過度な孤独の推奨は「孤独の常態化」を招きかねないリスクをはらんでいる(写真:AH86 / PIXTA)

冒頭、筆者自身の体験をご紹介したい。

6年前の夏、1本の電話が真夜中に鳴った。電話をとった夫が言葉を失い、その顔が見る見るうちにこわばるのが見えた。義父が亡くなったことを知らせる電話だった。享年60歳。


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孤高の人だった。抜群に頭がよく、プライドが高い人で、友達はほとんどいなかった。弁護士として一時は成功を収めたが、酒におぼれ、仕事を辞めた。妻が働き、家計を支えた。15年余りそんな生活を続け、ついに、離婚。1人で暮らし始めたが、よほど寂しかったのだろう。結婚詐欺に引っかかり、大金をはぎ取られたりもした。ある日、隣人にしばらく旅行に行くと言い、連絡を絶った。

日本でもてはやされている「孤独」

それから3週間後、自宅のベッドからころげ落ちたような状態で発見された。死後かなりの日数が経っていたため、死因は特定できなかった。世間のスタンダードでいえば、「落伍者」だったのかもしれないが、子育てには熱心で、よき父、祖父としての一面もあった。

その突然の死の後、家族に残されたのは、例えようもない悔恨だ。私たちは何かできたのか、できなかったのか。長年の飲酒が体をむしばんでいた、これは間違いないだろう。しかし、私たち夫婦は、ほかでもない「絶望的な孤独」、これこそが、彼の直接的な死因だったと思っている。

3年前、アメリカ暮らしから戻った筆者がずっとぬぐうことのできない違和感。それは、海外で、「現代の伝染病」として、その脅威が大々的に取りざたされている「孤独」がこの日本では驚くほど、「もてはやされている」ことだ。アマゾンの書籍を「孤独」というキーワードで検索してみればわかるが、ポジティブなものばかり。数えきれないほどの本が、「孤独」を推奨している。


「孤独」でアマゾンを検索してキーワード順に並べるとポジティブな書名がズラリ(画像:アマゾンのサイトをキャプチャー)

筆者は本連載や書籍『世界一孤独な日本のオジサン』を通じて、欧米の数多くの研究が孤独の負の健康影響について警鐘を鳴らしていることを紹介してきた。ところが、読者からは「孤独の何が悪いのか」という反応も少なくない。これだけ「孤独推奨本」が売れているということは、実は多くの日本人が「孤独感」を覚え、その気持ちと自分の中で折り合いをつけようと葛藤している、ということの証左なのかもしれない。

ここでクリアにしたいのは、「孤独」と「ひとり」はまったく異なるものであるということだ。孤独とは、「思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が1人もなく寂しいこと。また、そのさま」(デジタル大辞泉)のことである。孤独の「孤」はみなしごという意味であり、頼るべき人がなく、不安を感じる状態を指す。つまり、「孤独でいいんだ」という論法は孤児に対して、「たった1人の寂しさを我慢しろ」、いじめを受ける子に対して、「いじめに1人で耐えろ」と言うようなものである。

もちろん、人には時として、孤独に耐えなければならない場面もある。しかし、孤独はのどの渇きや飢餓と同じような負荷が心身にかかるものと言われている。孤独がつらいのは、「水を飲め」「食べろ」というのと同様に、「つながりを作りなさい」という人間の生存本能からのサインにほかならないからだ。その苦しい感覚にずっとフタをし、「つらくない」と思い込め、という「マッチョな根性論」は、人間の自然の摂理に反している。

過度な「孤独」推奨は、「孤独の常態化」を招きかねないリスクをはらんでいる。恒常的な孤独は、たばこより、肥満より、飲酒より、心身をむしばむものだ。「孤独はいいが、孤立はいけない」などという講釈もあるが、「孤独」は孤立の内観だ。

また、欧米の研究で、まさに健康影響があると指摘されているのは、物理的な孤立だけではなく、「寂しい(lonely)という不安感」である精神的な「孤独」(loneliness)のことだとされている。自ら望み、「ひとり」を楽しむ「“個”独」は推奨されても、「孤独」は本来、美化されるべきものではないはずだ。

日本では孤独や孤高が極端にロマン視されている

なぜ、これほどまでに、日本では「孤独」が希求されるのか。まず、同質性や協調性を過度に求められる、日本独特の文化が大きな要因として挙げられるだろう。滅私奉公的な長時間労働や抑圧的な同調圧力の下で、多くの日本人が、人間関係に疲弊している。

集団に与することなく、自由になりたい、という欲求を抱くのは自然のことであり、結果として、孤独や孤高が極端にロマン視されている。また、男には「誰にも頼ってはいけない」「弱音を吐くな」というサムライ精神も背景にあるのかもしれない。

よく、欧米は個人主義、日本は集団主義と言われるが、実は、日本人は集団という物理的な枠に一緒に押し込められる中で、1人ひとりが自発的につながろうという努力をあまりしてこなかった。

