がっかりスポット? 仙台城(青葉城)ってなんで何もないの?
[OH!バンデス‐宮城テレビ]2017年3月16日放送の「なんでやねん!?宮城解体新書」のコーナーで「な〜んにもない仙台城」について取り上げていました。
「仙台城(青葉城)」は、伊達家十七代目当主・仙台藩初代藩主「伊達政宗公」が築いたお城です。現在の「仙台城」は「仙台城址」として仙台市の人気観光スポットとなっています。
青葉城(Sendai Blogさん撮影、Flickrより)
しかし、宮城県民も他県や海外から来た人もついつい思ってしまう事があります。それは「お城無いんだ......」という事です。正直、せっかく青葉城に登ってもお城がないという事には少しがっかりしてしまうのが本心です。
「仙台城」はこんなお城だった
では「仙台城」はどのようなお城だったのでしょうか。気になりますよね。その疑問を「青葉城本丸会館」の田中於莵彦館長が説明してくれました。
まず「仙台城」の外観ですが、お城にはよくある天守閣はありませんでした。天守閣とは、城郭の中で本丸の要所に建つ最も高い櫓で、接見・物見・貯蔵の機能を合わせ持つ場所です。
天守閣を建築する予定地はあったのですが、本丸建築中の1614年に豊臣家が滅亡し、徳川家の天下泰平の世になります。その為、作る必要が無くなったというのが理由の一つとのことです。
そしてもう一つの理由は、天守閣の建築には莫大な費用が必要だったという事です。政宗公は、天守閣よりも「仙台の街づくり」を優先にお金をかけようという考えだったとのことです。
天守閣はありませんでしたが「仙台城・本丸」は約2万坪の敷地を誇り、本丸としては大阪城よりも大きい全国規模の山城でした。お城の中は安土桃山式の贅をつくし建てた大広間があり、襖を外すと600人も入る金の広間がありました。
また「懸造(かけづくり)」と呼ばれる崖に作られた伊達家の企画戦略室の様な場所もありました。
この「大広間」と「懸造」は、政宗公の死去後も大事にされ幾度もの火災や地震で破損しても必ず修復し幕末まで存在していました。創建以来一度も他藩からの攻撃を受ける事なく平穏無事に存続していましたが、戊辰戦争中に新政府に対抗する為結成された「奥州越列藩同盟」に仙台藩も参加し「賊軍」とされたのです。
その為「仙台城」は新明治政府によって取り壊されてしまいました。昭和期まで残っていた「大手門」と「隅櫓」も太平洋戦争の仙台空襲にて焼失してしまい。現在残るのは「石垣」のみとなっています。
館長の田中さんは、せっかくお客さんが来るのにこのままではちょっと......。と思っているとのことで、「懸造」を復元させたいと動いているとのことです。
青葉城資料展示館では「仙台城」のお城の中をCG映像で見る事も出来ます。とても立派なお城だったのでしょうね。実際のお城を自分の目で見てみたいものです。(ライター:佐藤憲子)