ハーバード大学教授 マイケル・サンデル氏

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欧州を彷彿とさせるレンガ色の校舎と石畳の小道。「ハーバードの街」、マサチューセッツ州ケンブリッジには、自由と権威が共存する独特な雰囲気が漂う。

なかでも、ひときわ強烈なオーラを放っているのが、同大学のサンダーズシアターだ。のべ1万4000人が履修した、マイケル・サンデル教授の名講義「正義」の舞台である。サンデル教授は、難解で抽象的な思考を身近な問題に置き換えることで政治哲学への関心をかき立てる手法で広く知られている。

「能力は、多くが生まれ持った条件で決まる。とすれば、マイケル・ジョーダンの高額報酬は正当といえるのか――」

10年11月のある日。スーツに身を包んだ教授がシアターの壇上に軽やかに登場すると、学生の間から拍手がわき起こった。

「アリストテレスは、政治とは、より高邁な理想を追求し、市民にコモングッズ(共通善)を考える機会を与え、意義ある生活を提供することだと論じている。みんなはどう思うだろう。異論のある人、前に出て。マイクを回そう」

教授の講義が、同大学で史上最多の履修生を集めた理由は、こうした学生との対話型の講義形式にあるのだろう。講義のなかでは、賛否両論の議論が取り上げられ、ひとつの結論を押しつけることはない。たとえば、サンデル教授は、功利主義を鋭く批判することで論壇の中心にいた政治哲学者ジョン・ロールズを、功利主義とは異なる「共通善」の概念を用いて再批判し、脚光を浴びた。だが、授業のなかでは、ロールズの唱えたリベラリズム(自由主義)も、サンデル教授の唱えるコミュニタリアニズム(共同体主義)も、公平に論じられる。

今回の取材では、学問上のライバルだったロールズとの親交について、メディアにはじめて口を開いた。いま注目の「サンデル哲学」の原点とは――。


【マイケル・サンデル】まだ20代のころのことだ。英オックスフォード大学大学院の留学から戻り、准教授としてハーバード大にやってきたとき、同大学で長く教鞭を執っていたロールズに初めて出会った。

私は、オックスフォードで、ロールズを厳しく批判する論文を書き、学会の注目を集めていた。その論文は、のちに、私の1冊目の著書『リベラリズムと正義の限界』(勁草書房)にまとめた。

執筆時は、ロールズとの面識はなかった。そこで、私の赴任を知った友人の学者が、ロールズに私のことを一報した。ハーバードに到着して間もなく、研究室の電話が鳴った。受話器を取ると、「ジョン・ロールズですが」という声が耳に飛び込んできた。電話口の男は、「R−A−W−L−S」と、ラストネームのスペルまで読み上げた。もちろん、この私が、彼だと気づかないはずがない。ロールズは、私をランチに誘ってくれた。以来、私たちは、折に触れて意見交換の場を持ち、お互いの主張に耳を傾け合った。

確か2000年前後だったと思う。学期の終わりごろ、「正義」の最終講義を聴講しないかと、ロールズに声をかけた。議論を挑むためではない。彼は、議論好きなタイプではなかった。非常に物腰が柔らかく、静かで、シャイといってもいいくらいの人物だった。とはいえ、講義の最中、われわれは、正義と政治的リベラリズムについて意見を交わし、ロールズも、満足した様子だった。何人かの学生からの質問に丁寧に応え、テキストへのサインまで申し出てくれた。とても楽しいひと時だった。それからしばらくして彼は他界した。私たち2人は、最後まで、いい関係を保っていた。ロールズは、とても優しい人だった。

私が講義で試みるのは、学生に賛否両論を学ぶ機会を与えることだ。

今日の授業では、アリストテレスの政治と法の役割について議論した。ある学生は、「政治は、経済成長ばかりを問題にするのではなく、目指すべき国家のモデルや人間のあり方など、より高い次元の議論をするべきだ」と主張した。聴講生全員に賛否を問うと、45%の学生は、「ノー」を突きつけた。「いや、それは危険だ。政治や法が、個人の人格や徳にかかわると、少数派に多数派のモラルや価値を押し付け、圧政につながりかねない」と。

私個人としては、現代政治は、国内総生産(GDP)や個人消費ばかりに腐心し、より大切なものを忘れているように思う。だが、コースの最終段階まで、それは明かさない。学生たちがさまざまな意見に耳を傾け、議論を重ねていくことが非常に重要だからだ。

■日韓で社会現象も
米国では「旋風」起きず

拙著『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)が、日本や韓国でベストセラーになっていると聞く。なぜそれほどまでに支持されているのか――。10年8月、東京大学での講義のために来日したときにも、行く先々で、その質問をぶつけられた。そのたびに、私はこう答えた。

「その理由を探るためにここにいるのです」

日本や韓国で、私の本が社会現象ともいえるほど大きな支持を受けているのは、アジアにおけるモラルの揺らぎを反映しているのではないかという声も耳にする。だが、私はそうは思わない。

