戦国時代の武芸が祖先?世界が認めたエロティック・アート「緊縛」【前編】

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SMプレイの一種として認知されている「緊縛」。ほとんどのJapaaan読者にとっては「名前は知ってるけど実態のわからない、エッチな感じのする何か」といった存在ではないでしょうか。

しかし、緊縛の祖先が日本の武芸だと聞いたら、我が国の文化や歴史を愛する皆さまはどのような感想を持つでしょう?

あなたの知らない緊縛の世界

今回と次回、ドS文筆家コラムでは「世界が認めたカウンターカルチャー “Kinbaku”」をテーマに、2回に渡って知られざる緊縛の魅力についてお伝えします。

2011年「ロンドン緊縛美の祭典」での海月くらげの縛り(画像:http://www.patrick-siboni.comより)

前編では「緊縛とは何か?」を概略するとともに、古代の原初的な縛りが五行説の影響を受けて武芸として成立したのち、逮捕術として体系化されていく過程を紹介します。

このコラムを通じて、緊縛が単なるポルノの一形態ではなく、室町から現在に至る長い歴史の中で発展してきたアート・文化であることを1人でも多くの方に知っていただければ幸いです。

「緊縛」とはどんなプレイか?

先月の記事で、「SMという言葉は日本発祥で、成立したのは昭和だ」と書きました。

実は「SM」は日本発祥の言葉だった?その誕生に深く関わった歴史上の出来事とは…?

「ゆるまないように硬く縛る」を意味する「緊縛」という言葉がSM的な責めの一種を示すようになったのもほぼ同時期で、一説には伝説の雑誌「奇譚クラブ」の影響があったといいます。

喜多玲子『縛られた裸女十態』 奇譚クラブ 昭和27年7月号(画像:SMpediaより)

 

緊縛では、数本の麻縄を使って被虐者を拘束しますが、ただ動けなくすればよいのではなく、見た目の美しさも要求されます。また、ショーなどではモデルを縄で空中に吊るし上げる「吊り」と呼ばれるパフォーマンスが行われたりもします。

「マニフェスTOKYO2016」での蓬莱かすみの吊り(画像:Webスナイパーより)

一般に、縛る側を「縛り手」、縛られる側を「受け手」と呼びます。縛り手の中でも特に高いスキルを持ち、職業としてこれを教えたり、ショーを行ったりする人は「緊縛師」や「縄師(なわし)」と呼ばれます。

悲しいことに、緊縛を含むSM一般について誤解をしている人の数は少なくありません。例えば、責める側と責められる側に序列がある(つまり、責め手の方が偉い)や、相手を一方的に痛めつけるリンチに等しい行為だ、などです。

確かに、あらゆるSMプレイは怪我や故障、時には命の危険につながるリスクをはらんでいます。しかし、だからこそSMには信頼関係が欠かせません。プレイの演出上そう見えないことがほとんどですが、実はSとMとは、安全にプレイを楽しむために対等な立場で協力し合っており、これは緊縛においても同じことなのです。

拘束具から聖なる武具へ

緊縛の起源には諸説ありますが、罪人や捕虜の自由を奪うための原初的な縛りは古代から行われていたと考えるのが自然です。

ただの拘束具だった縄は、室町時代に入ると制度に則った「捕縛(ほばく)」のための武具となります。『十手 破邪顕正の捕物道具』の著者 谷口柳造氏によると、その背景にあったのが不動信仰でした。

『不動明王立像』(一部)(画像:国立博物館所蔵品統合検索システムより)

 

上の画像は、『不動明王立像』(所蔵:東京国立博物館)の腰から下を拡大したものです。左手にロープ状のものを持っているのがお分かりでしょうか?これは「羂索(けんさく)」と呼ばれ、不動明王が必ず携えている武器の一つです。

「お不動さん」として今も広く信仰される不動明王は、右手の「降魔の剣」で邪を祓い、人の煩悩を断ち切ります。そして、なおも煩悩から逃れられない衆生がいれば、左手の「不動の羂索」で縛り上げ、吊るし上げてでも苦しみから救い上げてくれるのです。

縄が武具としての地位を得た理由。それは「不動の羂索」と同一視されるようになったためなのです。そこには、「罪人を含め、あらゆる人々を救おう」という仏教思想が表れています。

和歌・和装と「縛り」の意外な共通点とは?

