80代の政治家に日本の将来を任せるぐらいなら…成田悠輔が「ネコを政治家にすべき」と真剣に訴えるワケ
■政治家はネコとゴキブリでいい
現在、間接代議民主主義で政治家が担っている役割は主に二つある。
(2)政治・立法の顔になって熱狂や非難を引き受け世論のガス抜きをする「アイドル・マスコット・サンドバッグとしての政治家」
私は「調整者・実行者としての政治家」は、ソフトウェアやアルゴリズムに置き換えられ自動化されていくと思っている。
そして「アイドル・マスコット・サンドバッグとしての政治家」はネコやゴキブリ、VTuber(Virtual YouTuber)やバーチャル・インフルエンサーのような仮想人に置き換えられていくと読んでいる。
ネコによる置き換えは「キャラ」問題に関係している。現在の複雑すぎる社会では、政治家が経済や医療や軍事などあらゆる課題を理解して適切な判断を下すという建前には無理がある。
みんな薄々気づいているが、それを言っちゃおしまいなので、人間たちが大問題についてそれっぽいことをまくしたてるテレビの政治討論を倦怠(けんたい)感とともに眺めている。
本音では、しかし、政治家が果たすべき最大の役割は無数の課題に対する合理的判断ではなく、「いい感じのキャラ」を提供することだとわかっている。人としての器が大きい感じ、マンガ・アニメキャラのコスプレでもして一笑いさせてくれる感じ、単にイケメン・カワイイ・イケボ、そしていつまででも噂や悪口を言いたくなる飽きさせない見出し力といったものだ。
■人間である理由は無くなる
だが、噛めば噛むほど味が出るキャラが必要なだけなのであれば、なぜ人間でなければならないのだろう?
たとえばネコ。ネコに被選挙権を与えたとして、ネコにキャラで勝てる人間政治家は何人いるだろうか? アイドルとしての政治家を代替できるのはネコで、スケープゴートとして袋叩きにする政治家を代替する存在は別に作り出せばいい。
ゴキブリなどを使うのがいいかもしれない。そう、ゴキブリだ。
私たちの社会はだんだん「人間を属性で区別するな」という社会になっている。男女で区別するな、年齢で区別するな、人類皆同じと考えようという方向にだんだん向かっている。
この流れが今後も続くと、人間とそれ以外の動物や生命も区別するなという方向にいくと予想できる。ある種のベジタリアンやビーガンの友人たちと話すと、解体される鶏や〆られるサバが感じる痛みへの共感を切々と語ってくれることがある。あの感じだ。
数百年から数千年かけて優しく非暴力的になりつづけている人類史を考えると、だんだんとベジタリアン・ビーガン的なあの感じが人類全体に拡がっていくのだろう。
すると、ネコと人間の区別や、人間とゴキブリの区別は薄れて大事ではなくなっていく。そうなれば政治家の好かれるキャラはネコで、嫌われるキャラはゴキブリか何かに分解しておけばいいのではないか? 本気でそう考えている。
■アメリカ大統領選に立候補した“オスネコ”
ネコが政治家になる世界は思ったより早く到来しそうだ。
2022年春には元おニャン子クラブの生稲晃子氏が参院選への出馬を表明した。それどころではない。実は本物のネコがすでにアメリカ大統領選に出馬済みである。
1988年の大統領選挙に出馬したオスネコ「モリス」だ。モリスは当時人気のキャットフードの広告塔だった。テレビや雑誌に出まくっていたモリスの露出度は抜群で、そこらの政治家より高い知名度を誇っていた。
「立候補するには人間でなければならない」という制約は、大統領選の規則には実はなかった。この穴を突いて立候補したのがモリスだった。開かれた出馬記者会見で代理人の人間はこう述べたという。
「モリスは、第30代大統領カルビン・クーリッジの静かな態度、第35代大統領ジョン・ケネディの動物的な魅力、そして第16代大統領アブラハム・リンカーンの正直さを兼ね備えた候補者だ」
名演説だ。結果としては惜しくもジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)に敗れたモリスネコは、しかし、爆発的な注目を集め広告塔を務めていたキャットフードの売上を爆増させたという。これほどの「政商」がかつていただろうか?