だからこそ、人々の結びつきや信頼、近所付き合いやコミュニティなどの強さを示す指標、ソーシャルキャピタル(社会関係資本)は149カ国中101位(イギリスのレガタム研究所の2017年版のランキング)という世界最低レベルの水準だ。つまり、家庭などに代わる、セーフティネットが絶望的に貧弱な国ということになる。だから、同じ「檻」の中に閉じ込められていながら、その中の人々のつながりは希薄だ。

欧米では、1人ひとりが「個」として独立しているからこそ、人と人とのつながりや信頼こそがなによりも価値がある社会基盤であることを認識している。そうした絆の弱体化である「孤独」は社会、そして個人の危機なのだ。

本当の「孤独」の骨をそぐような痛みは当人にしかわからない。筆者の元には、読者の方々からメールが届く。介護をしていた母を亡くし、「天涯孤独だ」と訴える男性。妻を亡くし、途方に暮れる高齢の男性。毎日毎日、誰とも話すこともなく、テレビだけが相手という日々。孤独を気軽に推奨する人々はそんな残酷さを、身をもって知っているだろうか。

孤独は1人で飼いならすべきと考える日本

海外では、「孤独」は「社会全体の大問題」であるという認識から、孤独に苦しむ1人ひとりに丁寧に寄り添おうと、国を挙げて、その解決策を探る動きが活発化している。孤独担当大臣を設けたイギリスのほか、アメリカ、オーストラリア、インド、韓国に至るまで、続々と調査や対策に乗り出し、連日、報道も相次いでいる。その一方で、「個人の問題」「自己責任」と考え、「1人ひとりのやせ我慢」によって飼いならすべき、と考える日本。

いじめなどを受ける子に対し、「人と違っていてもいい、強くあれ。孤独でもいいんだ」という言葉をかけるのも1つの手かもしれないが、孤独を美化したところで、根本的な解決策にはならないだろう。本当の解決策は、彼らが安心できる居場所を見つけること、支え合い、寄り添う仲間を見つけること、いじめの起こらないシステムを模索することではないか。実際、日本の子どもたちは「世界一、孤独」というデータもある。もはや、1人ひとりに「メンタルを強く持て」と放置プレーで済ませられる次元の問題ではない。

つまり、ひと時の孤独をやり過ごす心の耐性は必要だが、それはあくまでも対症療法でしかなく、常態化する孤独の処方箋にはならないということだ。そうやって、無理やり納得させて抑え込んだ「孤独」は社会に対する不安と不満、怒り、絶望という形で爆発する可能性も秘めている。

先日、ある学生から、「孤独を否定することは、依存を奨励しているのではないか」という質問を受けた。つまり、孤独は依存の対義語として認識されているということのようだ。「1人で強く、人に頼らず生きていく」ことが「孤独」であるという解釈なのだろう。

作家の中村うさぎさんが、自らの闘病の経験から、次のようなことを書いている。

熊谷晋一郎さんは脳性マヒで車椅子生活をしている障碍者のお医者さんで、私もお会いしてお話をしたことがある。その熊谷さんが、「自立は依存先を増やすこと。希望は絶望を分かち合うこと」とおっしゃったそうだ。さすが、である。なんかもう、ものすごく胸にすとんと落ちた。(中略)
人間は、さまざまなものに依存する。家族や友人や恋人という他者に、宗教や思想に、あるいは恋愛やセックスといった行為に。おそらく我々は、何かに依存しなければ生きていけない生き物なのである。(中略)
「自立」を目指した果てに「孤立」が待っていることはよくある。自立と孤立は違うはずなのに、こんなはずじゃなかったのに、と臍(ほぞ)を噛む。
mine「女王様のご生還 VOL.56」より

孤独信仰の先にあるのは「一億総引きこもり」

依存と孤独は対義語ではない。「過度の依存」こそが「孤独」と実は同義語なのだ。人は本能的に「つながり欲求」を持っており、人とのつながりが作りにくい孤独な人が、酒や薬物などの依存に陥りやすいと言われている。つまり、人の代わりに、酒や薬物などとつながることを選んでしまうということだ。義理の父は、精神的な孤独感から、「酒」とつながっていったのかもしれない。

「自立とは適度な依存」。つまり、柔らかな自発的つながりを保ちながら、他者を思いやり、支え合い、寄り添い合う関係性こそが、自立ということだ。「孤独」は、「自立」や「自由」「独立」「1人」「個性」とはまったくの別物であり、「人とは違う自分らしい生き方」でもない。

人生百年時代が到来する今、「孤独を飼いならせ」とうたうのは、定年退職後に30年間、「引きこもり」を推奨しているようなものではないだろうか。こうした「孤独信仰」の先にあるのは、「一億総引きこもり」の日本である。日本人が将来に希望を持てない根本にあるのは、誰もがひそかに恐れを抱いているこうした未来絵図なのではないだろうか。