僧侶でベテラン看護師の玉置妙憂さん

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 朝の明治神宮に、ぞろぞろと人が集まってくる。

【写真】ベテラン看護師で僧侶でもある、玉置妙憂さんの半生

 中高年の女性を中心とした顔ぶれは、日帰りバスツアーの集合風景のようだ。

「おはようございます。こちらで受付をお願いします!」

 大きく手を振りながら迎えるのは、僧侶で、現役のベテラン看護師でもある、玉置妙憂さん(53)。

 その日は、妙憂さん主宰の『祈りの会』が行われることになっていた。

「毎回、瞑想(めいそう)や音楽を取り入れて、いろんな形で祈りの効果を体感してもらっています。今日は、明治神宮を散策して、ご祈祷(きとう)を受け、ゲストの講演を行う予定です」

 そう話すと、「ちょっと失礼します」と言い置いて、「それでは、今日の予定をお話しします!」と、メモを片手に、参加者に案内を始める。

 50人あまりの参加者は、闘病中の患者や、その家族のほか、医療や福祉の現場で働く人も多い。

 そのひとり、特別養護老人ホームに勤務する看護師は、参加の目的をこう話す。

「最近は老人ホームでも看取(みと)りの機会が増えています。ご家族が悔いなく見送れるように、看護師としてどう言葉をかければいいか、妙憂さんのお話を参考にしたくて来ました」

 多くの人が耳を傾けたくなるのは、妙憂さんが医療現場を熟知した僧侶、という特別な存在だからだろう。

「介護するご家族やスタッフは、自分のことを後回しにして患者さんに尽くしがちです。でも、そういう人ほど、燃え尽きてしまう。仏教では、自分の利益と、人のための利他は、同じくらいに大切だと説いています。患者さんを大切にするためにも、まずは、自分を大切にしてほしいとお伝えしています」

 その思いを綴(つづ)った、『まずは、あなたのコップを満たしましょう』(飛鳥新社刊)は、今年6月に出版以来、患者の家族や介護現場で働く人々を中心に、「心が軽くなった」と多くの反響を呼んでいる。

「終末期を迎えた患者さんにとっても、妙憂さんの支えは大きい」、そう話すのは、かつて同じクリニックに勤務し、兄弟子の僧侶でもある、鍼灸(しんきゅう)師の関龍圓(せきりゅうえん)さん(50)。

「末期がんの患者さんが、亡くなる前に妙憂さんに会いたいと連絡してきたこともあります。人生の最後に会いたい人に選ばれるって、すごいことだと思います。余命が短い患者さんと向き合うと、こちらの気持ちも苦しくなります。共鳴しますから。だけど、妙憂さんは逃げずに、しっかり受け止める。それが相手にも伝わるんですね」

 プロの看護師、そして、僧侶として、多くの人の思いを受け止める。それができるのは、自身が幾多の試練を乗り越えてきたからだろう。

 1964年、東京・中野区で生まれた。俗名・玉置憂子。2つ違いの弟がひとりいる。

「うちの両親は、よく結婚したなあと感心するほど、ギャップのある夫婦なんです」

 大工の棟梁(とうりょう)として腕をふるう父親のもとに嫁いだのは、議員秘書をしていたインテリの母親。結婚後、家庭に入った母親は、有能な秘書のごとく、有能な母として手腕を発揮していた。

「もうね、洋服も食事も全部手作り。外食も、何が入ってるかわからないからって、全面禁止で。重かったですねえ、母の頑張りが」

 頑張り屋の母こと、羽田公江さん(78)が話す。

「子どもたちの健康を考えて、インスタント食品を食べさせるのは嫌だったんです。それにね、お菓子を手作りすると、とても喜んでくれて。ふわっとふくらんだシュークリームにカスタードを入れたら、わーっと子どもたちの歓声が上がるでしょ。それがうれしくて、頑張ってしまったんですね」

 大人になった今でも、妙憂さん母娘はとても仲がいい。こういう関係になれたのは、ある時期から、母親が子離れしたからだという。

 きっかけは、小学校低学年で始めた水泳。めきめきと上達した妙憂さんは、選手コースに抜擢(ばってき)され、先輩の選手たちと過ごす時間が増えた。

「小学校高学年になったころには、先輩の影響で、フロイトの心理学の本を読んだりしてね。そういう大人びた子だったので、お手製の服なんて、子どもっぽくて着られないと、母に直訴したんです」

