ある陸軍少尉が所属した特攻隊。その訓練にまつわるエピソードをご紹介します(『生きのこる 陸軍特攻飛行隊のリアル』より)

父、山本琢郎の遺品の中に経歴書があった。基本的に細かく記述されていたが戦時中の部分のみ、

昭和18年10月1日 仙台陸軍飛行学校入校
昭和20年8月18日 召集解除ヲ命ゼラル

と、たったの2行だけだった。

だが、遺品の中には「振武特別攻撃隊 天翔隊 陸軍少尉 山本琢郎」と書かれたシルクのマフラーがあった。琢郎は陸軍少尉で、しかも、いわゆる「特攻隊」。生前、母も含めて家族全員、父から戦時中の話は一切聞いたことがなかった。私はその2行の行間を読み解くため、猛烈に調べ始めた……。

「死ぬための操縦訓練」の足跡を追い、78年前の真実にたどりついた山本一清。さんの著書『生きのこる』より一部抜粋し、特攻隊にまつわるエピソードをご紹介します(前編)。

650機が特攻投入

父 山本琢郎 熱望する 昭和19年 晩秋

昭和19年7月、マリアナ沖海戦敗北に続いてサイパンの玉砕で、マリアナ諸島を喪失するに至り、大本営はフィリピンを死守する捷号(しょうごう)作戦を立案した。

立案に当たって「これまでの魚雷や爆撃による方法では敵航空戦力の圧倒的に有利な状況に対抗できない、これからは体当たりという航空特攻戦法を採用すべきである」との考えにまとまった。


山本琢郎 大正11年12月18日生(『生きのこる 陸軍特攻飛行隊のリアル』より)

千島から中部太平洋の守りを固めるという絶対国防圏がサイパン玉砕により崩壊し、代わって企画された捷号作戦に含まれたのが、体当たり攻撃なのである。

陸軍では航空機による特攻は昭和19年11月、鉾田(ほこた)教導飛行師団で編制され、フィリピンに送られた万朶(ばんだ)隊が最初である。

大本営は万朶隊の戦果を華々しく報じた。こうして、フィリピンでは約650機が特攻に投入された。そのうち3割弱が命中もしくは有効な損害を与え、米軍を震え上がらせたのである。

訓練を受けていた特操生(特別操縦見習士官)が全員、格納庫に集められた。「戦局打開のために、特別攻撃を実施する作戦が計画されている。これから各人の特殊任務に対する決断をとりまとめるので、配布した紙に階級、姓名を記入し、所信欄に丸を付けて夕食までに提出すること」


左は父の琢郎、右は仲の良かった戦友、松海孝雄。この後、2人の運命は大きく変わってしまう(『生きのこる 陸軍特攻飛行隊のリアル』より)

配られた紙には、

・希望する

・希望せず

・熱望する

とあった。解散になったが、一同は呆然と立ち尽くしていた。特殊任務という重要なことを言われたが、どう重要なのか、理解できないでいた。

「どう、理解したらいいんだろう」。松海(まつみ:琢郎と同じ特攻隊に所属し、仲の良かった戦友)がおそるおそる琢郎にきくのだが、琢郎も返事のしようがない。

「これは爆弾を積んだまま、敵に突っ込んでいくことじゃないのか」

誰かが叫んだ。兵舎の中がざわめいた。やがて、重苦しい沈黙が兵舎の中に満ちた。

敵艦船へ体当たり攻撃

と号作戦 上田陸軍飛行場 昭和20年1月

昭和20年1月19日、陸海軍大本営は天皇に作戦計画大綱を奏上し、全軍特攻を行う旨を説明した。ついで、1月29日陸軍中央部は「と号部隊仮編成要領」を発令、天皇の命令で戦闘する「戦闘部隊」とは別に、志願によって戦闘に参加する「特攻部隊」が編制されるようになった。「と号」とは、敵艦船への必中必殺の体当たり攻撃である。

そして、2月6日参謀本部は「と号要員学術科教育課程」を示達し、特攻攻撃要員の育成に努め始める。

こうして、2月に入ると、上田飛行場でも特攻隊要員の訓練が始まった。訓練に来る特攻隊要員は、たいていはどこかの教育隊から十数名がやって来て、2週間ほど訓練して、いずこかへ去って行った。

特攻訓練は軍でも特別な扱いであるので、隊員に対しても別扱いだ。どこからかやって来て秘密で訓練し、また他の飛行場へ行って訓練する、といった具合である。彼らはごく限られた分教所の上層部から「と号飛行隊員」と呼ばれ、基礎訓練生とは別棟の兵舎で生活し訓練していた。

3月半ばになると、フィリピンは米軍の手に落ち、米軍が慶良間(けらま)列島(沖縄県那覇市より西方約40キロ)へ上陸を始めると同時に、大本営は本土防衛作戦として「天号作戦」を展開した。沖縄に航空戦力を集中する作戦である。

陸海軍はこれまでにない大規模な体当たり特攻を始めるのである。

陸軍の特攻隊は、台湾に配置された第八航空師団の指揮下にある「振武隊」を称する隊と、陸海軍の申し合わせにより、海軍連合艦隊の指揮下に入る「誠」を称する隊があった。「振武隊」は国内の、主に鹿児島県の知覧(ちらん)飛行場と、知覧の近くに急遽作った万世(ばんせい)飛行場から発進した。「誠」は主に台湾の基地から発進して沖縄へ行くのである。

沖縄戦においては、4月1日から米軍の怒濤のような上陸が始まり、これに対応するように海軍は菊水一号作戦で約390機を、陸軍は第一次航空総攻撃で約130機を投入して体当たり突入作戦を開始した。

