「ココナッツオイルブーム」に火をつけたママ起業家、こじらせ過ぎていた驚きの半生
東京・原宿─。
全国の女子の憧れの街、ファッションの聖地である。若い女性であふれる街を、白いジャケットにパンツスタイル、リュックを背負い、キックボードで颯爽(さっそう)と走り抜ける小柄な女性がいた。
荻野みどりさん、36歳。
数年前から大ブームを起こしているココナッツオイルの火つけ役として知られ、6歳の娘を持つ、ママ起業家である。多忙な彼女にとって、キックボードは大事な時短グッズ。折りたためば電車にも乗れるため、営業先への移動や娘のお迎えにも重宝してきた。
原宿で創業した食品会社『ブラウンシュガーファースト』は、「子どもに食べさせたいかどうか」を基準に食材を厳選する。ココナッツオイルも、その目線で選ばれた逸品だ。
「確かにココナッツオイルブームのきっかけは当社でした。うちが始めるまでは、ココナッツオイルは、ネットワークビジネスでしか買えない高額食品。ところが、アメリカでは健康志向の強い人々のための一般の調理油として使われていました。調べれば調べるほどココナッツオイルの性質がわかってきて、全国の食卓に届くようにしようと思い立ったんです」
2013年に売り出した「有機エキストラバージンココナッツオイル」。みどりさんたちは、そのよさと食べ方をメディアや美容の専門家、小売店に伝えた。それが口コミで広まり、美容や健康にいいオイルとして翌年からブームに火がついたのだ。
* * *
そもそも、みどりさんが食品会社を始めたのは2011年、娘を出産したことがきっかけだった。完全母乳で育てていたころ、娘の小さな身体に湿疹ができ、便秘になってしまったのだ。
「その原因が自分の母乳だったことに気づいたんです。ホイップクリームたっぷりのケーキを食べたり、コーヒーを飲んだりした後、症状が出ているようでした。自分だけなら何か変化があっても“まあ、いいか”という感じで行動に起こすこともなかったでしょう。でも、明らかに自分が原因でひとりの人間が体調を崩すとさすがにビビるわけです」
以前から、有機野菜・無添加食材を使った食事法やマクロビオテックに関心はあり、多少は勉強もしていた。
「でも、生活に取り入れるのは簡単ではなかったし、世の中にナチュラルな食品が少ないという不満もありました。だったら自分で作ろう、気軽に買えるようにしよう。そうしたら、みんな助かるんじゃないか、そう思ったんです」
手作りのお菓子屋さんが原点
みどりさんは、子どもが安心して食べられる美味しいお菓子を販売しようと思い立つ。
それは福岡でお菓子教室を開いていた母・美保子さんの存在もあったからだった。
「母は、お菓子を作らせたら天才。抜群に美味しい。東京でいろんなケーキを食べれば食べるほど、母親の作ったものがどれだけ美味しかったか、に気づきました。これは母に頼むしかないと」
さっそく母に電話をかけた。
「お母さん、わたしお菓子屋をやろうと思うんだよね」
「わかった、協力するよ」
母は、娘の突然の頼みに、詳しいことを尋ねることなく、二つ返事で引き受けた。
手始めに、アメリカからいろんな商品を取り寄せてみる中で、みどりさんが注目したのは、ウーピーパイ。 「アメリカの人気ドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』で主人公の女性たちが食べていたお菓子。“ウーピー”とは子どもが“やったー!”という声のこと。お母さんがキッチンにある余り物で作ったお菓子で、まずそのストーリーが素敵だなと。これはブームになる可能性を秘めてるなぁと思いました」
2011年9月、『ブラウンシュガーファースト』を創業。娘がまだ4か月のときだった。
レシピは母に頼み、実際のお菓子作りは当初、パティシエに頼もうと考えていたが、試作の段階で工賃が高くて折り合わず断念。そこで、母が古くから親交のあった福岡県小郡市にある『社会福祉法人こぐま福祉会』に頼んでみることにした。発達に課題のある子の療育施設である。
理事長の大熊猛さんが言う。
「みどりさんの“お母さん目線のお菓子作り”に共感できたし、障害のある子たちの将来のためにもなると喜んで引き受けました。彼女がわれわれを先導してくれたんです」
みどりさんは子どもたちに無理のないよう、現場での仕事の差配は福祉会に任せた。
創業資金は20万円。ウェブショップをオープンさせ、毎週末、東京・青山のファーマーズマーケットに出店した。寒空の下、娘をおんぶしながらお菓子を並べ、ひとつひとつ手売りで販売したのだ。
「子どもに手がかからなくなるまで待つとか、お金を貯めてからにするという発想はありませんでした。0歳の娘はまだオムツだし、お腹がすいたと泣き出したらおっぱいをあげればいい。むしろ、歩き出したり、トイレトレーニングを始めてからのほうが手がかかる。だから、とにかく走り出したんです」
コンビニとストーリーを共有
ウーピーパイは、よく売れた。だが問題もあった。「洋生菓子」は流通が難しく、送料が高額になってしまうのだ。そこでかわりに作り始めたのが、無農薬栽培の素材にこだわった「ココクッキー」。
2013年3月、このクッキーが、ある大手コンビニチェーンで取り扱われるようになり、会社は飛躍し始める。
それはまったくの思いつきだった。娘を保育園に送り届け、公園の横をキックボードで走っているとき、ふとあるコンビニが目に入った。
“うちのお菓子はあのコンビニに置けばいいんじゃない?”
