日本国憲法改正を多数決で決めていいのか『多数決を疑う』
多数決って、少数派が多数派に屈服させられる仕組みのような気がしていた。
『多数決を疑う』(坂井豊貴/岩波新書)というタイトルで、そういうことが書いてあると思って読み始めたが、違った。
そんな単純な話ではなかった。
『多数決を疑う』は全5章。
「第1章 多数決からの脱却」は、多数決の仕組みそのものの問題点に迫る。
そもそも多数決で多数派の意見は常に尊重されているのか?
たとえばAとBが立候補する。Aのほうが有利だ。が、第三の候補としてAに意見が近いCが立ち上がる。
そうするとAに集まっていた票が、AとCに分散する。そのためBが勝ってしまう。
「票割れ」問題だ。
“有権者の無力感は、多数決という「自分たちの意思を細かく表明できない・適切に反映してくれない」集約ルールに少なからず起因するのではないだろうか。であればそれは集約ルールの変更により改善できるはずだ。”
代替案の「ボルダルール」や、ボルダルールを実施している中欧スロヴェニア等の実例、日本の投票の仕組みの問題点など、多数決のシステムが豊富な実例を持って語られる。
「第2章 代替案を絞り込む」は、では「よりよい集約ルールはどのようなものか?」を探る。
コンドルセさんの集約ルールとボルダさんの集約ルールの対決。
集約ルールによって結果が変わってくる状況。
棄権のパラドックス。
具体例としての本屋大賞ルール。
パズルの謎を解くようなスリルがある章。
「第3章 正しい判断は可能か」は、民主制とはいったい何か、それは多数決で支えられるのか? を考究していく。
理想的なスタイルの多数決であれば、少数派はないがしろにされない。ということが語られ、その理想的な多数決が描かれる。
「第4章 可能性の境界へ」で、日本の改憲条項が具体例として提示される。
“日本国憲法の第九六条は、憲法の条文を変えるときには、衆議院で三分の二以上の賛成、参議院で三分の二の賛成、そののちに国民投票で過半数の賛成が必要と定めている”。
票割れ、サイクル問題が発生しないようにするためには64%を超えたときに可決すればよいという「64%多数決ルール」がある。「改憲条項の三分の二は64%に近い値で整合的だ」と考えるのは早計だ、と著者は指摘する。
まず「衆参で三分の二」が見かけ以上に弱い。
三分の二の有権者の支持がなくとも、三分の二の議席を得ることが可能だ。
実際に“二〇一四年の衆議院選挙では、自由民主党は全国の投票者のうち約48%の支持で、約76%の議席を獲得”している。
つまり「衆参で三分の二」は、三分の二以上の民意がなくてもパスしてしまう。
その後の国民投票は過半数の賛成でOKだ。
判断の間違いうんぬんという以前に、多数決の持つ構造的な問題を解消するためには、64%の賛成が必要だ。
“国民投票における改憲可決ラインを、現行の過半数ではなく、64%程度まで高めるのがよい”と、具体的な提案で第4章は締めくくられる。
「第5章 民主的ルートの強化」は、「小平市の都道328号線問題」や「周波数オークション」などの実例が取り上げられる。
“多数決さえまともにさせてもらえない”のだ。
読み進めていくと、「多数決というルールが、我々の世界をいかに大きく支えているのか」ということが実感できる。
しかも、さまざまな問題を抱えながら、だ。
“現行制度が与える固定観念がいかに強くとも、それはまぼろしの鉄鎖に過ぎない。”
『多数決を疑う』、世界が揺らぐようなゾッとする恐怖と同時に希望を(それは本書が常に代替案を検討し、改善していこうとする姿勢を崩さないからだ)与えてくれる本だ。(米光一成)
『多数決を疑う』(坂井豊貴/岩波新書)というタイトルで、そういうことが書いてあると思って読み始めたが、違った。
そんな単純な話ではなかった。
多数決の根本的な問題
『多数決を疑う』は全5章。
「第1章 多数決からの脱却」は、多数決の仕組みそのものの問題点に迫る。
そもそも多数決で多数派の意見は常に尊重されているのか?
たとえばAとBが立候補する。Aのほうが有利だ。が、第三の候補としてAに意見が近いCが立ち上がる。
そうするとAに集まっていた票が、AとCに分散する。そのためBが勝ってしまう。
「票割れ」問題だ。
“有権者の無力感は、多数決という「自分たちの意思を細かく表明できない・適切に反映してくれない」集約ルールに少なからず起因するのではないだろうか。であればそれは集約ルールの変更により改善できるはずだ。”
代替案の「ボルダルール」や、ボルダルールを実施している中欧スロヴェニア等の実例、日本の投票の仕組みの問題点など、多数決のシステムが豊富な実例を持って語られる。
多数決と民主制
「第2章 代替案を絞り込む」は、では「よりよい集約ルールはどのようなものか?」を探る。
コンドルセさんの集約ルールとボルダさんの集約ルールの対決。
集約ルールによって結果が変わってくる状況。
棄権のパラドックス。
具体例としての本屋大賞ルール。
パズルの謎を解くようなスリルがある章。
「第3章 正しい判断は可能か」は、民主制とはいったい何か、それは多数決で支えられるのか? を考究していく。
理想的なスタイルの多数決であれば、少数派はないがしろにされない。ということが語られ、その理想的な多数決が描かれる。
現行の改憲条項は弱い
「第4章 可能性の境界へ」で、日本の改憲条項が具体例として提示される。
“日本国憲法の第九六条は、憲法の条文を変えるときには、衆議院で三分の二以上の賛成、参議院で三分の二の賛成、そののちに国民投票で過半数の賛成が必要と定めている”。
票割れ、サイクル問題が発生しないようにするためには64%を超えたときに可決すればよいという「64%多数決ルール」がある。「改憲条項の三分の二は64%に近い値で整合的だ」と考えるのは早計だ、と著者は指摘する。
まず「衆参で三分の二」が見かけ以上に弱い。
三分の二の有権者の支持がなくとも、三分の二の議席を得ることが可能だ。
実際に“二〇一四年の衆議院選挙では、自由民主党は全国の投票者のうち約48%の支持で、約76%の議席を獲得”している。
つまり「衆参で三分の二」は、三分の二以上の民意がなくてもパスしてしまう。
その後の国民投票は過半数の賛成でOKだ。
判断の間違いうんぬんという以前に、多数決の持つ構造的な問題を解消するためには、64%の賛成が必要だ。
“国民投票における改憲可決ラインを、現行の過半数ではなく、64%程度まで高めるのがよい”と、具体的な提案で第4章は締めくくられる。
多数決さえまともにさせてもらえない
「第5章 民主的ルートの強化」は、「小平市の都道328号線問題」や「周波数オークション」などの実例が取り上げられる。
“多数決さえまともにさせてもらえない”のだ。
読み進めていくと、「多数決というルールが、我々の世界をいかに大きく支えているのか」ということが実感できる。
しかも、さまざまな問題を抱えながら、だ。
“現行制度が与える固定観念がいかに強くとも、それはまぼろしの鉄鎖に過ぎない。”
『多数決を疑う』、世界が揺らぐようなゾッとする恐怖と同時に希望を(それは本書が常に代替案を検討し、改善していこうとする姿勢を崩さないからだ)与えてくれる本だ。(米光一成)