実際、日本での滞在を通して感じたのは、価値や倫理をめぐる大きな問いかけについて考えたい、といった渇望が社会にあふれているようにみえることだ。考えを押しつけるのではなく、深い思考へといざなう本への渇望、である。

日々の人生をどう生きるべきか、政治をどう行うべきか、法とはどうあるべきか、公正とは何か――。そういった手ごわい、だが重要な問いかけに挑戦したい、といった大いなる欲求だ。

また、倫理や正義に関する大がかりな問いかけについて、みんなで意見を戦わせたいという渇望がみなぎっている、という印象も持った。日本の人々が、他の意見を尊重しながら闊達な議論を交わすことに知的興奮やエネルギー、刺激を感じていることは、東京大学での講義からも明らかだ。

実は、当初、日本人は「控えめでシャイすぎるため、米国でのように活発な反応は期待できない」という助言を数多くもらった。その言葉を信じはしなかったが、内心、少し気をもんでいた。

そこで、講義を始めるに当たって、まず聴衆にこの質問をぶつけてみたところ、「ノー! 議論がしたい。みんなで意見を戦わせたいんだ」という答えが返ってきた。講義は、その言葉どおりになった。挙手も絶えることがなく、意見が縦横無尽に飛び交った。他者の意見を尊重しつつも、厳しい反論が行われ、次々と質問が浴びせられた。ああ、日本の人たちも、活発で中身の濃い議論の場を希求しているのだ、と感じたものだ。

米国でも、原書『Justice: What's the Right Thing to Do?』はベストセラーリストに入ったが、日本における「フィーバー」とは違うように思う。

出版社も私自身も、まさか哲学書が「ニューヨーク・タイムズ」紙のベストセラーリストに入るとは予想していなかっただけに、実に驚き、わくわくしたものだが、米国では、(こうした知的な哲学書に)フィーバーは起こりにくい。知識人や哲学者よりも、ロックミュージシャンやハリウッドスターのほうが容易に注目を集め、旋風を巻き起こせるお国柄なのだ。アメリカのポップカルチャーが、社会の性質にも影響を及ぼしているのだろう。

たとえば、知性を重んじ、知らないことを「恥」とする日本文化に対し、米国では、「無知」を恥とせず、抽象的な思考を時間のムダと考えがちだ、という指摘も耳にする。この分析には、一理あるだろう。米国文化が、伝統的に、知的なものよりも「実践的」なものにベクトルが向いているのは確かだ。とりわけ哲学となると、他の多くの国々に比べ、なおさら関心が薄い。こうした傾向は、大昔から米国社会に脈々と流れているものだ。1830年代の米国政治について分析した政治思想家アレクシス・ド・トクヴィルは、著書『アメリカのデモクラシー』で、こう指摘している。

「アメリカという国は、哲学的なことにはほとんど時間を割かない合理的な人々の集まりだ」

実践的で、「サクセス」への志向が強く、とりわけ経済的成功を重視する。実践的(プラグマティック)なものに比べて、哲学や知的な事柄には関心を示さない文化。それが米国社会の傾向であり、それは建国当初から変わっていない。

「ひとつのアメリカ」を訴えたオバマ大統領でさえ、ロースクールの教壇に立っていたという経歴から、「知的すぎて一部の国民とコネクトできない」という批判を受けている。他国に比べ、米国社会は、「知的すぎること」を問題視する傾向がある。

■人生に意味を与える「伝統」は尊重すべき

数年前、日本で講義した際には、私の唱える「コミュニタリアニズム」に対し、アジアの集団主義という悪い部分を正当化しているという批判も受けた。私は、「共同体(コミュニティー)の価値を無条件で受け入れるべきだ」とか「階層的で権威主義的な伝統に従うべきだ」と主張しているわけではない。(家父長制や専業主婦などの)階層構造が、伝統の名の下で、たとえば女性の権利を否定しているとしよう。私は、その伝統を受け入れるべきだ、などとは決して思わない。

私が唱えているのは、コミュニティーや市民としての義務、市民間の相互責任に重きを置き、道理にかなった問いかけや議論を展開すべきだということである。市民が共通善を目指し、人生に意味を与えてくれるような伝統を真剣にとらえるべきだ、と言っているのだ。それがコミュニタリアニズムである。

健全なコミュニティーにとって、道理にかなった議論はきわめて重要だ。しかし、たとえば米国政治の世界では、議会や公聴会といった「熟議」の場が「ロビー活動」の場と化しつつある。議論や異論、論争があふれるなか、人と「やり合う」ことに血道を上げる姿が目立つ。

医療保険制度改革をめぐる論議が好例だ。反論や怒号が飛び交い、人の意見に耳を貸さず、相手を尊重しない。

米国人は、議論の仕方を向上させる必要がある。お互いを侮辱し合ったり、責め立てたりと、討論の質が低く、中身がお粗末すぎる。

オバマ大統領は、選挙戦で見せた「教育者」としての指導的役割をいま一度取り戻し、大きな道徳的問いかけをめぐる議論に市民を取り込んでいくべきだ。民主主義社会で効果的に指導力を発揮するには、そうした市民教育が欠かせない。

