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「少年Aは、模範的で立派な人間とはいえないかもしれない。遺族の立場になって、ものを考えるという段階まで回復はしていない。でも、社会に戻ってきてからの数年間、警察に捕まるようなことはしていない」

こう語るのは、神戸連続児童殺傷事件で弁護団長を務めた野口善國氏だ。1997年、当時14歳で「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った少年は、小学生2人を殺害し、3人を負傷させた。

弁護士になって40年以上の野口氏は「これまで関わった300人以上の少年の中にとことん悪くなった例はなく、どんな子どもも成長する」と信念を持って語る。

3月上旬、兵庫・神戸の事務所を訪れて話を聞いた。

●金がなくても、何度でも、行くで

野口氏は、これまで非行を繰り返す少年を複数見てきた。しかし、「よくならないかというと、それは違う」。親や本人に「どうせ少年院に行くんだから、弁護士なんてお金の無駄。もう来るな」と言われても、「金がなくても行くで」と少年のもとに足を運ぶ。

薬物を使用するなどして少年院に入所したり、警察に保護されたりを繰り返し、約8年面倒をみている少女もいる。ある日の夜10時ごろ、警察から「少女が薬を飲んで倒れている」という電話を受けた。駆けつけると、そこには、ぐったりした少女の姿があった。家まで運んで「生きててよかったな」と置き手紙を残した。説教はしない。

「同じようなことが3回ありました。たった10日の間に7回電話で呼び出されたこともあります。さんざん手を焼かしてくれましたけど、全然よくならないとは思えない」

「電気が切れた」と電話があったときは、電気代を支払うことを知らなかった少女のために金を持って駆けつけた。「今、奈良にいるんだけど、一文なしで帰られへん」と大晦日に電話が来たときは、妻に文句を言われながら、奈良に向かった。

「一緒に年越しそばを食べて、連れて帰ってきました。彼女なりに一生懸命なんですよ」

少女は、前科6犯で受刑中の母親、全身に入れ墨を入れた姉に金を巻き上げられる日々を送っていた。母親は彼女の金でウイスキーを10本購入したこともある。

そんな彼女に、野口氏は預金をすすめた。少女に頼まれて預金通帳のみ預かり、カードは本人に持たせている。

●「子どもは変われる」と知った大学時代

少年に関わる仕事をすることは、学生時代からの夢だった。きっかけは、ボランティア活動を通じて、立ち直りに力を注ぐ花輪次郎氏と知り合ったことだ。花輪氏とその家族は、非行少年たちと同じ屋根の下で、寝食をともにしていた。彼らに人生の基本となる「家庭」をもう一度体験させるためだ。

当時、20歳だった野口氏は、父親が亡くなったばかりの17歳と花輪氏が運営する施設で出会った。万引きが止まらない少年だった。

「彼は母親とうまくいっていませんでしたが、父親のことは大好きだったんです。犬の散歩に行くたびに万引きをする。吃音もあり、どんぶり5杯も食べる大食いで泣き虫の少年でした。私は少年に対して『本当にお父さんのことを思うんだったら、ここで泣いても仕方ないよ。きみはここでがんばらないと』と励まし、花輪夫妻は、奥さまが少年らの食事を調理するなどして、同じ屋根の下で育て、愛情を注ぎました」

3カ月後、少年の盗みがぴたりと止まった。吃音もなくなり、食欲も落ち着いた。「子どもは、こんなに変わるのか」と衝撃を受けた。

家庭裁判所の裁判官になろうーー。しかし、当時は学生運動の真っ只中。選挙で学生自治会の副委員長に選ばれ、活動に追われた。ストライキで授業はなくなり、大学は封鎖された。1年留年し、司法試験に挑戦するも、1次試験で不合格となった。

●新婚ほやほやのころに「死刑執行」 刑務官から弁護士へ 

野口氏には、刑務官の経験がある。公務員試験に合格し、少年院の教官になろうと考えていた。

ところが、法務省矯正局の上級職として採用され、東京拘置所への辞令が届いた。矯正研修所に行くように指示され、いきなり刑務官の制服を着せられたときは「少年院で働きたいのに、なんで?」と戸惑った。

