働き方改革が問題になるのは建築士も同じ事(kou/PIXTA)

「今の事務所で働き始めて2年ほどになるが、月の残業時間は200時間以上」――。関東に住む20代男性はそうこぼす。彼が所属する「事務所」とは、設計事務所のことだ。

建物の設計図を描く設計事務所だが、図面は描いたら終わり、とはいかない。大まかな形やデザインを考える基本設計、契約に必要なレベルまで詳細詰める実施設計のほか、工事業者や役所との打ち合わせ、場合によっては自ら現場に出向くなど、建築士の仕事は幅広い。

「時間をかけるほど良いものになるので、どうしても残業時間が長くなる」(男性)。

足りない? 足りてる? 建築士の今

働き方改革が叫ばれる昨今、建築士業界への風当たりも強いと思いきや、業界は別の角度からの逆風にさらされている。

6月5日、建築士や建築事務所で構成する3つの業界団体は「建築士資格制度の改善に関する共同提案」を公表した。文書の一文にはこんな記載がある。「将来を担う世代の建築士の確保が懸念される」。

念頭にあるのは、減り続ける一級建築士試験の受験者数だ。建物の設計や工事監理を行ういには建築士の免許が必要で、扱える建物の種類や規模によって一級・二級・木造に分かれる。中でも一級建築士はすべての建物を扱うことができるため、建築士としてのキャリアのゴールには一級建築士を置くのが通常だ。

ところが、その一級建築士を目指す人数が減り続けている。一次試験(学科)の受験者数は、直近20年間では1999年の5万7431人をピークに、昨年には2万6923人と半分以下にまで減少した。その上、「一級建築士のうち約6割が50代以上。後継者不足が懸念される」(日本建築士事務所協会連合会の居谷献弥専務理事)と焦りを隠さない。


受験者数減少の原因として挙げられたのは、仕事が忙しすぎて受験勉強の時間が十分に取れないことだ。資格取得ルートは複数あるが、一般的な建築系学科の学生が一級建築士の資格を取得するには、卒業後2年間の実務経験が必要。だがいったん仕事を始めてしまうと試験勉強との両立ができず、資格取得のハードルとなっているというわけだ。

冒頭の男性も二級建築士の資格を持っているが、「好きでこの仕事をやっているので、辞めたいとは思わない。ただ土曜出勤はもちろん日曜も自宅で仕事をすることもあり、試験勉強は通勤時間くらいしかできない」と嘆く。

一級建築士の試験は司法試験や公認会計士試験ほどではないものの、決して生易しいものではない。学科試験の合格率は約2割。加えて2005年に明るみになった耐震偽装事件を受け、建築基準法だけでなく試験制度を規定する建築士法も大きく改正された。信頼回復のために新しい試験制度では法規や構造についての設問が増えたほか、新たに「環境・設備」の設問が追加された。

学科試験を突破しても今度は製図試験が待ち受け、最終的な合格率は1割強に留まっている。製図試験に3回不合格になると、また学科試験を受けなおす羽目になる。

建築士資格の予備校である日建学院の講師で、一級建築士資格試験の参考書の編集も手掛ける二宮淳浩氏は「重箱の隅を突くような問題も多く、独学では相当厳しい。ほとんどの受験生が予備校に通っているが、仕事が忙しくて欠席が続く学生も少なくない」と指摘する。建築士法の改正で試験全体が難化したという声も上がるなど、耐震偽装事件の「古傷」は未だ癒えない。

そこで今回の共同提案では、2年間の実務経験は試験合格の後に積んでもいいことを盛り込んだ。また製図試験を手書きでなくCAD(コンピューター利用設計システム)で行うことや、2回不合格になると振り出しに戻る制度の廃止なども提言した。


「試験のための試験になっているうえ、建築士法の改正(による試験制度の改正)を受けて門戸が狭くなった。試験をもっとチャレンジしやすい形にしたい」と、日本建築家協会の筒井信也専務理事は意気込む。

