多くの映画ファンが訃報に涙した

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「文太さんの晩年は溺愛していた息子の加織さんをいっぱしの俳優にする。そのためだけに俳優業をされていた。そんな感じがします。偉大なる映画界の大先輩ですが、それ以上に子煩悩な1人の父親、私にはその印象があまりにも強くて――」

 2001年に事故で亡くなった菅原文太さんの長男で俳優の加織さんのお別れの会に参加した俳優は、今でも父・菅原文太さんから配られた加織さんの名前の入ったぐい飲みを大切に持っている(下の写真)。



 父・菅原文太さんとは親しくはなかったが長男の加織さんとは仲が良かった。自分がこれを持ち続けること、それが亡くなった加織さんを生かし続けることと信じるからだ。お別れの会では、哀川翔が献杯の挨拶を行なった。哀川が「献杯!」と声を出したとき、「本当なら息子の加織が父・文太を見送るはずなのに」と父・菅原文太の気持ちに思いを馳せた。

長男が生きていればまだ俳優を続けていた

 その菅原文太さんも、先月亡くなっていたことがわかった。81歳だった。

 早稲田大学中退後、映画界入り。『トラック野郎』『仁義なき戦い』シリーズで一世を風靡した。映画界では先輩からも可愛がられ、また後輩からも慕われる人柄で戦後映画界のスターとして知られる安藤昇の肝煎りで特に可愛がられたという。晩年は政治的な発言も積極的に行い、山梨県で農業を営んでいた。

 ある映画関係者は、「ご長男の加織さんが、もしご存命なら東日本大震災以降も俳優にこだわり続けられたのかもしれない」とし次のように語る。

「菅原文太さんは、映画人にありがちな強烈な個性とは程遠い謙虚で実直な物静かなお人柄だった。若いスチールカメラマンの注文にも真剣に耳を傾けて作品を練り上げていたことを今でも覚えています。映画人でも、政治家でも、実業家でもない、“菅原文太”という独特の個性が光っていました。もうこんな人は出てこないでしょうね」

映画人らしくない映画スターだった

 映画人らしくない映画スター、菅原文太さんはオン・オフの切り替えを徹底していた。そのため自宅には滅多に映画関係者や芸能関係者を招き入れることはなかった。ただし、招き入れられた者は「義兄弟」の付き合いが出来たという。

 もっとも菅原さんの自宅に招き入れられることのなかった芸能関係者も、菅原さんと関わった者は皆、「自分は菅原さんから信頼されている」と思わせる不思議な魅力が備わっていたというのが映画、芸能関係者の一致した菅原評だ。

「映画、テレビ、政治発言、農業……。何をされても存在感のある方でした。どの仕事にも誠実でした。ひとつ誤解のないように申し上げたい。菅原さんが息子さんのために作品を押し付けたり無理な配役をねじこんだりとか。そんなことは決してなかった」(映画関係者)

 映画会社が菅原さんを訪ねてきた際、「若くていい俳優がいる」とさりげなく長男の営業を行なうのが“菅原流”だった。ともすれば子弟や愛人の出演のみならずその配役まで口にするスターが数多いなか、菅原さんの長男のための“営業”は清潔感溢れるものとして映画界では記憶されている。

 昭和の大スターらしいスターがまたひとり逝った。ご冥福をお祈りしたい。

(取材・文/秋山謙一郎)