 突然、反旗を翻した娘に、怒り心頭だった母親は、じきに、子どもたちに向けていた目を、自分に向けるようになっていった。

「それから母は、タガがはずれたように、趣味に没頭していったんです。書道にちぎり絵、和裁に大正琴─。師範免許も取るほどに次々と極めていって。ほんと、極端というか、おもしろい人でしょう(笑)。おかげで、私と弟は、すごくラクになりました」

 もっとも、「友達とのトラブルもなく、育てやすい子だった」と公江さんが振り返るように、妙憂さんはどちらかというと優等生タイプ。

 水泳も、苦しい練習に耐え、高校卒業まで続け、勉強も手を抜かなかったという。

 その反動だろうか。大人になってから、次々と思い切った行動に出ている。

 そのひとつが、30歳にして、看護師を目指したことだ。

幼い息子のため看護師に転身

「私が息子専属の看護師になる!」

 そう決めたのは、幼い息子が重度のアレルギー体質だったからだ。

 1987年、専修大学法学部を卒業後、法律事務所に就職。27歳で結婚退職し、翌年、長男が誕生してからは、看病に明け暮れる日々が続いた。

「ぜんそくやアトピーもあって、発作もしょっちゅうでした。そのたびに、慌てて病院に運びながら、痛感したんです。私がプロフェッショナルにならないと、この子を成人させられないと」

 ところが、看護学校を卒業した3年後には、長男はすっかり回復。当時、考え方の違いから、離婚したこともあり、妙憂さんは病棟勤務の看護師として働くことを決めた。

「新人で初めて夜勤を任された日のことは、今も鮮明に覚えています。深夜、懐中電灯を片手に、患者さんのベッドを回りながら、“私が患者さんの命を預かっている!”と、すごい使命感で。天職だったんですね、この仕事が」

 しかし、仕事にやりがいを感じながらも、いや、やりがいを感じていたからこそ、一方で、医療現場の体制に違和感が募っていったという。

「担当する患者さんの中には末期がんの方もいました。もう、抗がん剤治療をしても、効果はほとんど見込めないような。それでも医師は抗がん剤をすすめる。すすめられれば患者さんは、一縷(いちる)の望みを託し、つらい治療を受けます。中には、体力の限界まで治療を続け、亡くなったご遺体に、抗がん剤の点滴だけがポタポタ落ちていく……。そんな光景も見てきました」

 残された時間を、自分らしく生きるために、『治療しない選択』もあるのではないか。何度も口から出かかった。

「でも、年は食っていても、ぺいぺいの看護師が、医師に意見なんかできるはずないですから─」

 忙しく働くうちに、歳月は流れ、看護教員として後輩の指導を任されるころには、医療現場の矛盾すら感じなくなっていた。

 そんな妙憂さんが、再びこの問題に直面したのは、看護師になって10年以上が過ぎた40代半ばのころ。

「再婚相手のがんが、再発・転移したんです」

夫のがん再発で苦渋の決断

 夫・玉置哲さんと子連れで再婚したのは、2003年、39歳のとき。

 16歳年上で、家電やレストランのメニューなど『物』を専門に撮影するカメラマンの哲さんは、職人気質で、口数が少ない男性だった。

「話しかけても、“さてね”なんて、気のない返事をするし、いつも無愛想。でも、趣味で撮った草花の写真を見せてもらったとき、がらりと印象が変わりました。こんなに繊細な写真を撮る人は、きっとやさしい人なんだろうって」

 プロポーズの言葉は、

「僕を看取ってください」

 付き合う前に、夫は大腸がんを経験していた。

 もっとも、経過は良好だったので、「看取り」にリアリティーなどなかった。

 再婚の翌年には、次男が誕生。家族4人の、にぎやかな生活が始まった。

 がんの転移が見つかったのは、最初の手術から5年後、夫が還暦を迎えたころだった。

「膵臓(すいぞう)の膵胆管という、厄介なところでした。手術はしたけれど、主治医は取り切れなかったがんを、抗がん剤でたたいたほうがいいと。でも、主人はきっぱり断ったんです。“もう、治療はしません。家に帰してください”って」

