「論破」ほど優越感に浸れるものはない(写真:Goodluz/PIXTA)

ネットの世界では「論破」が大はやりです。論破を売りにしている人への賞賛が増すことはあっても、減ることはありません。もっとも、グゥの音も出ないほど相手を追い詰めたことで「論理的な人」という称号を得られたとしても、論破それじたいによって「仕事ができる」ことの証明になるわけでもありません。世界中で続々翻訳刊行されている話題の書『マッピング思考:人には見えていないことが見えてくる「メタ論理トレーニング」』の著者ジュリア・ガレフは、論破したがる人が気づかずに失ってしまうものがあると指摘しています。それはいったい、何なのでしょうか。

合衆国建国の父は元祖「論破」の人?

最近、文章の最後に「終了」「論破」「乙」「以上」といった、絶対に「自分が正しい」といわんばかりの表現が用いられることが増えてきた。


経済学コラムニストのミーガン・マッカードルは、これらの断定的な表現が何を意味しているかについてこう考察している。

「こうした表現を使うと自分(と、もちろん気の合う仲間たち)の気分を高め、非の打ちどころのない倫理的な論理を振りかざして大地を悠然と闊歩する、道徳上の巨人になったつもりになれる」

論破とは正反対とも言える格好の例が、「アメリカ合衆国建国の父」の1人と言われるベンジャミン・フランクリンだ。

フランクリンは、対人関係に対する自信に満ちあふれていた。チャーミングで、ウィットに富み、活力が旺盛で、生涯を通じて多くの友人をつくり、新しい組織をいくつも立ち上げた。

フランスでは科学者として高い評価を受け、「親愛なるパパ」と慕う女性が何人もいて、セレブリティとしての扱いも受けた。それでも、彼は対人関係に対する強い自信を持ちながら、知識に対する自信をひけらかすようなことはしなかった。

相手を否定する言葉、思いやる言葉

なぜここで論破とは無縁の人物に見えるフランクリンを持ち出したのかと言うと、若いころの彼は、人の間違いを指摘したり、相手を「論破」したりすることを楽しみにしていたからだ。

論破したほうは理路整然と話して、なおかつ自分の正当性が認められたので、勝ち誇ったような気分になれる。反論もできず地団駄を踏んでいる相手を見ると、優越感にも浸れる。これほど気分のいいものは、めったにない。

とはいえ、悔しい思いをした相手にすれば、論破された反感という相手への負の感情が残る。それはカンタンに消えるものではなく、やがて憎しみへと変わることもある。

幸いにも、若いころのフランクリンは論破することの無意味さを悟ることができた。「間違いない」「絶対にそうだ」といった断定的な言葉を使うと、意見を否定されやすいことに気づいたのだ。それからのフランクリンは断定的な表現を避け、

「私はこう思うんですが……」

「もし誤解でなければ……」

「今の私にはこんなふうに見えるんですが……」

といった言葉を前置きしながら発言するように心がけていた。

最初のうちは、この習慣を保つのは大変だったが、そのうち、優しい言葉で意見を表現すれば相手に受け入れてもらいやすくなってからは、苦にならなくなった。

やがて、フランクリンはアメリカ史上屈指の影響力を持つ人物となった。独立宣言を共同起草し、フランスを説得してイギリスに対するアメリカ独立戦争への支援を取りつけた。この戦争を終結させるための条約交渉も成功させ、アメリカ憲法の起草と批准にも貢献した。

フランクリンは晩年、自伝の中で、謙虚な態度で話す習慣が、いかに効果的であったかを振り返っている。

「この習慣によって (私の誠実な性格に次いで)私は新たな制度の設立や古い制度の変更を提案したときに、まわりの人たちに大きな影響を与えられたのだと思う」

エゴよりも「真実」を大切にした大統領

歴史上の人物の中から、論破をやめたもう一人の偉人を紹介しよう。第16代アメリカ合衆国大統領、エイブラハム・リンカーンだ。

1863年、ビックスバーグを攻略しようとして数カ月間も失敗を重ねていた北軍の最高司令官ユリシーズ・グラントは、ある大胆な作戦を5月に実行する計画を立てた。自軍の動きを南軍に察知されないようにしながら、意表を突く方角からこの都市に攻め入るというものだ。

リンカーン大統領は、「この作戦は危険すぎる」と懸念を表した。その2カ月後の独立記念日、グラントの軍はビックスバーグの陥落に成功した。

リンカーンは勝利の知らせを聞き、直接会ったことはなかったグラントに手紙を書いた。

「親愛なる将軍へ」という書き出しで始まるこの手紙で、リンカーンは感謝の気持ちをつづった後に、こう続けている。

「私は、貴殿の軍はミシシッピ川を下ってバンクス将軍のもとに行くべきだと思っていた。軍がビッグブラックの東側を北上したと聞いて、それは間違いだと思った。しかし今、自分が間違っていたことを認めたい」

この手紙を読んだ側近者は、まさにリンカーンの人柄を表していると語ったという。リンカーンはいつでも、自分の考えに落ち度があればためらわずに相手に伝えることができた。

われわれの日常生活においては、自分が間違っていたことに気づけるだけでも上出来だ。

そのうえで誰かに「私が間違っていた」と伝える気持ちがあるのは、エゴよりも真実を大切にする人間であることのはっきりとした証しになる。そういうことができる人物を「謙虚な人」と呼ぶ。

9割の人が手に入らない「大きな価値」

「真実」「合理的」「公正」「望ましい」などと思えるものも、視点の違いや問いの立て方次第で変わり得る。「人の考えは、絶対的なものではない」という認識を持てるようになると、自分の思考のとらえ方を根本的に変えられる。

それは、「主張しようとすること」と「真実を探ろうとすること」という2つの感覚の違いを見分けられるようになることだ。

「主張をしようとすること」は、自分の中の広報担当者にしゃべらせるようなもの。「自分の正しさ」を迷わずアピールする感覚だ。

当然、目を背けたくなるようなものごとは、スルーしようとする。それは宣言であり、断定であり、違う意見に対する冷笑である。

これに対して「真実を探ろうとすること」は、自分の中の取締役会に判断を仰ぐようなものだ。どんな答えが返ってくるかはわからない。

目を細めて何かをつぶさに観察し、見たままを描写するという感覚に似ている。それは推定であり、予測であり、熟考である。

「私は今、現実をクリアに見ようとしているだろうか?」という自己認識を持てることこそが、何よりも大きな価値をもたらしてくれる。まさにそれが、謙虚さだ。相手を論破しようとしているかぎり、いつまでたってもその価値を手に入れられることはない。

(ジュリア・ガレフ : 作家、ポッドキャスター)