不調の涌井秀章投手を復調させるべく、渡辺久信監督はエースを先発ではなく、守護神としての暫定起用を続けている。これがもたらす効果は、リリーフとして腕を強く振る感覚を思い出せるということだ。だがこれだけで涌井投手がエースとして完全復調するとは考えにくい。涌井投手が完全復調するためには、投手コーチのきめ細かいケアが必要となってくる。

さて、この話を進める前にまず、運動習熟という言葉について解説をしておきたい。人間の体というのは、同じ動作を2000回繰り返すことにより、その動作を筋肉が覚えてくれる(マッスルメモリー)。これを運動習熟と呼ぶ。

涌井投手に話を戻そう。涌井投手は昨季、遊離軟骨による肘痛を抱えていた。肘痛を抱えたまま2000球以上投げてしまったことにより体が、肘を庇った投球動作を覚えてしまったのだ。つまり肘を庇った投げ方を運動習熟してしまった、ということになる。これが、筆者が考える涌井投手の不調の原因だ。つまり涌井投手を復調させるためには、涌井投手のベストの投げ方による再度の運動習熟が必要ということになる。

涌井投手が沢村賞を受賞した年の、涌井投手自身が理想であると考えている投球動作。もちろん過去に戻る必要は必ずしもなく、今後に向けての理想だと考える投球動作でも構わない。その投球動作を時間をかけて2000回以上繰り返し、涌井投手自身が考える理想の投球動作を運動習熟させていかなければ、本当の意味で涌井投手が復調することはないだろう。

涌井投手の不調を酷使だと言う者もいる。しかし筆者はそうは考えていない。涌井投手の肘痛はあくまでも遊離軟骨が原因だ。これは肘を酷使しない野手にも起こる症状で、現にライオンズでは栗山巧選手中村剛也選手もこの除去手術を受けている。良くない投げ方のせいで、発症する可能性が高まることもあるが、良い投げ方をしていたとしても遊離軟骨による肘痛は起こりうる。このことを理由に、筆者は酷使が涌井投手の肘痛と不調の原因ではないと断言したい。

酷使とは、疲労が抜け切っていないのに疲労度以上のパフォーマンスを要求することだ。ローテーション投手として中5日、中6日で回っていたスタミナ抜群で20代前半の若い涌井投手が、1試合で150球近く投げたとしても、それは決して酷使ではない。もし涌井投手が上半身の力に頼って投げる投手であれば、増える球数は酷使にもなるが、しかし下半身を理想的に使って投げる涌井投手の場合、これを肩・肘の酷使だと評価する必要はまったくない。

西鉄ライオンズの稲尾和久投手と、大洋ホエールズの秋山登投手は、それぞれ三原脩監督が酷使したために選手寿命を縮めたとメディアでは報道され続けている。しかし当の稲尾投手、秋山投手のコメントを聞くと、まったく酷使された、無理な起用をされたという自覚がないのだ。逆に超人的な登板数を充実感として受け止めていた。つまりコンディションの良い状態、疲労度の低い状態、無理のない投球動作で投げている状態であれば、連投は決して負担にも、酷使にもならない。だが状態を見誤り連投させてしまうと、これは酷使となり、担当する投手コーチ、起用する監督の資質が問われることとなる。

話を冒頭の運動習熟ということに戻すと、涌井投手は理想的なボールを投げられる、理想的な投球動作での投球を、単純に考え2000球以上繰り返さなければならない。それができなければ安定して理想的な投球動作で投げることができず、好不調の波を繰り返してしまうことになる。ここで必要なのが投手コーチの存在だ。投手コーチとして仕事をしている限り、担当する投手の良い状態、悪い状態を論理的かつ正確に把握しておかなければならない。

つまり今涌井投手が投球練習をしている姿を見て、瞬時に良い時と比べてどうか、悪い時と比べてどうかということを明確に掴める能力が要求される。そしてそれを言葉で伝える能力、もしくは映像を使って科学的に伝える能力も必要とされる。果たして杉本正コーチはそこまでのコーチング能力を持っているのだろうか。ここでは何とも言えないところではある。少なくともドラゴンズの権藤博コーチのように、投手の失敗をすべてコーチ自らの責任であると言い切る覚悟がない杉本コーチの能力に、筆者はファンとして信頼を置いてはいない。

現代のプロ野球は、2軍であっても投球動作を映像から解析できる環境が整っている。それならば1軍でそれができないはずがない。それらの環境や自らの眼力を活用し、涌井投手を完全なる復調へと導く(コーチングする)のが杉本コーチの役割だ。涌井投手はもちろん自らの力で立ち直らなければならないわけだが、しかしここに有能なコーチの存在がなければ、余分な遠回りをしてしまうこともあるだろう。そうならないためにも、杉本コーチには投手コーチングのプロとして、涌井投手を自らのコーチングにより復調させてもらいたい。エースと言えど、涌井投手の復調を涌井投手に丸投げしてしまうのでは、投手コーチとしてはあまりにも物足りなさばかりが募る、そう感じてならない筆者なのである。