大野の日焼け、櫻井のへそピに激怒…嵐を導いたメリーさんの“ダメ出し”

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《激動の時代の中を生き、ジャニーズという存在を支え続けてきたメリーさん。ありがとうございました。天国でジャニーさんに会えたらいいね! また一緒にお酒飲みましょう!!》

そう追悼したの松本潤(37)。ジャニーズ事務所名誉会長の藤島メリー泰子さん(享年93)が8月14日、肺炎のため亡くなった。弟・ジャニー喜多川氏(享年87)とともに1962年の創業からジャニーズを支えてきたメリーさん。

「晩年は病院暮らしでしたが、最近まで食欲旺盛でお元気でした。現在は所属事務所内に祭壇が設けられ、手を合わせられるようになっています」(音楽関係者)

40年以上の交流があるというプロデューサーの石井ふく子さん(94)は、こう彼女を悼んだ。

「とてもマメな人でお手紙をよくいただきました。彼女はパソコンも使えてメールも送れるのですが、自筆で書いたメッセージをFAXしてくれるのです。『自筆のほうが気持ちが伝わるから』とーー。

’19年9月に東京ドームでジャニーさんのお別れ会が開催されました。終了後にお悔やみを申し上げると、私の手を握って『私のことを頼むわね』と。一瞬、何を言っているのかわからなかったので、『何か頼み事?』と聞き返すと、『心配なのよ』と……。自分のこれからの天命のことだったのでしょうか。彼女らしくない弱気な発言が強く印象に残っています」

メリーさんは事務所初の所属タレントである“ジャニーズ”の衣装製作を手伝ってきたのを契機に、’70〜’80年代はフォーリーブス、たのきんトリオを育成してきた。

「事務所の初期のファンイベントでは、ファンに自宅から懐中電灯を持参してもらって応援。それが現在のペンライト応援の元祖になったんです」(メリーさんの知人)

■「タレントと心の通った運命共同体でありたい」

メリーさん自身、45年前の本誌に、自分の信条をこう語っている。

《いつも夢中で生きてきたので自分の生き方などという大それたものはありません。ただ、母としては子供に缶詰からそのまま取り出して食べさせるような手抜きはしたくない。夫がどんなに遅く人を連れて来ようが大歓迎したい。マネージャーとしてはタレントと心の通った運命共同体でありたい》

前出の音楽関係者は言う。

「メリーさんの指導大原則は“タレントである以前に、人間としてきちんとしていることが大事”ということでした。マナーや礼儀に厳しく、社会のルールを身をもって経験させてきました。また、ふだんからメリーさんが口を酸っぱくして教えていたのは『親を大切にしなさい』ということ。だから売れたタレントは両親に家を建てることが多かったのです」

たのきんが超売れっ子時代、メリーさんは取材でこう語っている。

《3人とも学校に行くときは電車やバスで通ってます。誰から見ても『いい子だな』と言われるような、普通の常識を備えた男の子でいてほしいんです》(『週刊文春』1980年11月6日号)

ジャニーズ事務所はたのきん後も光GENJI、少年隊、TOKIOら人気グループを次々に輩出。メリーさんは彼らのマネジメントの傍ら、衣装も手作りしていたと別の音楽関係者は話す。

「当時はスタイリストに頼まず、メリーさんが少年隊の衣装を作っていました。コンサートなどで使う、後ろにチャックがついていてすぐに脱げる“早替え”の衣装を考えたのがメリーさん。“よく眠れない”と悩んでいた堂本剛さんには手作りの甚平を渡していたこともありました」

そんな“よき母”も所属タレントを叱るときは厳しかったという。

「ジャニーさんは“タレントとしてどうあるべきか”というプロデューサー的な視点から助言していた一方で、メリーさんはよくない生活態度が見られたタレントを頻繁に呼び出し、説教していました。個人が何かをやらかしても所属グループ全体として話し合いを持ちメンバーに責任感を持たせるのです」(前出・メリーさんの知人)

■国立競技場の前で、のためにメリーさんは…

数々の所属タレントの中で近年、メリーさんの思い入れが特に強かったのが、愛娘で現在は事務所の代表取締役でもある藤島ジュリー景子氏(55)と手掛けただ。

「国立競技場でののコンサートの日、屋外で露天商が売っている非正規グッズを見るなり、片っ端から取り上げ『私がジャニーズのメリーよ!』とたんかを切ったこともあります」(テレビ局関係者)