 医療的に、まだやれることはある。抗がん剤が効けば、延命できるかもしれない。新薬が開発される可能性だって、捨てきれない。看護師としてわかるだけに、夫の決断を容易には受け入れられなかった。

 幼い子どももいるのに、無責任だと、腹も立った。

 何度も話し合いを重ね、ときに言い争いもした。

 やがて、折れたのは妙憂さんだった。

「主人の意志が固かったこともあるけれど、思い出したんですよ。看護師になったころに感じた、あの違和感を。残された時間を、自宅で好きなことをして過ごしたい。主人が望むなら、かなえてあげようって」

 そう言った後、言葉を足す。

「うーん、でもね、頭でわかっていても、やっぱりずっと葛藤があったなあ」

まるで樹木が枯れるように

 自宅に戻ってからの哲さんは、好きな草花の写真を撮りに行くのが日課だった。

「毎日のように、カメラを担いで“行ってきます”って上機嫌で」、そう話すのは、現在、看護師として働く、長男・史一さん(26)。

「夕方になると、“ただいまー”って帰ってきて、“いい写真、撮れた?”って聞くと、“おう”ってうれしそうに笑ってね。機材を置くと、待ちきれないように、好きな酒を飲み始める。仕事から帰った母も、よく一緒に晩酌してました」

 がんの再発・転移を機に、仕事をリタイアした夫に代わり、妙憂さんが一家の大黒柱として家計を支えた。

「余命は告げられていなかったけど、5年、10年、この生活が続くと信じていました。抗がん剤治療をしなかったので、体力が落ちることもなく、すごく元気でしたから」

 しかし、残り時間は思うほど長くはなかった。

 62歳で旅立った哲さんの闘病生活は、2年あまり。

 1年が過ぎたころから、体調は徐々に悪化し、亡くなる半年前から、妙憂さんは仕事を休んで看病に専念した。

「外出するのが難しくなると、主人は家で1日中、撮りためた写真の整理をしていました。フィルムで撮った昔の写真も、パソコンに取り込んで、マウスでひとつひとつ丁寧に埃(ほこり)を取って。すべてを終えて、写真のデータを私に託したときは、ホッとした表情を浮かべていましたね。もう、やり残したことはない、そんなふうに見えました」

 やがて、寝たきりになると、在宅医療の医師やヘルパーの訪れる回数が増えていった。それでも、「家はいつもどおりだった」と史一さんは話す。

「母はいつも、“自由にしてていいよ”って僕らに言っていました。だから、遊びにも行ったし、友達も泊まりに来ていました。ふだんの生活の中に哲さんの看病があったから、無理せず、自然に手伝えたのかもしれません」

 当時、看護学生だった史一さんは、習いたての知識を生かし、着替えや、体位替えを担当。小学2年生の次男は、すっかり食欲が落ちた父親に、すりおろしたジュースを飲ませる係だった。

「長男は心強い助っ人でしたね。次男は無邪気な年ごろですから、主人がジュースを飲むと、“飲んだ! 飲んだ!”と大はしゃぎ。ムードメーカーになってくれました」

 ときに妙憂さんの手をそっと握ることがあった哲さん。

「そのぬくもりは、今でも私の宝物です」と、妙憂さんは話すが、哲さんも同じ思いで旅立ったのではないか。

 やりたいことをまっとうし、住み慣れたわが家で、家族が奏でる生活の音に囲まれて、残りの時間を過ごす。

 俺は幸せもんだ、哲さんの声が聞こえてくるようだ。

「主人は、まるで樹木が枯れるように、安らかに旅立ちました。病院と違い、無理な延命処置をしなかったのもよかったんですね。看護師として、今まで見たことがないほど、美しい死にざまでした。主人は身をもって、教えてくれたのかもしれません。人は本来、自分でちゃんと後始末をして、旅立てるんだよって」

