豊橋工vs愛知啓成
豊橋工・森 奎真君
今年の春、夏と県大会ではいずれも、強豪東邦に9回までリードしていながら、逆転で屈した豊橋工(春試合レポート・夏試合レポート)。その時の森 奎真君と彦坂拓真君のバッテリーがそのまま残った。森君自身も、敗れはしたものの、東邦相手の好投で自分の力がある程度通用するのだという自覚が出来てきたという。
それだけに、この秋の豊橋工は、早くから注目されていたが、やや苦しみながら東三河地区予選を通過。県大会に進出してからは、3年前に敗れた大同大大同、5年前に敗れている愛知産大工、この夏準優勝の栄徳という有力私学に競り勝って、ここまでの進出を果たした。
そんな、豊橋工の勢いはこの試合でも衰えていなかった。
豊橋工は2回、2死二塁から8番榎本君が右越三塁打して先制。さらに、3回にも1死から2番鈴木教真君が右前打し、2死二塁となってから打っても4番の森君がやや引っかけ気味ながらも三遊間を破って、二走の鈴木君を帰した。さらに、続く彦坂君も二塁まで進んでいた森君を返す左前打で3対0とした。
この3点リードで豊橋工は、かなり楽に試合を進められるようになった。内野手にも好プレーが相次いで、チームの士気を盛り上げた。そして9回には、彦坂君の左翼へのソロホーマーに始まって、続く岡君の三塁打に、乙部君の安打や暴投などもあって、3点を追加した。
そして、その裏も森君は2死後に里見君に二塁打は許したものの、危なげなく抑えた。
愛知啓成・鈴木駿介君
豊橋工は快勝と言ってもいい内容の試合だった。
林泰盛監督も、「ビックリするくらいに、やることなすことが上手くいきすぎました。普段あまり打たないヤツまでが、長打が出るし、守りも好守備が出て、出来過ぎと言っていいでしょう」と、秋季大会では学校としても初めてとなるベスト4進出を喜んだ。
「勝てば聞かれると思って、一応調べてきました」という、豊橋工野球部としての歴史は戦後すぐの1947(昭和22)年に創部し、過去、秋季大会では1973(昭和48)年にベスト8進出があったのが最高。夏は1960(昭和35)年に一度準優勝しているが、その時には好投手がいたということを教えてくれた。「ウチとしての新しい歴史を作っていこうということは話しました」と言っていたが、そうした、指揮官の準備が、この日の結果をもたらしたともいえよう。
ちなみに、その林監督は時習館から筑波大に進んでおり、筑波大では豊橋東出身で現中日の藤井敦志外野手の1年上だったという。
「東三河はウチ1校だけになってしまいましたから、東三河の代表のようなつもりでも頑張ります」という思いで、戦ってきているというが、そんな思いも選手個々にも浸透していっているのではないだろうか。
これから先は、東海大会進出も含めて、豊橋工としてはすべて初めてのことになっていく。森君と彦坂君という好バッテリーがいるということもあって、「歴史を塗り替えて行こう」という林監督の選手たちへの意識の煽りも、選手たちにとっては、こうして結果を残して行くことにつながっている。こうしたことで、一つひとつの自信になっていっているのではないだろうか。
一方、06年春に甲子園出場の実績のある愛知啓成。この日は、岡田敬三監督は豊橋工の勢いを止めるべく、三田村君から小柳津君、そして1番センターで出ていた鈴木駿介君と投手陣をつないでいったが、止めきれなかった。ただ、1年生の鈴木君はわずかだったが、活きのいい球を投げ込んでいた。
(文=手束 仁)