紙上絶叫マシンと呼びたい興奮、これはドイツの山田風太郎『スウェーデンの騎士』
歴史上のできごとを絡めて、作者がそこに真っ赤な大風呂敷を広げる。
読者は、「これ、収拾がつかなくなるんじゃないのか? この風呂敷、いったいどうやって畳む気だ?」と心配しながら、登場人物同様に作者に振り回される。
そういう紙上絶叫マシンが、歴史ロマンとか伝奇小説と呼ばれるものである。
なかには国枝史郎の『神州纐纈城』『蔦葛木曾棧〔つたかずらきそのかけはし〕』や谷崎潤一郎の『乱菊物語』のように、畳みきれなくなって放り出してしまったものもあって、それもまたヨシ。
でももちろん、ピシッと収束させて終われば、それはたいへん美しいことだ。
レオ・ペルッツ(1882-1957)の長篇伝奇小説『スウェーデンの騎士』(1936)の訳が出た(垂野創一郎、国書刊行会)。こちらは、ピシッと決めるタイプ。
作者はプラハ生まれのユダヤ系で、人気作家ではあったがナチス時代にはオーストリアを出てパレスティナに行くなど、当人も歴史に翻弄された人のようだ。
今回翻訳された『スウェーデンの騎士』は、1700年に勃発した「大北方戦争」を題材としている。
この戦争では、「大帝」ピョートル1世治下のロシアを中心とする北方同盟とスウェーデンとが衝突した。中欧諸国やコサック勢力、オスマントルコ、英国を巻きこんで長期化し、北欧史上の一大イヴェントとされている。
物語本篇第1章は1701年、雪のシレジアにはじまる。シレジアは現在のポーランド南西部(チェコとドイツの国境附近を含む)で、当時はハプスブルク君主国の支配下にあった。
この物語では、絞首刑になるところを逃れてきた泥坊(訳者は泥棒ではなく泥坊という表記を選ぶ)と、軍を脱走した若い貴族クリスティアン・フォン・トルネフェルトが、偶然から運命に翻弄され、泥坊は思わぬ形でトルネフェルトの責務を引き受けることになる。
トルネフェルトの父は他国に仕えるべく祖国スウェーデンを捨てたが、若きクリスティアンは祖国への思いやまず、スウェーデン王カール12世が北方同盟にたいして戦端を開き大陸各地で祖国軍が勝ち戦を続けていると聞くや、いても立ってもいられず、いまいる軍から脱走してまで、一刻も早くスウェーデン王のもとにはせ参じようと気ばかり焦っている。
……と書くと血気にはやる若武者を想像しますよね?
たしかに血気にははやってる。はやってるんだけど、志は高いがどうにもヘタレなのだ、このトルネフェルトという若造は。
空腹に弱い。お金は持ってない。じつは臆病。愚痴が多い。すぐに人に頼ろうとする。
相方の泥坊はというと、何度も死地を脱してきたアウトローで。いま自分が生きていること自体もなにかの偶然だと割り切っている。覚悟がぜんぜん違う。
だから、冒頭でトルネフェルトと泥坊とが雪のなかを進む場面を読んで、C-3POとR2-D2みたいだなと思ったものだ。
トルネフェルトはなぜそこまでスウェーデン王に会おうと強く望んでいるのか。それには訳がある。王に、ある貴重な「ブツ」を渡さなければならないのだ。ヘタレのくせに……。
第2章では、トルネフェルトに代わってその「ブツ」の運び屋となったR2-D2、じゃなくて泥坊が、いわば主人公格となってストーリーを牽引していく。
以下、魔術あり恋あり、歴史に揺すぶられるストーリーには盗賊団だの軍人だの少女だの、多様なキャラクターがからんでくる。
このあたりのわくわく感をどう伝えたらいいのかわからないけど、思いっきり雑に言うと山田風太郎や半村良を読んでるときの至福感にちょっと共通するものがあるよ
脇役のネーミングも〈首曲がり〉だの、〈赤毛のリーザ〉だの、〈悪禍男爵〉だのとワケあり感がいちいち濃い。
そしてペルッツは国枝史郎みたいな風呂敷広げっぱなしなことはせず、結末をピシッと決めてくれる。ポウの探偵小説みたいに、結末を決めてから設計図を引いて書くタイプなのかもしれない(『最後の審判の巨匠』という幻想味ある探偵小説も書いている)。
本作のエンディングも止め絵というか、歌舞伎の幕切れの拍子木がチョンと鳴りそうな名人芸。このエンディングが第1章の前にある「序言」につながるので、
「ああ、冒頭のアレはこういう事情ってワケか!」
と唸ってしまう。
ペルッツという人は、大学時代にコルテス時代のアステカ王国に材をとった『第三の魔弾』を読んで知った。以来ずっと惹かれていたけれど、他の作品が単行本として翻訳されない時期が15年くらいくらい続いた。
21世紀になって『レオナルドのユダ』『最後の審判の巨匠』『ウィーン五月の夜』『夜毎に石の橋の下で』『ボリバル侯爵』『スウェーデンの騎士』と訳書の刊行が続いている。それぞれ凝った小説(『ウィーン五月の夜』には随筆や批評も収録)で、盛大な打ち上げ花火を見ているような気分だ。
