蝦夷征伐に仏教勢力の排除…ミスター遷都・桓武天皇の生涯と業績を紹介
「ミスター遷都」の桓武天皇
桓武天皇といえば、日本史上、二度にわたって「遷都」を行った天皇として有名です。
今回は、この桓武天皇の生涯と業績を説明します。
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まず特徴的なのは、その政治スタイルです。桓武天皇は「親政」つまり自ら直接政治を行いました。
それだけ言われても「天皇って自分で政治を行わなかったの?」と、ピンと来ないかも知れません。実は、天皇はトップに君臨しても政治には直接関わらず、摂政などに任せることの方が多かったのです。
桓武天皇のように「親政」を行った人は少数派です。
さて、それにしても自ら政治に関与するというのは並大抵のことではなく、それなりの才覚がなければ不可能です。なぜ桓武天皇が「親政」できたのかというと、彼が受けてきた教育に理由がありました。
もともと、彼は天皇になれる血筋ではなく、そのため幼少期には優秀な「官僚」になるための教育を受けています。
ところが770年、父の白壁王が光仁天皇として即位したり、藤原氏を巻き込んだ政争が起きたりした結果、773年に「皇太子」つまりは次期天皇の地位に定められたのです。
そしてその後、781年に桓武天皇として即位できたのですが、結果として優秀な官僚的センスを持ち合わせた天皇が誕生したわけです。
仏教勢力の排除と蝦夷征伐
さて、当時の都で政治を行うにあたり、悩ましい存在だったのが奈良仏教の各寺院の影響力でした。彼らは当時強い勢力を持っており、何かと政治に口を挟んできがちだったのです。
そこで、桓武天皇は784年に長岡京へ遷都します。仏教勢力の影響が強い都を、いったん捨てることにしたのです。
それだけのために都を移すというのも大胆ですが、交通手段の発達していない当時であれば、約40km離れた場所に変えるだけでも大きな変化だったと言えます。
しかし、遷都はしたものの日照りや天災が発生した上に、関係者の死去など多くの災いが発生します。そこで、和気清麻呂からのアドバイスもあり、794年には平安京へと再び遷都します。実に目まぐるしい移動です。
桓武天皇が祭神として祀られている平安神宮
ちなみに仏教勢力については、のちに天台宗の開祖となる最澄に中国で新しい仏教を学ばせ、その後強力に保護しました。そして、奈良仏教を始めとする既存勢力に対しては圧力を加えています。
桓武天皇のもう一つの実績が、蝦夷(えみし)征伐による東北地方の平定です。蝦夷とは中央政府すなわち朝廷に帰属しない人々のことで、現在の東北地方を拠点としていました。
蝦夷征伐そのものは以前から行われていましたが、本格的なものは桓武天皇によるものが初めてです。
3度目には坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して蝦夷の首長であるアテルイを降伏させ、803年には志波城を築くことで事実上東北地方をほぼ平定するに至りました。
ただし民衆への負担も大きくなってきたことで以降の蝦夷征伐は中断されます。
監査役「勘解由使(かげゆし)」の設置
坂上田村麻呂を祭神として創建された田村神社
桓武天皇のもうひとつ実績として、797年の「勘解由使(かげゆし)」という令外官を設置したことが挙げられます。
勘解由使の主な任務は、国司の不正そのもののチェックすることです。また、国司交代の際に前任と後任の間でトラブルが起きないようにする役割も負っていました。
現代で例えるなら勘解由使は「監査役」ということになるでしょう。
一方の国司は、現代で例えれば都道府県知事にあたり、地方で強大な権力を握っていました。しかし、必要以上の租税を庶民に課し、また賄賂も横行していたといいます。
彼ら国司の任期は4年ですが、任期中に築いた利権を後任に渡したくないという理由で、トラブルが発生し、地方行政に悪影響が出ることも多くありました。そのための勘解由使の設置だったのです。
このように、桓武天皇の親政は地方行政にまで目が向けられました。
桓武天皇というと「鳴くよ うぐいす 平安京」くらいしか思いつきませんし、子供の頃はその実績を聞かされても、どれほど画期的なことだったのかピンとこないものがありますね。
しかし大人になってみると、遷都や勘解由使の設置を決断するというのはすごいことだと感じられます。
蝦夷征伐については、現在の視点で見れば善悪を決めつけられるものではありませんが、当時としては日本を安定させようという大きな意図があったのでしょう。
参考資料
日本史はくぶつかん奈良まちあるき風景紀行まなれきドットコムtyotto塾世界の歴史まっぷ