このようにして、「縛る」という行為には、実用性に加えて儀式的な意味も求められるようになりました。また、不動明王と五行説とのつながりによって、縄の扱いや縛る際の所作にもこの説の影響が表れてきます。

「五行説」は中国発祥の自然哲学思想で、後に陰陽説と合体して陰陽五行説として発展してゆく考え方です。四季のある日本では季節と深く結びつき、人々の暮らしに大きく影響していました。

五行説の影響により、室町時代のある時期には、四季ごとに縄の色と打つ(縛る)方角が変えられていたといいます。まさに和歌や和装といった代表的な日本文化と同じように、当時は縛りにおいても季節が重視されていたのです。

五色の縄。右上から時計回りに、春の青龍縄、冬の玄武縄、土用の黄色縄、秋の白虎縄、夏の朱雀縄(画像『十手 破邪顕正の捕物道具』より)

 

春は青龍を司る青色の縄を東に向けて打つ。夏は朱雀を司る赤色の縄を南に向けて打つ…等の決まりは『捕縛四季弁色の制』として制度化されました。この制度は室町後期に一旦廃れますが、一部の大名領で継承され、江戸時代にも簡略化された形で残っていたと『十手 破邪顕正の捕物』に書かれています。

室町時代には、相手の身分や性別、罪の重さによって縛り方を変えることも行われていました。応仁の乱を経て戦国時代に流れ込んでいくこの時代。戦場で敵方の武将を拘束する技術は功名を立てるうえで欠かせないものとなり、捕縛は罪人を拘束する術という枠を越え、戦国武将に必須の武芸として発展してゆきます。

逮捕術としての本縄から緊縛へ

武士の必修科目だった捕縛は、江戸時代に入ると奉行所の役人が用いる逮捕術として体系化されました。

縄を使った逮捕術は捕縄術(ほじょうじゅつ)と呼ばれ、武術の一つとして多くの流派も生まれます。捕縄術は、容疑者を素早く捕えるための「早縄」と、捕えた罪人を長期間拘束するための「本縄」に大別されていました。

時代劇で、同心が十手と縄を手に「御用だ!御用だ!」と言いながら下手人を捕えるシーンを見たことがありませんか?あれが「早縄」です。

『捕縛の図(早縄)』 徳川刑事図譜(明治大学博物館所蔵)

 

そして、同じく時代劇などで、刑が決まった罪人が後ろ手に縛られているシーンを目にしたことはありませんか?あれが「本縄」です。

『日本の礼儀と習慣のスケッチ』(1867年出版)より、市中引き回し(画像:Wikipediaより)

 

捕縄術は昭和に入るまで警察組織によって使用され、このうちの「本縄」が、いま私たちが知っているエロティック・アート「緊縛」に進化していったのです。

後半では緊縛(Kinbaku)が日本発のアート・文化として諸外国に広まった背景と、どのように受容されているかを紹介する予定です。

参考文献・サイト:谷口柳造『十手 破邪顕正の捕物道具』(目の眼 2018年)、岩田茂樹・稲本泰生『やさしい仏像』(永岡書店)、マスター”K”著・山本規雄 訳『緊縛の文化史』(すいれん舎 2013年)、歴史ミステリー研究会『拷問と処刑の日本史』(双葉社 2010年)、SMpedia

トップ画像出典:(左)Wykd Dave torturing his lovely clover by Patrick Siboni 、(右)不動明王立像(国立博物館所蔵品統合検索システムより)