そこは健康志向の品ぞろえで知られるチェーンだった。
みどりさんは、すぐにそのコンビニの本社の番号を調べ、電話をかけた。そして自分がお菓子屋さんであることを告げ、クッキーの仕入れ担当の方と話がしたいと頼み込んだ。
電話口では、「クッキーは足りている」と言われたが、食い下がる。
「お菓子だけじゃなく、美味しいレモンスカッシュもあります。せめて、サンプルだけでもお送りしたいのですが」
すると数日後。商品が美味しいと好評だったらしく、面談の場が設けられた。 みどりさんはその場で担当者にこう訴えかけたという。
「お母さん目線で作られたお菓子は、手売りだとどうしても限られた人にしか届きません。だからこそ、コンビニで買えるべきなんです」
担当者はその力強い言葉を受け、「僕らは、こんな思いの込もった食べものを売るべきだ!」と賛同。“その商品を売ることがお客様の幸せにつながる”というストーリーを共有してくれた。
発売までにかかった期間は半年。当時、みどりさんが売っていたクッキーは食品の表示法上、問題だらけだったからだ。食品流通に乗せるには、記載する情報はもちろん、食品表示の文字の大きさなども規定に沿ったものでなければいけない。担当者は販売できる商品になるよう、値付け、卸値といった基本的なところから、時間をかけて熱心に指導してくれたのだった。
このクッキーは、現在まで6年間、『シャングリ・ラ ホテル東京』や『伊勢丹百貨店』で安定的に購入されている。
「施設で作っていることはセールストークにはしていません。身体に優しくて美味しいものを販売しているだけ。興味を持った人が箱の裏を見たら福祉施設で作ってるのを知って、ピンとくるくらいでちょうどいい。いちばんの目的は商売ですから」
ココナッツオイルとの出会い
お菓子を作る材料は、市販されている食材の中でも、なるべく身体にいいものを選んでいた。しかし、お菓子に欠かせないバターには、「美味しい反面、とりすぎはよくない」という意識もあった。
「わが子に食べさせたいかどうか」という基準に照らし合わせたときに、バターは好きだけれど、ベストな選択肢ではないと思える。そこに全国的なバター不足も重なり「じゃあ、バターにかわる油脂はないか?」と探し始めると、アメリカではお菓子を焼くときにバターの代用としてココナッツオイルを愛用しているという記事を発見する。
しかし、当時の日本では入手することができなかった。そこで、アメリカからさまざまなメーカーのココナッツオイルを取り寄せ、お菓子を作り、食べ比べ、研究を重ねたのだ。
「ケーキ、マフィン、パウンドケーキ……どれもびっくりするくらい美味しくできました。コクがしっかりとあるし変なにおいがない。食べた後のすっきり感がある。胃もたれしなくて、身体にも優しくうれしいことばかり。私にはココナッツオイルが宝物に見えるようになりました(笑)」
さらに、ココナッツオイルは、健康によいことが医学的にも証明されていることを知る。身体によくないといわれているトランス脂肪酸を一切含まず、母乳に含まれる成分と同じラウリン酸がとれるため、免疫力を高めるというのだ。
「日本中の食卓の油をかえるんだ! と気合が入りました」
何とかして自分たちが販売するお菓子すべてにココナッツオイルを使いたいが、アメリカからの輸入では価格が高すぎて、お菓子の値段も上がってしまう。
しかし、大きな問題にぶつかったときこそ、彼女のエンジンは全開になる。
アメリカで売られているココナッツオイルのほとんどは、東南アジアで生産されていた。そこで、いろんな国の工場で作られたココナッツオイルを試し、良質だと感じたココナッツオイルの製造工場に連絡し、現地まで飛び視察。ようやくタイに納得のいく工場を見つけることができたのだ。
こじらせてばかりの20代
まさに順風満帆に見える彼女の人生だが、実はありえないほどの数の職を転々とし、こじらせまくった末にたどり着いた現在だった。
みどりさんは、1982年に福岡県久留米市に生まれた。
