「べっぴんさん」総括「ひよっこ」への期待を込めてみた

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連続テレビ小説「べっぴんさん」(NHK 総合 月〜土 朝8時〜、BSプレミアム 月〜土 あさ7時30分〜)第26週「エバーグリーン」第151回 4月1日(土)放送より。 
脚本:渡辺千穂 演出:安達もじり


151話はこんな話


キアリス35周年記念パーティーの2次会が、いつの間にか拡張したのかと思うような広いレリビィで行なわれて、たくさんの関係者が集い、皆幸福に満たされていた。

紀夫(永山絢斗)いわく「実力やなくて魅力で」社長まで上り詰め、ついに退任する武ちゃん(中島広稀)にはカラオケセットが贈られ、栄輔(松下優也)には、戦後、彼がすみれ(芳根京子)たちに差し入れた小豆で炊いた赤飯のおにぎりをさくらが贈った。龍一(森永悠希)は20歳下の従業員と結婚を発表。中西(森優作)も社内結婚の末、子供をさずかっていた。
ただひとりだけ、潔とゆりの子供・正太が成人後、姿も話題もでてこないことだけが釈然としないまま、ほぼみんなハッピー。一時期、ゆりがひとり家で暗い顔をしていたので、息子と縁切ったか死別したか、何か複雑な事情があるのではないかと邪推してしまう。

すみれたちは、藍(渡邉このみ)に頼まれ、ご学友の21人全員分の写真入れを手作りすることに。藍は老人たちに生きがいをつくったつもりなのかもしれないが、想いを伝えるものづくりが坂東家の信条なのだから、そこは自分でつくるべきではないかとこれまた釈然としないまま、すみれたちはついでに4人おそろいの写真入れを贈り合う。

すみれ、花を咲かせる人生を


フィナーレは鮮やかな緑の丘でピクニックしている坂東ファミリーwithサイドカーに乗った潔(高良健吾)とゆり(蓮佛美沙子)たちの多幸感に満ちたひととき。藍がみつけた四葉のクローバーをみつめるすみれのアップに、はな(菅野美穂)のナレーション「すみれ、花を咲かせる人生を」がかぶる。

148話の「子供の成長を見届けることができず亡くなってしまったお母さんの言葉」という台詞を聞いたときうすうす想像していたが、「べっぴんさん」は、坂東はなの亡くなってもずっと残る母の執念のドラマだったのだろう。言ってみれば、目玉だけになっても生きている鬼太郎の目玉の親父のようなもので(『ゲゲゲの女房』にそんな話がでてきましたね)、残した子供が心配で成仏できない母の強い想いである。すみれとゆりのことをずっと心配して空から見ていたのだ。


繰り返される物語


すみれの子供時代を演じた渡邉このみが孫の藍を演じ、考えていることややっていることがすみれや母のさくらにそっくりというところなど血のつながりを感じさせてきたが、最終回にもなんらかのつながりによって繰り返される出来事が描かれた。
「あなたまだ若いのにこんなおじさんでいいの」
「ついについに龍が」とよろめく良子(百田夏菜子)。少女のときに、自分が15歳もうえの夫と結婚したことがまた繰り返されるのであった。余談だが、良子の写真入れの柄はエプロンよりあの美しい腕時計が良かったな。
「たくましいな」
繰り返されるのは、玉井(土平ドンペイ)の悪行。またお直しの偽ブランド・キリスアをつくっていて、明美(谷村美月)が↑この台詞を。
「保存食やけどお腹壊しちゃうやろか」
繰り返しとはまたちょっと違うが、40年近く昔の思いやりが再生する。
栄輔がもってきてくれた小豆を「特別なときにいただきましょ」と言った喜代(宮田圭子)の言葉を受けて、お手玉に入れたすみれ。それがまだ大事にとってあり、栄輔と明美の結婚の御祝にさくら(井頭愛海)がお赤飯を炊く。↑こんなふうに気にしているが、急ぎネットで小豆の消費期限に関する記事をざっとチェックしてみたら、1年は大丈夫、それ以上でも保存状態によっては大丈夫というのが大方の見解のようだ。それにしても40年だからなあ・・・せっかく胃腸のポリープが良性だったのに、これでまた胃腸壊したらしゃれにならない。幸せの伏線回収をやるだけでなく、視聴者のツッコミどころを用意してくれたのかもしれないが、だとしたら、テロップで小豆の消費期限の豆知識を入れてくれたらもっと肯定的に受け入れられたと思う。「良い子は真似しないでね」とかでも。