だが、デビューしてすぐに大ブレークしたわけではなかった。デビュー当初、櫻井翔(39)はアイドルと慶應の高校生という二足のわらじで注目を浴びていた。

「茶髪にピアス、カラコンなど今で言う“チャラい”感じの時期がありました。あるとき、彼のへそピアスが明らかになると、メリーさんの堪忍袋の緒が切れた。“親からもらった体でしょう。いいかげんにしなさい”と雷を落とし、彼も猛省してやめたことがありました」(前出・音楽関係者)

櫻井はメリーさんの死を悼み、こうコメントを寄せている。

《20歳を過ぎた頃には、お酒の飲み方を教わりました。“どのように生きるか”を教えて頂きました》

前出の音楽関係者は、米国の最高級ワインを愛したメリーさんの飲酒に関する考え方がよくわかるエピソードを教えてくれた。

「普通“飲みすぎるな”とか“酒はやめろ”と言うと思うんですが、メリーさんは“お酒をあまり飲まないのもよくない”というようなことをよく言っていました。つまり、あまりお酒を飲まないのも“人付合いのうえでよくない”ということなんです。酒席で仕事が決まったりすることもあるビジネスマナーを語っていたのです」

■タレントには常々、「学業優先で」

タレントの学歴についてもメリーさんはこんな考えを持っていた。

「普通、まだ学生のタレントがロケと学校の授業がかぶったりすると、ロケのほうを優先することが多いのですが、メリーさんは“学校最優先で”と常々言っていました。櫻井くんは大卒ジャニーズの先駆けですが、そういったメリーさんの方針もあり、安心して仕事と学業を両立することができました。そのため、櫻井くん以降、NEWSの小山慶一郎くんや加藤シゲアキくんなど“大卒アイドル”がジャニーズから次々と生まれました」(前出・音楽関係者)

大野智(40)もまたメリーさんに気に入られていた一人だ。

「まだ若い大野くんがドラマ出演中に日焼けしてシーンのつながりが不自然になったことがあり、メリーさんが怒ったんです。それまでも彼は趣味の釣りに行くと日焼けをして帰ってくることが多く、後先考えない行動にマネージャーやドラマの制作陣からやんわり注意されていましたが、本人は気にすることはなかった。でもメリーさんは面と向かって“制作の方にも視聴者にも迷惑をかけるから日焼けは絶対ダメ!”と叱責。以来、大野くんはきちんと日焼け止めを塗るようになったそうです」(前出・音楽関係者)

メリーさんの愛ある叱声が、を国民的アイドルへと導いていく。松本は追悼コメントで思い出をこう振り返っている。

《今思い浮かぶのは2014年。が15周年の時、ハワイで一緒に過ごす事ができた数日間です》

節目での直々の叱咤激励が、今の松本を築き上げたのだろう。

■受賞スピーチした二宮に“ダメ出し”したことも

二宮和也(38)は’16年に映画『母と暮せば』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。その受賞スピーチ後、メリーさんからの“ダメ出し”があったという。

「二宮さんは壇上でジャニーさんやメリーさんに感謝の思いを語りました。でもメリーさんは“監督や製作陣へのねぎらいの言葉がなかった”ことにあきれ、後日彼を呼び出し『感謝の言葉が足りない!』と叱ったそうです」(映画関係者)

そして’19年、は不動の国民的アイドルとして晴れ舞台へーー。

「メリーさんは夫・藤島泰輔氏が上皇陛下の初等科からのご学友だったということもあって、皇室へは深い敬愛の念を抱いていました。学習院女子中等科・高等科の同窓会組織『常磐会』の幹部とも交流があり、手塩にかけたが、’19年11月、天皇陛下の即位をお祝いする『国民祭典』で奉祝曲を披露したときは誇らしかったことでしょう」(前出・メリーさんの知人)

東京五輪では櫻井とともに相葉雅紀(38)がNHKのスペシャルナビゲーターを務めた。

世界にはばたく“日本代表グループ”となったを見届け、天国へ旅立ったメリーさん。彼女の“人としての教え”は教え子たちに脈々と受け継がれていくだろう。