祖父は戦後、和菓子屋を創業した商売人。実はブラウンシュガーファーストという名前は、「ナチュラルなもの」という意味で「ブラウン」、そして祖父の名前「佐藤始」がその由来だった。
父は漁業協同組合連合会で働くサラリーマンで、母は専業主婦。姉と弟がいる。
「九州という土地柄、“女は25歳までに結婚して子どもを産むことこそが幸せ”という価値観の世界で育ってきたんです。でも、私はそれに抗(あらが)うような性格。それがこじらせた20代を過ごす原因だったんですね」と彼女は笑う。
子ども時代からファッション雑誌を愛読し、アパレル業界を目指していた彼女は、高校を卒業すると、地元の短大の被服科に進学する。しかし、本音を言えば、地元を離れたい気持ちでいっぱいだった。
「高校を卒業したらアメリカに行きたい、なんて言っても保守的な両親には許してもらえない。それでも、短大の1年のときに、1か月間のニューヨーク短期留学だけは許してもらえたんです」
留学先で出会った日本人の中には、親から「どんどん海外に行きなさい」と言われた子や米国の大学に行くことが決まっている子もいた。
「そこで、私はこのまま短大にいていいのだろうか、と悩むようになりました。短大では当時、2年生になるとウエディングドレスの製作をすることになっていたんです。私はそれに1年間を費やすことに納得できませんでした。まるで“卒業したらこれを着て結婚してハッピーエンド!”というシナリオに思えて心がザワついたんですね。それで、退学を決意しました」
当然、周囲からの反対もあるだろうと短大在学中からバイトをしていたアパレル会社に就職を頼み込んでおいた。
母親の美保子さんは言う。
「驚きましたよ。短大の1年ではものすごく勉強していましたから、正直悲しかった。でも意外だったのは、主人が“よかよか。自分のしたいことをやったらよか”と認めてあげたことですね」
アパレル会社で、彼女は猛烈に働いた。
「すぐにキャリアを積まなきゃと思いました。大好きなファッションだから、あらゆることが勉強になりましたね」
彼女が任されたのは、閉店が予定されていた店舗。
そこで、お客さんのカルテを作ったり、1日に2、3回マネキンの服を着替えさせたりしてリピーターを増やし、売り上げを1年間で18倍にした。
当時をよく知る会社の元先輩、白石愛乃さんが語る。
「彼女は、高校時代からお客さんとして来ていました。靴や洋服の背景に興味があって、“それはどんな物語を持っているのか”を知りたがりましたね。やると決めたらやる子で、普通なら先輩の言うことを聞くところでも、何でもかんでも自分の色にしていく。すごく評価される反面、恐怖に思う同僚もいました。アパレルってポジションの世界ですから。でも、最終的には“みどりちゃんには敵(かな)わないな”となっていきました」
誰もが彼女の努力と成果を認めた。けれども、本人は「このままでいいのだろうか?」と再び悩み始める。
「どれだけ頑張って働いても、10年後に到達できるのはここまでだな、と限界を感じるようになっていました。それで2年目に、会社を辞めて東京に出ることにしたのです」
「美しくない履歴書」
もっと大きな世界を見たい。とにかく福岡を出よう──。彼女は上京し、錦糸町の雑居ビルのドミトリーに住み、派遣の販売員として働きに出た。
百貨店の婦人服売り場の販売員に始まり、パソコンの販売員、ウエートレス、工場内軽作業、コーヒーショップの店員、外資系企業での外国人上司の秘書、電気店でのインターネット回線の販売員、ホームページ制作会社の営業、ヨガスタジオの店舗開発管理……。上京1年後には、さまざまなスキルを身につけ、900円だった時給は1800円になっていた。
新しい仕事を始めるたびに、最初の3か月は全力投球。ある程度その会社での仕事が身についたと思ったら「卒業」を繰り返し、職を転々とした。
「学歴がないぶん、どんどん稼ぎ口を増やさなければ、という焦りもありました。でも、これは私にしかできない仕事じゃないと思っちゃう。私の本業は何だろう、と悩みながらさまざまな仕事にチャレンジしていました」
