鬼才であると褒めている。

それ以外では王陽明とこの曾国藩が哲学者であり、軍人として立派な人です。2人とも学者の方が本職であるが、名将としても2人とも劣らない事績がある。

孝明天皇の嘉永4年(1851)に、中国に長髪賊の乱(太平天国の乱)が起こった。洪秀全という人が、「自分は神様の次男だ、キリストは長男で私が次男だ」と言い、髪を長くして長髪賊といった。これが約15年の間、中国の18省中16省まで侵して、大変な騒ぎであった。

そのときこれを平らげたのが曾国藩である。兄弟で働いた。米人のワード、英人のゴードン将軍を招聘して平らげた。この人の思想は「用兵は道徳を基とす」と言っている。また「克己の二字は特に身を束ねるもののみにあらず。すなわち治国平天下、何ぞこの二字の力にあらざるなき。すなわち用兵に至りてもまたかくの如し」、用兵は克己だというのです。

1つの達見と言わねばならない。いちばん危ないのは名誉心だというのです。これを非常に戒めている。長い戦になると、指揮官は名誉欲を抑えなくてはならない。それを克己と言っている。

また「兵はやむを得ずしてこれを用う。あえて先とならず」、兵は決して自分から始めてはならないということです。「兵は陰事なり。哀惜の意、親喪に臨むが如し」と、これは、戦争は親の葬式のようなつもりでやらねばならないものだ、というつつしみのことなのです。

曾国藩の用兵は道学からきている

西太后の評によると、「曾国藩の用兵は力を兵法に得るにあらず。すなわち力を道学に得たり」と。西太后というのは文宗皇帝の皇后で、有名な利口な政治家です。


外国には西太后とか、則天武后、カザリン二世(編集部注。エカテリーナ2世)とか、女でこういう人がときどき出ます。日本にはそんな人が出なくて結構なんでしょうが、この西太后が長髪賊に困りまして、曾国藩によって平定したのですが、その曾国藩の用兵は、力を兵法から得ているのではなくて、道学からきているというのです。

道学というのは宋学の周敦頤、程明道(編集部注。姓名は程邕)、程伊川(編集部注。姓名は程頤)および朱晦庵(編集部注。姓名は朱熹)からきている。

こういう考え方は孫子、呉子とも違い、むろん欧州のクラウゼヴィッツの有名な兵学とは、兵学の考え方が根本から違っている。深く研究すると、曾国藩の用兵の核心が得られると思うのです。

何でこういうことを言うかというと、鈴木大将はこういう肌なんです。鈴木大将は道徳的な考えの勝った人でした。ナポレオンは幾何学的戦略ですが、そういう欧州風でなくて、われわれの先祖が親しい東洋流の、場合によっては、仏教の禅のにおいと香りの感じのある人である。鈴木大将はあとからも述べることもあると思うが、そういう偉い人であります。

(山梨 勝之進 : 海軍軍人)