「気鋭のフレンチシェフです」と言われれば、そうかと思ってしまいそうな優しい容貌だ。つい最近までプロ野球の投手だったとは思えない。しかしその大きな手は、荻野忠寛がどんな世界で戦ってきたかを如実に物語っている。


2008年にはロッテの守護神として30セーブを挙げた荻野忠寛氏

「小学校2年で野球を始めてからずっと投手でした。本格的に野球を学んだのは桜美林高校に入ってからで、当時の日記を読み返すと、今なら考えられないような球数を投げていました。それでも故障しなかったのは、体が強かったのでしょうね。桜美林高校は、僕が1年の夏に甲子園に行きましたが、アルプス席で応援していました。2年生からはエースになって、地方大会は連投、連投でした。当時の東京都大会は勝ち進むと必ず3連戦になったので、3連投も経験しました。でも甲子園には行けなかった。

 体が小さくて、ドラフトにかかるレベルでもなかったので、神奈川大学に進みました。1年の時は練習試合も含めて一度も投げませんでしたが、2年春からリーグ戦で投げ始め、それからは卒業するまで1節も欠けることなく投げていました。2カ月で70イニング……かなりきついですが、大学に入ると木製バットになるので、多少抜いた投球をしても打球は飛ばなかった。それもあって、成績を残すことができました」

 荻野はプロ入りまで、一番きつかったのは社会人、続いて大学、高校の順番だったと言う。

「大学卒業後にプロに行きたかったのですが、声がかからず、社会人の日立製作所に行きました。社会人ではスキルを身につける練習があまりできなかった。僕はプロ入りを目指していたので、過酷な環境のなかで、ケガをしないことに全力を尽くしていました。だからスキルを上げる暇はありませんでした。

 2年間で、今、オリックスにいる比嘉幹貴とふたりで投げまくりました。結局、比嘉は潰れてしまって、トミー・ジョン手術を受けました。潰れていなかったらもっと早くプロ入りできたと思います。社会人野球の大会では、僕と比嘉が3日で5試合を投げました。

 ある試合で、疲れていたので『もう投げられません』と言ったら、監督に『オレは今まで野球をやってきて、自分から投げられませんと言ったのはお前が初めてだ』と言われました。その時に『昨日はダブルヘッダーで、中4時間で投げたんだ。今日は中14時間だからいけるだろう』と言われました。それでも、なんとかプロ入りすることはできましたが、この時点で肩やひじは、かなりのダメージを受けていたと思います」

 2006年の大学、社会人ドラフト4巡目で荻野はプロ入りする。24歳の時だった。

「体が小さく、力で圧倒することができなかったので、どうやって抑えようかをいつも考えていました。映像を見ながら、ここにこういうボールを投げたら、このバッターは必ずゴロを打つとか、そういうのばかり考えていました。要するに錯覚を利用するんです。

 人間は物体を見るときに、脳で見ています。脳はすぐに錯覚するんです。投手というのはその錯覚を利用します。反対にいい打者は、自分が錯覚していることに気づいて、修正できます。このことに気がついている選手は一流です。アマにはいませんでしたから、僕は錯覚を利用して社会人では結果を出していました。

 入団が決まって、キャンプ前に浦和で自主トレをしました。成瀬善久(現オリックス)がキャッチボールをしているのを見て『とんでもないヤツがいるな』と思いました。成瀬は前の年に初めて一軍に上がって5勝。球速も135キロくらいでしたが、実際に見て、キャッチボールのレベルが違い過ぎて驚きました。

 キャンプで小宮山悟さんを見たのも衝撃でした。小宮山さんはいろんな変化球を使ってかわしているイメージがあったのですが、実際には全力で腕を振っている。変化球でも全力で腕を振るから強い球がいくんです。『かわすピッチングで、プロ野球で活躍している人はひとりもいないんだ』と気づいて、『これは、今までのやり方を全部変えないと』と思いました。僕の場合、プロでは全力でいってかろうじて抑えられた。手を抜いて投げて通用するレベルではありません」

 荻野が入団した2007年、ロッテの投手陣は先発、救援ともに充実していた。先発は清水直行、小林宏之、渡辺俊介、小野晋吾、久保康友、成瀬善久の6枚。救援陣は薮田安彦、藤田宗一、小林雅英の”YFK“に、小宮山悟、高木晃次。一軍の枠はあと1つか2つだった。