■ブタ、チンパンジー、七面鳥キャラも立候補
ネコ市長が実質的に誕生したこともある。
アメリカのアラスカ州タルキートナ市だ。出馬した人間候補者を気に入らなかった住民たちが勝手にネコ市長候補「スタッブス」を擁立し、投票用紙にネコの名前を記入する運動をくり広げた。フタを開けてみると、なんと他候補を破ってしまったという逸話だ。
ネコだけの特権ではない。68年のアメリカ大統領選挙にはブタが、88年のリオデジャネイロ市長選挙にはチンパンジーが、97年のアイルランド大統領選挙には七面鳥キャラが立候補し、多くの票を獲得した。動物が人間から政治家という職業を奪うまであと一歩だ。
こうしたことを言うと「しかしネコやゴキブリは言葉をしゃべれない」と言ってくる人が多い。
だが、数百年前のヨーロッパ人植民者たちは、自分たちの言語が通じない植民地の他民族のホモ・サピエンスをコミュニケーション相手や(被)選挙権の主体だなどと思っていただろうか?
ほとんど動物と同じだと見なしていたからこそ、ごく自然に奴隷として酷使できたのではないだろうか? その精神性が時間をかけて変わってきた。
ネコやゴキブリも同じだ。そもそも言語を通じてゴキブリやネコとやりとりする必要もない。
■言葉を話す必要はない
今の社会でも人間同士が言葉を使って議論して理解し合うよりも、ネコと人間がハグして共鳴する方が、はるかに話が早く納得感が高いことも多い。溢れるネココンテンツを見ても明らかだ。
人間以外の種が使っている色々な表情やジャレ合い、音波や化学物質と、人間が使っているコミュニケーション手段の間に、何らかの翻訳が成立する予感もある。
ちょうど画像生成AIが人知を超えた独自のコミュニケーション言語を獲得したと報告されたところだ。ネコやゴキブリを愛し憎み、コミュニケーションした気になって責任を押しつけられる、そういう時代がくるかもしれない。
ネコやゴキブリでなくてもいい。より現実的で短期的には、VTuberやバーチャル・インフルエンサーのようなデジタル仮想人がそういう存在になっていくだろう。
VTuberが政治家の身代わりになって、生身の人間政治家への誹謗(ひぼう)中傷を引き受ける。その仮想人を鬱や自殺にまで追い込むとスッキリする……そんなサービスが出てくれば生身の人間も仮想人もWin-Winだ。
そして、VTuberや仮想人の人権を大マジメに議論する時代がくる。
■意識や判断はアルゴリズムに委ねる
人間と非人間の融合、意識と無意識の融合は「民度」にも変化を迫る。
「民度が低いwww」。よく聞く民主社会への嘲笑の決め台詞だ。たとえば本書の第3章「逃走」で紹介している反民主主義運動やそのイデオローグは、典型的な民度運動だと言える。選ばれし高民度者たちのための理想郷を作ろうという運動だからだ。
しかし、民度を上げたり新しい民度を考えたりするのではなく、民度という概念をなくすことはできないだろうか? 私たちの意識や判断を頼っている限り、民度(つまり意識や情報や思考や判断の質)という概念からは逃れられない。
そこから逃れるために、いったん人類を、その中で起きている意識しているかどうか問わない生体反応の塊に還元する。つまり人間が見下している動物の世界にいったん還元してしまう。そして意識や判断はアルゴリズムに委ねてしまう。
有権者も政治家もいったん動物になってしまい、民度が低いも高いもない状態を作り出す運動が無意識データ民主主義だとも言える。無意識データ民主主義は、民度を必要とせず、あらゆる人を含む、開かれたもう一つの意思決定の仕組みの模索である。
■政治家はソフトウェアアップデートをするテスラの車に近い
こうして、アイドルとしての政治家、責任主体としての政治家はちょっとずつ蒸発しネコになる。残るは実務家としての政治家だ。
思い出そう。企業の中間管理職や事務職の役割は業務支援SaaS(Software as a Service)によってどんどん小さくなっている。個人の投資や健康・買い物の管理もどんどんアプリに委ねられるようになっている。政治だけ例外だと考える理由はない。