同じ場所で仕事を続けられないのは、学歴のない自分は昇進も昇給もないだろうと思い込んでいたからでもあった。
「大卒には負けられない、という思いが常にあって、がむしゃらでしたが、現実は厳しいことも思い知らされました」
東京は実力主義だと思っていたが、大手になればなるほど学歴主義があからさまで、入社どころかエントリーすらできない企業もあった。20代前半で数え切れないほどの仕事を経験し、みどりさんの履歴書はお世辞にもきれいとは呼べない代物に仕上がっていた。
さらに、短大中退以降の学歴にも続きがあった。
「営業職をしているときに、自分が世の中のことを何も知らないと痛感して、放送大学に入って一般教養を勉強したけど、1年で中退。23歳のときには、社会人入試で駒澤大学の社会学部に入学したんです」
のちに国際政治に興味を持ち、駒澤大学も中退。今度は慶應義塾大学の通信教育課程で学ぶ。しかし結局、ここも中退してしまう。
「大学をやめるたびに自己否定を重ねていきました。そして、どんどんこじれた経歴ができあがってしまったのです」
結婚・出産、事業も順調だが……
2008年、みどりさんは組織作りのコンサルティングをしている男性と出会い結婚。
それまで全力で走ってきた反動で、まったく仕事をしない専業主婦になる。埼玉県浦和市のタワーマンションに住み、ひらすら韓流ドラマを見る毎日。それでも、働かない期間は3か月で終了した。
「ダラダラする日々に飽きて、毎日がつまらなくなって仕事を再開しようと思いました。けれど、就職なんてできませんから、フリーでビジネスをすることにしたんです」
最初に始めたのは、料理教室だった。
「福岡の母親がスパイスを使った料理教室を開いていて、わたしもその料理を教えることができた。だから、やってみようと思いつきました。ところが、準備が大変なわりに収入が少ない。その後、アクセサリーの製作や読者モデルをやった時期もありました」
ファストファッションのブランディングの仕事を手がけたこともあった。アパレルだったら得意分野だ。企画書を作って提案し、予算を与えられて、そのブランドをコンセプトからリニューアル。目標の売り上げを達成した。
「最初は充実していたし面白かったのですが、ファストファッションの世界は、服を信じられないような安価で買いつけて売りさばき、売れ残った服は大量に棄(す)てるサイクルでした。いったいこの商売は誰を幸せにしているんだろう、と疑問が湧いて“ここは私の人生の時間を使う場所じゃない”と思うようになりました」
大きな転機となったのは、29歳で娘を出産したとき。出産後すぐ、浦和から東京・千駄ヶ谷に引っ越した。
「このままここで子育てをしていたら、自分のキャリアが全部止まると思った。東京に行けば、きっと何かが始められるだろうと考えたんです」
そうして娘の体調不良をきっかけに「安心」と「美味しい」が両立するお菓子を販売するビジネスと出会い、ようやく「人を幸せにできる本業」を見つけたのだった。
ブラウンシュガーファーストの事業は順調に拡大。娘もどんどん成長していく。ところが、みどりさんにはモヤモヤした思いが立ち込めていく。ココナッツオイルブームが巻き起こり、テレビ出演するたび電話の嵐。子育てには夫も協力してくれたのだが─。
「夫の仕事も伸び始めた時期でした。自分も夫も事業をやっていると、パートナーというよりライバルみたいになってくる。次第に、夫は私を褒めてくれなくなりました。私は妻の役割を果たせなくなり、夫婦の会話もどんどんなくなった。この商売と子育てだけで手いっぱいになったんですね。母親としては強くなっていくけど、妻の部分が消えていきました」
みどりさんは、自分の抱える悩みは、いろんな要素が絡み合っていることに気づいた。
「子どもとの時間の作り方、夫婦の関係、親との付き合い方、そして自分の仕事……。それをごちゃまぜにして悩んでいた。全部否定的に考えていたんだけど、冷静に考えれば、肯定できるところは山ほどある。けれど妻の役割だけが問題。これは解決する必要があると整理して考えました」