30度の角度で突入

教官 遊佐卯之助准尉 薄暮と早朝の訓練 昭和20年4月

上田分教所の遊佐卯之助准尉は、下士官ながら将校と同等の扱いとなる上級職を命ぜられ、操縦士教育の助教の任についている。

「第一航空軍で編制された特殊任務の隊のうち、一隊の半数5名を預かることになった。早速教育隊を編制し、受入準備を進めるように」

3月初めのことである。遊佐は教官室の机で教育訓練計画書の作成に没頭していた。計画書には「と号」と書いてある。特攻要員の訓練で、遊佐はその教育を命ぜられたのである。

遊佐は教育要領書から訓練内容を拾い出し、自分の経験から訓練内容を書き込んだ。地図を広げ、実際の訓練に適した空域を探し、いくつか候補を選んで地図上に記入した。こうして遊佐は主任教官に教育の趣旨を説明した。

「ここの飛行場での訓練は、降下攻撃、急降下攻撃及び水平攻撃がありますが、水平攻撃は海がないのでできません。ピスト(訓練指揮所)の前に目印の白い布を設けて、これを目指して急降下の訓練を行うのがよろしいかと」

「先ず慣熟飛行でわが飛行場の周辺について知ってもらいます。また、敵機の攻撃を受けた時のために空中戦の訓練を行います。また、敵艦船に至るには相手に悟られないように払暁(ふつぎょう:明け方)や薄暮に接近するとのことですので、日暮れと明け方に飛行訓練、夜間飛行の訓練も行います」

――特殊任務に就きます牟田芳雄以下4名、到着しました。

陸亜密一六七二号によって第一航空軍で編制された69個隊のうちの1つ、第八一振武隊に所属する特攻要員達がやってきた。基本的に特攻隊は12人で一個隊となる。他の隊員は別の飛行場で訓練をし、期日になったら知覧で合流するという。

早速、彼らの訓練が始まった。遊佐は慣熟飛行で彼らに訓練空域を徹底的に頭にたたき込ませた。

実装機に慣れるための訓練、突入訓練などを経て、いよいよ夕暮れと早朝の訓練が始まった。夕方起きて食事をして、暗くなりかけた頃に飛び立ち、ピスト前の目印目掛けて突入する訓練を繰り返し、一旦地上に降りて休憩した後、夜明け前に離陸して降下訓練を繰り返す。

訓練生の後ろに必ず遊佐が同乗した。それは並大抵の神経では務まらない。真っ暗な空間では自分がどんな姿勢にあるのかさえはっきりしない。そんな不安定な状態で計器を読み、目標を確認して決まった角度で降下し、地上に追突する寸前で機首をあげるのである。

いずれも自分で操縦していれば、なんとでもできるが、操縦歴の浅い訓練生の操縦に身を任せるのである。ほとんどの助教が、訓練が続くにしたがってイライラが募り、大声を出してしまうのである。

そんな中でも遊佐は決して怒鳴りもせず、丁寧に状況に応じた指導を繰り返していた。それは、後部座席に同乗した以上、自分の運命を訓練生に委ねてしまっていたからであった。訓練生の操縦の誤りで死んでしまうことになれば、それは致し方ないこと、と覚悟を決めていたのである。

そんな遊佐であったが、機上で一度だけ大きな声を出したことがあった。それは真っ暗な空中で訓練生がおびえて、どうしても降下に踏み切れないでいた時のことであった。

「覚悟を決めよ! 覚悟を決めればそれが自信になる。自分は必ずお前達の後に行く。お前達だけを行かせない!」

4月中旬になって、いよいよ知覧に行く日が決まった。沖縄航空作戦の第四次航空総攻撃に参加するのである。

基地内は異様に静かであった。格納庫の中では何人かの将校や兵隊が並んでいた。すすり泣く女の声が聞こえる。宮城県から来ている昭和10年入隊の大場の妻だという。

他に幹部候補生の牟田、特操一期生の牛渡、昭和11年入隊の松田、少年飛行兵十期の難波が直立不動の姿勢をとっている。上田分教所の幹部達と向かい合い、長机を挟んで別れの杯を交わした。遊佐は1人ひとりと手を握りうなずき合った。

「お前達だけを行かせない。必ず、後に続く」

最後に穏やかに言って大きくうなずいた。

沖縄洋上に散る

その夜、遊佐准尉は家に帰って風呂を浴び、食卓についた。昼夜逆の生活が続いたので久しぶりの帰宅であった。身重の若い妻がこまめに給仕をしてくれる。

「今日、旅立って行ったよ。隊員の1人は妻帯者だったようだ。妻帯者は滅多にと号にはならないのに。どんな事情があったのか」


遊佐は昼間の光景を思い出して、独り言のようにつぶやいた。「格納庫の片隅でいつまでもすすり泣いていたよ」。

「死別するのが判っているのだから、連れて行って欲しかったのでしょう。その方は……」

妻がぽつりと言った。その言葉が遊佐の胸に深くしみこんでいった。

その後も特攻攻撃要員が、いずこからともなくやって来た。その都度、遊佐が指導して訓練を繰り返し、やがて特攻部隊として編制された部隊へ帰って行った。

5月に入って上田飛行場からも5人の特攻隊員が知覧に向けて飛び立っていった。上田から出立に際して壮行会を開き、別れの杯を交わした特攻隊は合わせて2つであったが、上田教育隊付で訓練した少年飛行兵十三期だけでも10人を超える人数が特攻で散華した。

後編:「必ず後に続く」訓練で散った特攻仲間への「誓い」

(山本一清。)