「政治家as a Service(政aaS)」のようなソフトウェアが生まれるのはほぼ必至だと思われる。その小さな芽をすでにいくつか見てきた。
実際、権力拡大のためには手段を問わず、世論の風向きに年中無休で細心の注意を払う政治家という生き物は、一貫した信念や情熱を持って後悔や悩みを引きずり生活する人間よりも、必要とあらばいつでも颯爽とソフトウェアアップデートをするテスラの車か何かに近い。
「彼があっさり自分の信念の旗をひるがえして別の旗を颯々としてかかげるには、一日もあれば、時にはたった一時間でも、時にはたった一分間でもことたりる。彼は理想に殉ずるのではなく、時代と歩調を合わせるのであって、時代の変転が早ければ早いほど、それだけスピードを出して時代を追いかけるのである」(シュテファン・ツワイク『ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像16』)
であれば、人間が無理をして誹謗中傷に晒されながら身も心も粉にして政治家という機能を果たすより、無意識民主主義ソフトウェアのアップデートに委ねる方が楽なのではないだろうか?
■拒否権を発動するユルい存在になる
ソフトウェア・アルゴリズムには嫉妬や粘着も戸惑いもなく、無駄に心をすり減らす必要もない。毎分更新される民意データにしたがって「あっさり自分の信念の旗をひるがえして別の旗を颯々としてかかげ」るだけである。
絶えずソフトウェアアップデートされる無意識民主主義における人間の政治家や官僚の役割は、大筋ではアルゴリズムの推薦に言われるがままに動き、いざとなったら拒否権を発動するくらいのユルい存在になっていく。突飛な話ではない。
高頻度取引アルゴリズムに任せておいたら相場のフラッシュクラッシュが起きて、血の気が引いて急遽人力で介入をはじめるトレーダーたち。ダイエットアプリにしたがって糖質・脂質制限をしているが、ときどき深夜にアイスをドカ食いしちゃう今の私たち。そんな今すでにある存在の延長線上にすぎない。
■人間の政治家でも責任は取れない
こうした話をするとよく出るのが「ネコやアルゴリズムに責任が取れるのか」という疑問だ。しかし、そもそも人間の政治家は責任を取れているのだろうか?
今の自民党の執行部には80代の後期高齢者がゴロゴロいる。彼らが社会保障や医療や年金や教育といった制度や政策を作っている。数十年先の社会にこそ影響を与える政策に、80代の政治家は一体どんな責任を取れるのだろうか? 結果が出る頃には確実に亡くなっているというのに。
ということは、人間政治家が責任を負えていると盲信することは、死者に責任追及できると言っているのに限りなく近くなる。
言葉が通じず言葉も発さない死者は、一体どんな反省の弁を聞かせてくれるだろうか? 墓場に眠る人間が生きたネコや不眠不休のアルゴリズムより責任感に満ちていると信じる理由はどこにあるのだろうか? もはや哲学的である。
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成田 悠輔(なりた・ゆうすけ)
米イェール大学 助教授、半熟仮想 代表
専門は、データ・アルゴリズム・ポエムを使ったビジネスと公共政策の想像とデザイン。東京大学卒業(最優等卒業論文に与えられる大内兵衛賞受賞)、マサチューセッツ工科大学(MIT)にてPh.D.取得。一橋大学客員准教授、スタンフォード大学客員助教授、東京大学招聘研究員、独立行政法人経済産業研究所客員研究員などを兼歴任。内閣総理大臣賞・オープンイノベーション大賞・MITテクノロジーレビューInnovators under 35 Japan・KDDI Foundation Award貢献賞など受賞。
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(米イェール大学 助教授、半熟仮想 代表 成田 悠輔)