そして『第三の魔弾』は来月、なんと白水Uブックスになるというではないか。予約をお勧めします。
(千野帽子)
読者は、「これ、収拾がつかなくなるんじゃないのか? この風呂敷、いったいどうやって畳む気だ?」と心配しながら、登場人物同様に作者に振り回される。
そういう紙上絶叫マシンが、歴史ロマンとか伝奇小説と呼ばれるものである。
なかには国枝史郎の『神州纐纈城』『蔦葛木曾棧〔つたかずらきそのかけはし〕』や谷崎潤一郎の『乱菊物語』のように、畳みきれなくなって放り出してしまったものもあって、それもまたヨシ。
でももちろん、ピシッと収束させて終われば、それはたいへん美しいことだ。
作者はプラハ生まれのユダヤ系で、人気作家ではあったがナチス時代にはオーストリアを出てパレスティナに行くなど、当人も歴史に翻弄された人のようだ。
C-3POとR2-D2みたいだ
今回翻訳された『スウェーデンの騎士』は、1700年に勃発した「大北方戦争」を題材としている。
この戦争では、「大帝」ピョートル1世治下のロシアを中心とする北方同盟とスウェーデンとが衝突した。中欧諸国やコサック勢力、オスマントルコ、英国を巻きこんで長期化し、北欧史上の一大イヴェントとされている。
物語本篇第1章は1701年、雪のシレジアにはじまる。シレジアは現在のポーランド南西部(チェコとドイツの国境附近を含む)で、当時はハプスブルク君主国の支配下にあった。
この物語では、絞首刑になるところを逃れてきた泥坊(訳者は泥棒ではなく泥坊という表記を選ぶ)と、軍を脱走した若い貴族クリスティアン・フォン・トルネフェルトが、偶然から運命に翻弄され、泥坊は思わぬ形でトルネフェルトの責務を引き受けることになる。
トルネフェルトの父は他国に仕えるべく祖国スウェーデンを捨てたが、若きクリスティアンは祖国への思いやまず、スウェーデン王カール12世が北方同盟にたいして戦端を開き大陸各地で祖国軍が勝ち戦を続けていると聞くや、いても立ってもいられず、いまいる軍から脱走してまで、一刻も早くスウェーデン王のもとにはせ参じようと気ばかり焦っている。
……と書くと血気にはやる若武者を想像しますよね?
たしかに血気にははやってる。はやってるんだけど、志は高いがどうにもヘタレなのだ、このトルネフェルトという若造は。
空腹に弱い。お金は持ってない。じつは臆病。愚痴が多い。すぐに人に頼ろうとする。
相方の泥坊はというと、何度も死地を脱してきたアウトローで。いま自分が生きていること自体もなにかの偶然だと割り切っている。覚悟がぜんぜん違う。
だから、冒頭でトルネフェルトと泥坊とが雪のなかを進む場面を読んで、C-3POとR2-D2みたいだなと思ったものだ。
トルネフェルトはなぜそこまでスウェーデン王に会おうと強く望んでいるのか。それには訳がある。王に、ある貴重な「ブツ」を渡さなければならないのだ。ヘタレのくせに……。
山田風太郎や半村良を読んでるときの至福感に
第2章では、トルネフェルトに代わってその「ブツ」の運び屋となったR2-D2、じゃなくて泥坊が、いわば主人公格となってストーリーを牽引していく。
以下、魔術あり恋あり、歴史に揺すぶられるストーリーには盗賊団だの軍人だの少女だの、多様なキャラクターがからんでくる。
このあたりのわくわく感をどう伝えたらいいのかわからないけど、思いっきり雑に言うと山田風太郎や半村良を読んでるときの至福感にちょっと共通するものがあるよ
脇役のネーミングも〈首曲がり〉だの、〈赤毛のリーザ〉だの、〈悪禍男爵〉だのとワケあり感がいちいち濃い。
そしてペルッツは国枝史郎みたいな風呂敷広げっぱなしなことはせず、結末をピシッと決めてくれる。ポウの探偵小説みたいに、結末を決めてから設計図を引いて書くタイプなのかもしれない(『最後の審判の巨匠』という幻想味ある探偵小説も書いている)。
本作のエンディングも止め絵というか、歌舞伎の幕切れの拍子木がチョンと鳴りそうな名人芸。このエンディングが第1章の前にある「序言」につながるので、
「ああ、冒頭のアレはこういう事情ってワケか!」
と唸ってしまう。
ペルッツという人は、大学時代にコルテス時代のアステカ王国に材をとった『第三の魔弾』を読んで知った。以来ずっと惹かれていたけれど、他の作品が単行本として翻訳されない時期が15年くらいくらい続いた。
21世紀になって『レオナルドのユダ』『最後の審判の巨匠』『ウィーン五月の夜』『夜毎に石の橋の下で』『ボリバル侯爵』『スウェーデンの騎士』と訳書の刊行が続いている。それぞれ凝った小説(『ウィーン五月の夜』には随筆や批評も収録)で、盛大な打ち上げ花火を見ているような気分だ。
そして『第三の魔弾』は来月、なんと白水Uブックスになるというではないか。予約をお勧めします。
(千野帽子)