試験制度だけが問題なのか

こうした提案について、現場の建築士には「基本的には賛成だが、課題は試験制度に留まらない」という雰囲気が漂う。

資格試験の受験者数を増やしても、建築士が増える保証はない。建築士資格を取っても設計事務所に勤めるとは限らず、工事を手掛けるゼネコンはもちろん、工事を依頼する側の不動産会社や果ては自治体の職員に至るまで、建築の知識を得るために資格を取得する人は多い。

従業員が数十人、数百人といった大所帯の組織設計事務所やゼネコンの設計部門は「一級建築士に不足感はない」(設計事務所で最大手の日建設計)とする一方で、苦境にあるのは従業員が数人の個人事務所。「募集をかけてもまったく人が集まらない」(首都圏の設計事務所代表)のが実態だ。

厚生労働省の「平成29年賃金構造基本統計調査」によれば、従業員10〜99人の事業所で働く一級建築士の平均年齢は54.3歳で月収は約41.1万円で、ボーナスなども加えれば年収は532万円。大手事務所やゼネコン、不動産会社所属の一級建築士が主な対象である従業員数1000人以上の事業所と比較すると100万円以上も低く、人材の奪い合いになれば、大手に太刀打ちすることは難しい。

さらに実情は、統計の対象にすらなっていない10人未満の個人事務所が大半を占める。約1万5000もの設計事務所が加盟する日本建築士事務所協会連合会でも「半数以上が従業員数1〜3人の事務所」(居谷専務理事)という。

冒頭の男性は「初めに面接に行った個人事務所で提示された月給は10万円。これではさすがに働けないと今の事務所に所属しているが、それでも月給は額面でも20万円を切るうえに、ボーナスもない」。加えて厳しい労働環境がのしかかる。

建築士の労働環境には構造的な理由もある。一般的な戸建て住宅の場合、国土交通省告示による報酬基準はあるものの、およそ建築費の1割が設計料の相場感として存在する。ところが実際には「1割ももらえることはほとんどない。せいぜい6%くらい」(ある一級建築士)。

4000万円の家に対して設計料が400万円だとしても、基本設計から工程監理まで結局、1年以上物件に張り付かざるをえないこともあり、当然事務所は火の車だ。

建設会社の中にはその後の受注を見込んで「設計無料」を掲げる会社もあり、顧客も見積もり無料の感覚で設計の依頼をかける例も多いという。むろん設計だけで食べている設計事務所にとっては受け入れられない話だ。

公共施設の場合は報酬が安定している代わりに設計コンペがあり、採用されなければ設計にかかった時間と労力は水の泡。著名な建築家になれば「先生にぜひ建ててほしい」と高い設計料でも仕事が舞い込むが、それはほんの一握りだ。

神奈川県で個人設計事務所「TERRAデザイン」を主宰する寺本勉氏は、「設計には形がなく、顧客に価値を認められにくい。形なきものにも対価を支払う文化が必要だ」と指摘する。

「東日本大震災での高台移転の際、本来なら地元の事情を理解し、普段から建物と向き合っている地元の建築士がもっと活躍するべきだった。だが住宅ならずっと住宅を手掛けていると、いつしか業務と直接関係のない知識が薄れていってしまう。結果的に都市計画を専門とする学者や開発業者に主導されてしまった」(寺本氏)

単に依頼された建物を設計するだけでなく、まちづくりなど公益への貢献を通じて、建築士の存在意義を社会に認知していくことが、建築士の価値が認められる第一歩となりそうだ。

脱「足の裏の米粒」資格

「一級建築士は足の裏の米粒。取らないと気持ち悪いが、取っても食えない」(建設業関係者)。弁護士や公認会計士のような同じ「士業」とは異なり、資格を取っても仕事の範囲が急に広がるわけではない。

好きな仕事という一心で寝食を忘れて没頭しさえすればいい、というのは今や昔。今回の共同提案を基に建築士法を改正する議員立法が検討されているが、建築士業界の揺れを止めるためには、試験制度だけでなく自らの働き方から存在意義に至るまで根本的に見つめ直さなければ、業界を襲う揺れが収まることはない。