「それを残りの投手全員で争って、なんとか食い込めました。8回を薮田さん、9回は小林雅さん。7回は左なら藤田さん、それ以外は僕という感じでした。

 それで2年目に抑えに回って、キャリアハイの30セーブを挙げました。でも、肩もヒジもギリギリの状態で、『痛いなぁ』という感じは常にありました。

 3年目の5月くらいに本当にヒジが痛くなって、6月か7月ぐらいからシーズン終わりまで塁間も投げられなかったのですが、痛み止めを打ちながら30試合ほど投げました。わざとタイミングを変えて投げるなど小細工もしましたが、この年が実質的に最後となりました。結局、最初の3年間で170試合を投げて、残り5年間で9試合しか投げられませんでした。でも今から思うと、その5年間の経験がめちゃくちゃ生きている」


プロ通算178試合に登板した荻野忠寛氏(photo by Kyodo News)

 荻野は残りの5年間で肉体の機能や使い方を独学で学び、自身の考えでリハビリを行なった。プロではもう活躍する機会は訪れなかったが、投げることはできるようになっていた。

「フォームがよければ、靱帯への負担を少なくできることに気づいたんです。MLBで170勝を挙げたR.A.ディッキーは、プロ入り時のメディカルチェックでヒジの内側の靱帯がもともとないことがわかって契約金を下げられました。でも彼は、96マイル(約154キロ)の球を投げることができました。逆に、投げ方が悪ければ、80キロの球速でも切れることがある。

 切れないのは投げる瞬間に、筋肉が靱帯を守るからなんです。負荷がかかる瞬間に関節の筋肉などを働かせることで、靱帯への負荷を減らすことができる。これを知るまで、僕は投げたあとのケアを誰よりも一生懸命やっていましたが、じつは『どうやったら炎症が治まるか』よりも『どうやったら壊れないか』が重要なんです。

 一時期、山本昌さんと一緒に練習をしたことがあったのですが、昌さんは『アイシングなんかしないよ。(どうすれば)いくら投げても故障しないか……そればかり考えている』と。つまり、投げても痛くならない方法、ダメージを受けない方法を考えることが大切なんです」

 荻野は2014年に戦力外を受けるが、翌年から社会人の日立製作所に復帰する。この時点では独自の”壊れない投球フォーム”を完成させていたのだ。

「『これをやったらまだまだ投げられる』という感覚で社会人野球に戻りました。監督から『これまで都市対抗の決勝の舞台に立ったことがない。どうしても出たいから力を貸してくれ』と言われました。僕は主戦投手として投げて、日立製作所硬式野球部の創部100周年の2016年についに都市対抗の決勝に進出しました。決勝で敗れましたが準優勝。そしてこの年限りで現役を終えました。

 社会人野球に復帰した2年間で、プロと社会人の意識レベルの違いに衝撃を受けました。『これはなんとかしなければ……』と思うようになって、それまでは誰かに教えるという気持ちは一切なかったのですが、指導者になろうと決心して、日立製作所を退社したんです」

 荻野はフリーの指導者としての全国を飛びまわっている。理論や方法論も独自に編み出している。簡単に言えば「センスを鍛える指導者」だ。

「指導者になった時に練習メニューとかトレーニングメニュー以前に、”やる人間のセンス”を鍛えなければどうしようもないと痛感しました。大学院とかいろいろ探しましたが、どこにもなかったので、すべて独学で身につけました。

 どんな分野でも優秀な人は”センス”を持っています。センスがある人とは、物事をとらえる優れた力と思考技術、知識を持った人のことです。優れたイメージをつくって、そのイメージに自分を引き寄せることができる人。センスがなければ、どんないい指導を受けても伸びません。プロ野球選手もセンスがあるから自分で努力ができて、成績を残すことができます。

 そういう”スポーツセンシング”があるアスリートをつくるため、どんな能力を磨くべきか。そのためにどんな努力をすべきかを具体的なプログラムに落とし込んで指導しています」

 今、佐賀県の少年野球チームや東京都町田市など、3つのベースボールスクールのアドバイザーを務めている。2017年2月には学生野球資格回復認定も受け、硬式野球だけでなく、高校の軟式野球部、大学の準硬式野球部の指導も行なっている。

 そして最後に荻野はこう言った。

「たとえ育成枠であっても、機会があればプロ野球に行ったほうがいいと思っています。実際に入って、一流の選手がどんな練習をしているのか、どんな意識で努力しているのかを実感すれば、人間は変わりますし、その後の人生も大きく変わると思います」

 高校、大学、社会人、プロとさまざまなレベルの野球で実績を残した荻野の”経験”に裏打ちされたユニークな指導論は、ほかのスポーツ団体からも注目されている。また、一般企業の経営者のなかにも荻野の話を聞きたがる人が出てきているという。今後、その注目度はさらに増すことだろう。