50歳で決意した僧侶への道

 早いもので、今年は夫の七回忌だった。法要の席で、僧侶のひとりとしてお経を読んだのは妙憂さん。

 お坊さんになろうと決めたのは、さかのぼること、夫の四十九日のことだ。

「この話、変人扱いされるから、人に話すなと息子に言われてるんですが……」

 そう前置きして、語られたのは、大学時代に1年にわたり留学した、中国での出来事。

 リュックひとつで放浪していた妙憂さんは、タクラマカン砂漠の大地に立ったとき、「かつて、ここに来たことがある」と、強いデジャビュを感じたという。

「そのとき、自分の前世は、中国の修行僧だったと感じ取ったんです。これはもう、理屈ではなく、直感でした。主人を看取り、俗世でひと仕事を終えたことで、原点回帰のように、当時のことが蘇(よみがえ)ってきたんです。そうだ、そうだ、お坊さんだったと、進むべき道が見えたんです」

 それからは、見えない力に導かれるように、事が運んだ。

出家のため、退職を申し出た妙憂さんに、「親戚に僧侶がいる」と、職場の上司が紹介したのは、高野山真言宗。

 宗派について調べるうちに、雷に打たれたような衝撃を受けた。

「留学中、西安(せいあん)で心惹かれて1週間も通い詰めた寺がありました。それが、真言宗の開祖、弘法大師が修行した、青龍寺だったんです」

 強い運命を感じた妙憂さんは、夫を看取った翌年、翌々年と短い修行の段階を経て、「四度加行」という本格的な修行に臨むことを決めた。

「得度、受戒の短い修行だけでも、僧侶と名乗れます。頭も丸めなくていいし、ここまではやる人が多いんです。四度加行は、修行を終えると弟子がとれ、葬儀でお経も読めます。ただ、ほぼ1年間、完全に俗世を離れる修行なので、家族をどう説得しようか頭を悩ませましたね」

 ところが、意を決して切り出したところ、長男と母親は、「ふ〜ん」という反応。当時、小学4年生だった次男は、「シュッケってなあに?」。いずれにしても、反対はなかったという。

 その理由を問うと、長男と母親は、こう口をそろえた。

「言っても、聞かない(笑)」

 史一さんが続ける。

「それに、責任感のある母なので、僕ら息子が困らないよう、事前に準備をしてから行くとわかっていたんです」

 その読みは正しかった。

 母・公江さんが話す。

「気がかりは孫たちのことでしたが、私に頼みたいというので、それならオッケー、任せてと。私が孫たちの家で暮らすことにしたんです」

 こうして、妙憂さんは、本格的な修行のため高野山へ。

 2014年、節目の50歳を迎えたときだ。

剃った頭で息子と母に再会

 修行僧の1日は、早朝(といっても深夜2時)から始まる。1日三座(一座4時間)を拝み、合間に掃除と食事。テレビも私語も、むろん携帯も禁止で、9時には就寝する。

「下界では合理的に手際よく進めることが美徳ですが、修行中は仏さまの教えが絶対なので、話し方から歩き方まで、徹底的に直されました」

 中でも、苦しかったのは煩悩との闘い。

 しばらくは、帰ることばかり考えていたと振り返る。

「もう、息子たちのことが心配で、心配で。出家なんてするんじゃなかったと、何度後悔したことか。でも、そうだなあ、2〜3か月が過ぎたころから、自分の気持ちが手に取るように見えてきたんです。私は心配の種を自分で作って、修行から逃げ出す口実にしてるんだって。心の入れ替えができたんですね」

 それからは、苦しいだけの日々が、明らかに変わった。

「たとえ、所作で寮監から注意されても、ムッとならず、素直に聞けるようになりました。自分自身の心のざわつきに気づき、それを柳のように受け流す術(すべ)が身に付いたんです。今考えれば、お山の中ではあらゆるものからしっかり守られていて、ラクなものでした。下界で生きていくほうが、ずっと修行ですよ」

 徳を積み、悟りを開くとは、こういう境地に達することなのだろう。

 修行の仕上げともいえる護摩(ごま)行では、死生観が明確になったという。

「何千回と真言を唱えながら、護摩木を燃やすと、火の粒が集まり、炎となり、やがて燃え尽き、天へと散っていく。私たちの人生そのものだと感じました。天に散った粒は、再び集まり、新しい命となる。この死生観が、私の考え方の基盤になっています」