結果、彼女が選んだ道は「離婚」だった。 周りをちゃんと納得させながら円満に離婚して次に進むためにはどうすればいいか。考え抜いて、夫にこう言った。
「あなたは人間として尊敬できるし、社会人としても、父親としても素晴らしい。けれども、夫婦としてはいい関係になっていない。あなたのパートナーは私じゃないと思う」
両親や義理の両親にも、なぜ離婚したいのか、丁寧にプレゼンしたという。
「みんなにとっていちばん大事なのは、娘(孫)の幸せですよね。そしたら、この役割(妻)をはずして、それぞれを尊重し合うことができたら、みんなニコニコだし、助け合えて、その結果、娘も幸せになる。そう説明をするために整理していったわけなんです」
娘から離婚の報告を受けた美保子さんはこう言った。
「私たちの世代ではありえないことだけど、私は夫婦の状況を知ってたから、“世界中が敵になっても、お母さんとお父さんは、みどりの味方だからね”と言ってあげました」
おばあちゃんになった自分
現在、みどりさんの会社のスタッフはアルバイトを入れて約15名、少数精鋭である。
「営業はじめ、いろんな人を業務委託に切り替えたんです。有能な人にこそさまざまな会社の仕事を受けて働いてもらう、ということをすすめています。私から同業他社を紹介したりして。優秀な人材こそみんなでシェアしようよと」
4年前からアルバイトとして働く、自身も中学3年生のママ、小山千草さんが言う。
「子どもが病気で急な遅刻や欠席になっても“大丈夫?”と声をかけてくれる優しい社長です。みんなの誕生日をお祝いしてくれたり、スタッフをとても大切にしてくれる。持ち前のセンスのよさで商品を生み出す姿は、身近で働く私にとっても憧れなんですよ」
ブラウンシュガーファーストでは、ココナッツオイルを台湾のスーパーで展開したり、日本酒を中国に輸出したりと海外にも活躍の場を広げている。一方で、フードロスにも目を向け、『#食べ物を棄てない日本計画』プロジェクトにも取り組む。
短大時代の同級生で長年の友人、南祥子さんが明かす。
「彼女は、20歳のころからヨガやヘルシーな食べ物など健康にまつわることに詳しかった。ただ、常にいろんなことをアップデートしているので、前に話したことをほとんど忘れてる。“そうやったっけ? よかよか”という感じ(笑)」
若いころ、みどりさんの反発にうろたえていた母親の美保子さんは、娘に勉強させてもらったとしみじみこぼす。
「私たちの考えは固かったんですよね。“……せねばならない”というのが強かった。以前は心配ばかりだったけど、社会の枠を飛び越えてゆくみどりを通して、いろんな考え方があるんだ、と教えてもらいました」
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“将来の自分がどうなっていたいか”みどりさんは、そのイメージを持つことを大切にしている。専業主婦のころ、突然あるイメージが浮かんだのだという。それは自分が70歳になったときの姿だった。
黒のタイトなノースリーブのワンピースを着て、白い髪の毛はオールバック。周りには8人くらいの人がいて、みんな子会社の社長で、それぞれから事業の進捗(しんちょく)などの報告を受けている─。
「根拠はないけど、きっと私はこうなるんだなと直感で思いました。創業後、いろいろなことを乗り越えられたのは、あの日のおばあちゃんのイメージに導かれたからだと思っています。今は孫の世代、曽孫(ひまご)の世代を想像しながら、世の中のいろんな選択肢を見極めるようにしています」
成功を収めた現在も、彼女にとっては「通過点」にすぎない。かつてのこじらせママの見つめる先は、もっともっと未来なのである。
(取材・文/小泉カツミ)
こいずみかつみ◎ノンフィクションライター。医療、芸能、心理学、林業、スマートコミュニティーなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母〜代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』(文藝春秋)がある。