政治の世界で健全な「熟議」が機能するためには、いくつもの関門がある。

まず、議会レベルでの改革が必要だ。ロビー活動や特殊利益団体、マネーの影響力が弱まるように議会をチェンジしていかねばならない。だが、それだけでは不十分だ。

もうひとつのチェンジは、マスコミ改革である。政治家は、報道や公開討論の結果、世論がどう動いているかを注視している。メディアは、市民の問いかけに対して、真剣な議論の機会を提供し、政治家にプレッシャーを与えなくてはいけない。しかし、米国のメディアは、著名人の動向や醜聞といったセンセーショナリズムに執着しすぎている。

マスコミ改革のためには、視聴者である市民が、真剣な熟議の場を求めていることをメディアに感じさせる必要がある。たとえば、批判的な視点を持ち、理性的な討論の場を求める市民を生み出すよう、教育システムを変革するのだ。まず、大学が市民教育の機会を提供することが重要だと思う。

いずれにしろ、「共通善」を目指した討論の場を増やすことが必要だ。政府やメディア、高等教育機関の改革に加え、労働組合や社会運動団体、環境グループ、女性の権利団体など、市民社会レベルでの協調を進め、市民の声をくみ上げていく仕組みづくりが大切である。

■なぜチリ鉱山事故に世界中が注目したか

私は講義や著作を通して、法や政治をめぐる大がかりで抽象的な問いかけを、具体的なヒューマンストーリーに置き換え、読者に理解してもらおうと心がけた。最近、起きた事例のなかで、共通する要素が多いのがチリの鉱山落盤事故だ。

10年8月にチリのサンホセ鉱山で起きた大規模な落盤事故では、地下634メートルに33人の作業員が閉じ込められ、70日後に全員が救出された。この事故が、なぜ世界の人々の心をわしづかみにしたのだろうか――。

私が自らの講義で取り上げるとすれば、鉱山労働者の安全をめぐる抽象的問題に焦点をあてるだろう。鉱山の安全規則とはどうあるべきか、雇用主はいくら払うべきか……。だが、閉じ込められた作業員に注がれた人間的な関心の前には、こうした問題などかき消され、ほとんど話題にも上らなかった。労働者の安全という抽象的な問いかけが、すべての人が理解できる人間的な、感情的なレベルに落とし込まれたのだ。

実際、生身の人間がそこでもがき苦しんでいるとき、人々は、もっと具体的な形で、その事象を理解しようとするものである。自分が、または愛する人が鉱山に閉じ込められたら、どうなるか。誰もが、わが身に置き換えて問題をとらえようとする。

そうした人々の関心や心配を、もっと大きな問題へと高め、社会正義や労働者の安全に対する責任など、より広範な問いかけへと結びつけるのは容易ではない。理想的には、政治家が、その役目を担い、今回のような非常にドラマチックで人間的な経験を大きな問題へと関連づけていくべきだと思う。「共通善」の政治には、そうしたプロセスが欠かせない。

最後に日本について触れたい。議論の仕方や人の意見の聞き方など、日本から学ぶものは多い。最近の問題では、経済格差については、米国は日本の報酬慣行を見習うべきだと思う。

ウォール街が隆盛を極めた00年代前半には、米国流がベストのはずだ、という認識が流布していた。米大企業の最高経営責任者(CEO)は、一般社員の350〜400倍の報酬をもらっている。つまり、1日で、一般社員の年収を稼ぐわけだ。

金融危機を経て、ウォール街でも、共通善への貢献度に見合わないゆきすぎた巨額報酬に、何かしらの制限を設けるべきだとの議論が起きている。だが、危機の記憶が薄れるにつれ、また元のパターンに戻る危険がある。

一方、日本の報酬慣行は、格差が少ない点で、米国方式より優れたものだと思う。米国は、バンカーやヘッジファンドマネジャーなどが享受する極端な報酬格差を是正することで、より健全な経済と社会を生み出すことができるはずだ。金融危機が、米国の報酬モデルに大きな疑問の楔を打ち込むことを願っている。

こうした問題については、人によって考えも様々だろう。これは一例にすぎない。繰り返しになるが、重要なことは、こうした問題を議論することだ。読者の1人ひとりが深い思考を試みることが、よりよい社会をつくるための「共通善」を育むことになるのだ。

※すべて雑誌掲載当時

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ハーバード大学教授 マイケル・サンデル 
1953年生まれ。ハーバード大学教授。専門は政治哲学。同大での講義「Justice(正義)」を収録したテレビ番組「ハーバード白熱教室」は世界各国で放送され、話題を集めた。著書に『これからの「正義」の話をしよう』(早川書房)など。

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(肥田美佐子=取材・構成 Chensiyuan(Sanders Theatre Harvard University)=撮影)