 夫を亡くした悲しみも、「新しい命を得る」と悟ったことで、癒えていったという。

 1年が過ぎ、迎えた修了式には、次男と母親が列席した。

「久しぶりに会った息子は、照れたように私の坊主頭をなでていましたね。“寂しかった?”って聞いたら、“ぜんぜん!”なんて強がって(笑)」

 母・公江さんが話す。

「それはおごそかな素晴らしい式でした。お坊さんになった娘は、ひと皮むけたというか。何事にも動じず、自分を持って、すっきりと立っている。そんな印象でしたね」

 以来、妙憂さんは看護師として働きながら、僧侶として多くの人と向き合っている。

「人には持って生まれた役割があります。もしかして、主人の最後の役割は、私を僧侶にすることだったのかもしれません。同じように、私も、私に与えられた役割を、まっとうしようと思っています」

「看護師で僧侶」だからこそ

 妙憂さんの1日は、早朝3時半に起きて、お経をあげることから始まる。

「朝の読経が終わったら、メールの返事を書いたり、曼荼羅(まんだら)を描くのもこの時間です」

 仏の悟った境地を絵柄にした美しい曼荼羅は、不思議なことに修行を終えて、突然、描けるようになったという。

 朝食は、中学生になった次男とともに。「今日のご予定は?」と聞き合うのが日課だ。

「最近は仕事を終えてから、打ち合わせが入ることも多いので、帰宅時間をお互いに確認しています」

 僧侶になって、3年あまり。たくさんの役割を担っている。

 平日は、看護師として、都内の精神科に勤務。1年前、「仏教を医療の現場に生かしたい」と学会で発表したことから、職場と縁がつながった。

 勤務先の榎本クリニック、理事長・榎本稔さん(82)が話す。

「医療では患者さんの症状を抑えられても、根本を解決しづらいんです。生い立ちや人間関係など、さまざまな問題を抱えていますから。昔から医療と宗教は密接なつながりがありました。そこで、妙憂さんには新しい角度から、アプローチしてもらっています」

 写経や写仏、瞑想やヨガを取り入れた「仏教プログラム」は、少しずつ形になっている。

 休日にはボランティアで、在宅医療の患者を訪れる。

「末期がんなど、終末期の患者さんが多いので、最初は、“まだ坊主は呼んでない”と追い返されるかと心配でしたが、ありがたいことに受け入れてもらえています」

 話す内容も、看護師のときとは、ずいぶん変わった。

「坊主になってから、“極楽浄土ってあるの”なんて聞かれることも増えました。看護師の立場で“あります”と答えても説得力がないけれど、僧侶として“とても美しい場所のようです”と答えると、患者さんは安心してくださいます。でも、もっぱら聞き役が多いですね。患者さんの不安や愚痴、悲しみ、いろんな感情を、ただうなずきながら聴かせていただいています」

 患者と妙憂さんをつないでいる、訪問看護師の村崎佳代子さん(52)が話す。

「妙憂さんは、訪問だけでなく、医療・介護専用のSNSでも1対1で、患者さんとつながっています。不安が込み上げたとき、いつでも安心して、本音を書き込める相手がいると、患者さんも気持ちが救われるんですね。医療現場で、新しい役割を担ってくれています」

 患者本人や家族から手紙をもらい、自宅を訪れることも少なくない。医療者ではフォローできないような「心の痛み」に、妙憂さんはそっと寄り添う。

 その活動は、看取られる側だけにとどまらない。

 昨年5月には、「社団法人・介護デザインラボ」を設立。介護士、患者の家族など看取る側を対象に、終末期の患者との向き合い方を、医師や専門家とともに講座などで伝えている。

 実際に、夫を看取った経験を持つ妙憂さんのアドバイスは、「自分に二重丸をあげよう」など、看取る側の気持ちを軽くする。だからだろう、講座は毎回、満席だという。

「団塊の世代が後期高齢者になる2025年には、介護する人、される人がピークになります。それまでに、死にやすくなった、生きやすくなった、そう思える人がひとりでも増えるよう、環境を整えていきたいですね」

 親の介護問題に、やがて訪れる自分の老後。誰もが避けては通れない問題に、妙憂さんはそっと力を添える。

 それが、現世の役割とばかりに─。

(取材・文/中山み登り 撮影/佐藤靖彦)

中山み登り(なかやまみどり)◎ルポライター。東京生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP研究所)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など。高校生の娘を育てるシングルマザー。