前半とのつながりはこんなところにもある。
「べっぴんさん」のはじまった頃、視聴率はやや低く、今度の朝ドラは大丈夫かと心配されたが、主人公たちがキアリスをつくってお仕事に精を出した頃から視聴率が徐々に上がっていった。後半戦、娘のさくらが思春期を迎えて以降、ドタバタ展開が別の意味で盛り上がったが、徐々に視聴率が下がり、はじまった頃の停滞感に戻っていく。つまり、視聴率や話題性に関して、最初と最後がみごとに輪っかのようにつながっていたのだ。
でもここはつなげなくても良かったのに。


「カーネーション」を意識して失敗したか


151回レビューを書きながら、あえて書かないようにしてきたのが「カーネーション」(11年)との比較でだった。
大阪制作であること(演出も安達もじりがかぶっている)、大正から昭和にかけての、広い意味でのアパレル業界に従事する主人公の話であること(エイスのモデルVANと「カーネーション」の主人公の娘のモデルコシノヒロコは同時代に青山で人気を博していたというリンクもある)などから、どうしても比較してしまうものの、極力やめようと思っていた。
だが、「べっぴんさん」を最後まで観て、“ものづくり”に従事するものとしては、「カーネーション」という名作は意識しないわけはなかったのだろうなと感じた。
まず、画づくり。「カーネーション」では、プログレッシブカメラを使った深みある画面が印象的で、「べっぴんさん」は4K対応カメラをつかって濃淡のある画面をつくっていた。それによって、神戸の異国情緒を感じさせ、ドラマをファンタジックな味わいに導いたことは成功だったと思う。
次に脚本。「カーネーション」は、映画出身の脚本家・渡辺あやによる、台詞にだけ頼らず画で見せる、いわゆる行間を読ませるストーリーで、それが映画やドラマに一家言ある者に好評だった。一方「べっぴんさん」の脚本はテレビドラマがデビューの渡辺千穂であるが、会話で話を進めるのではなく、画で見せるところや、語られない部分を想像させるように意識されていた。彼女がデビューした00年代のテレビドラマは、堤幸彦を筆頭とする演出家の時代になり、画や演出に頼るところが増えていたので、そういう作り方に慣れているように思う。
全体の構成については、「カーネーション」は、主人公の糸子が最終回直前で亡くなった後、子供達の活躍を空から観ている展開に。それと、初回、子供の糸子と成人した糸子とが仲良く並んでミシンを愛でている幻想的なシーンではじまったシーンが、最終回にも登場し、最初と最後が輪っかのようにつながり、それが、命の輪廻のようでもあり、ミシンの部品・ボビンの車輪でもあって、すべてが美しくつながっていた。こういった緻密な構成が、識者やドラマや映画に一家言ある人たちに受けた要因であった。

その一方で、主人公の糸子が男勝り過ぎると感じた視聴者もいたようなのと(とはいえ、モデルのコシノ母はもっと豪快な人だったという説もあり)、その糸子を演じた尾野真千子が途中(役が年老いてから)夏木マリに変更になったことへの疑問が湧くなど物議を醸した点もあった。
コアな層には圧倒的に評価が高かったものの大ヒットとはいかず、全話平均視聴率は19.1%だった。
想像するに、「べっぴんさん」は過去の朝ドラを研究し、重なる部分も多い「カーネーション」の好評だった部分を生かしながら、女性のたおやかさを大切にしたうえ、主人公が老いたところまでひとりの俳優に演じさせることに挑もうとしたのではないだろうか。

だが、主人公を“芯のある子”として設定したにもかかわらず、ドラマ自体は、不特定多数の視聴者のニーズへの配慮や、表現への模索など、あれもこれもと試行錯誤した結果、手法ばかりが目立って肝心の芯を覆い隠してしまった。芯があったのかも後半戦を観ているともはやよくわからない。
こうなったわけを、単に作り手の能力によるものと片付けることもできない気がする。例えば、視聴率という数字と並び、SNSによって多くの意見が瞬時に可視化され過ぎることにも関係があるのではないだろうか。
3月22日にNHKで放送された『放送記念日特集「今 テレビはどう見られているか」』で、台本に活かすことはないが、SNS の意見は見ている、テレビを観てTwitterに書き込む人たちを同志のように感じているなどと、大河ドラマ『真田丸』のプロデューサーが語っていた。台本に生かさないにしても、無数の思考の洪水は人に何らかの影響は与えるだろう。こんな時代にこそ、作家の芯が必要だ。

「ちゅらさん」「おひさま」とすでに2作朝ドラを手がけているベテラン岡田惠和が挑む3度目の朝ドラ、「昭和の光と影を描く」と言う「ひよっこ」(4月3日から放送開始)には芯を見せてほしい。
(木俣冬)