「矯正局がどんなところか、なんの仕事をするのかも知らなかった」と野口氏は苦笑いする。父親に「始めたばかりで簡単にやめるな」と諭され、刑務官として働き始めた。

死刑執行に立ち会ったのは、妻と結婚して1カ月も経たないうちの「新婚ほやほや」のころ。「人を殺している感覚だった」。医師に「死人よりもおまえの顔のほうが青い」と言われた。

仕事が合わないと感じるようになり、再度の司法試験受験を決意。約4年の公務員生活に終止符を打った。司法試験を目指し、31歳でようやく合格したが、かつて目指していた裁判官ではなく、弁護士になる道を選んだ。

「修習生のころ、右陪席・左陪席の裁判官2人が私の意見を批判したことがありました。ところが、裁判長が『僕は野口くんの意見に賛成です』と言ったとたん、2人とも下を向いて黙り込んでしまった。裁判官は独立しているといえるのか? と疑問に思いました」

●「死刑にしろ」無知だからこそ募る人間の恐怖

弁護士になり、犯罪や非行をした人の更生を支える保護司としても活動を始めた。刑務官という「役人」の経験があるからこそ、わかることもある。

「役所では、新しいことをやろうとしても、なかなかハンコを押してくれない。でも、誰かが前にやっていれば、ハンコを押すんですよ。最終決定権は上にあるのに、実際に仕事をしているのは下の人たち。自分で責任を取る、という意識が薄い」

神戸連続児童殺傷事件の少年審判の記録が廃棄されたのも「いつもどおり機械的に考えもせず、ハンコをポンポンと押した」結果ではないかと分析する。自身の元にも残っていないといい「なくなると分かっていれば、残したと思う」と悔しさを滲ませる。

「月刊誌等に記録が漏れ、弁護士が疑われたことがありました。嫌疑は晴れたものの、いっそのこと、事件が終わったら廃棄しよう、ということになったんです」

死刑の現場や少年審判は、一般にその内情は見えてこない。だからこそ死刑囚や出院後の少年に対して不安が増幅するのだと野口氏は言う。現場を知る者として、70歳を超えても発信を続ける理由の一つだ。

「『ケーキの切れない非行少年』という本が売れています。非行少年はどこか変な奴らだという偏見があるんだと思います。人間は、よく知らないものには敵意や恐怖を抱きやすい。本当の少年の実態は、国民に知らされていない」

世間で死刑が議論になりにくいのも「死刑囚のことが知られておらず、自分とは関係ないと思っているため」。時に凶悪事件を起こした少年に浴びせられる「死刑にしろ」などのことばも、少年たちを知らないがゆえの発言だと指摘する。

また、審判を担当する家庭裁判所の担当者にも少年の実態を「知らない」のではと感じることがある。

母親が夜いないことを理由に「少年は、家庭に問題があるから施設に送る」とした調査官がいた。野口氏が自宅に足を運んでみると、母親は夜仕事をしていたが、その間は父親や祖母が育児をしていた。それを裁判所に報告すると、最終的に、裁判官は「家庭に問題はないが、やったことが重大だから施設に送る」と判断した。

「裁判官が施設に送ろうとしているとわかり、忖度して、裁判官が喜ぶような報告をする調査官もいます。本当は少年院で教育を受けたほうがよいと思っているのに『社会的に重大な事案であることを考えれば、刑事処分相当』ということもある。社会的に重大かどうかは裁判官が考えることで、調査官の判断事項ではない。彼らは、ただ、どうすればこの子がよくなるかを考えるべきだと思います」

【取材協力弁護士】
野口 善國(のぐち・よしくに)弁護士
東京大学法学部卒。法務事務官(法務省矯正局上級職採用)を経て、1980年に弁護士登録(32期)。保護司。兵庫県弁護士会人権擁護委員・同子どもの権利委員。少年非行のほか、いじめ、体罰、学校事故など、子どもをめぐる問題に取り組み、学校事件・事故被害者全国弁護団代表なども務める。著書に『歌を忘れたカナリヤたち』(共同通信社)、『親をせめるな』(教育史料出版会)など。
事務所名:野口法律事務所
事務所URL:https://noguchi-lo.jp/index.php