潤一とガンバ。9年半に及ぶ長いストーリーは、こうして始まった。
 
 中1となり、ガンバ・ジュニアユースでプレーすることになった潤一は、攻撃的MFの位置でボールを蹴っていた。濃い内容が連日続き、夜の11時に帰ってくる潤一はヘタヘタになっていたという。吹田近辺に住んでいる少年でさえ、練習をさぼりがちになっていくなか、潤一は一日も休まず練習に参加した。ベースとしてあった技術はさらに磨かれ、やがて上野山はひとつのテストを施すのだ。
 
「この子は攻撃的な位置でやるよりもパスの正確性とキック力、そして何よりも視野の広さを活かせるポジションがいい。前を向いてプレーさせるためには……位置をひとつ下げて……」
 
 守備的MFでの起用だ。ちょっとした思いつきだったと、上野山は言う。
 
 中1の冬、ゴールを挙げることがなによりの楽しみで、そこに絡むプレーを第一としていた潤一にとって、このコンバートは少なからずショックだったはずだ。当時はボランチ(ポルトガル語でハンドルの意)という言葉がまだまだ広く認知されておらず、中盤の後方で守備をする選手、といったイメージしかなかった時代である。
 
 潤一は当時をこう振り返る。
 
「なにをしたらいいのかさっぱり。まあそこから攻め込んだらエエわ、ぐらいに考えてましたね。まさかここまで長い付き合いになるとは思ってなかった」
 
 とはいえ、ジュニアユースBチームの指導にあたっていた鴨川幸司コーチは、その順応性に驚かされたという。迷いのなかで潤一は確かな手応えを感じ、独自の楽しみ方を見出していったのだと、恩師は回顧する。
 
 当面は攻撃的MFとの併用でゲーム主体の練習をこなしていった潤一は、中3の春にようやく、初めて日の丸を背負うこととなる。守備的MFとして臨んだ94年U-16日本代表には、小野伸二や高原直泰、そして大阪選抜で親しくなっていた新井場徹(ユースからガンバへ)などがいた。
 
 同年秋のアジアユースで日本は見事初優勝。そしてガンバ・ユースに昇格してまもなく、潤一は生涯初の世界大会を経験する。高まる期待、しかし……。成長期の少年が一度は迎える身体の異変が、潤一を襲うことになるのだ。
 
<後編につづく>
 
取材・文:川原崇(サッカーダイジェスト)