岩崎恭子が語る“バルセロナの真実とアトランタの転機”
――……。それは泳ぐことが、ただ楽しかったと。
「練習は凄く厳しかったです。『もう、帰りたいっ!』と思ったこともあったし、オリンピックの合宿なんて毎日、泣きながら泳いでいました。多い日は、1日に8000メートルから9000メートルを一気に、それを二度、泳ぎました。それって私がいたスイミング・スクールの練習の3倍で。3倍の量を、またもう一度繰り返す。オリンピックになると、コーチも他の選手も練習の時から意気ごみが他の大会とは違っていました。
――レース自体になると、オリンピックという場は、世界選手権や他の大会とは気持ち的には変化があるものなのでしょうか。
「プールが凄く小さく見えるほど、見ている人が多かったです。今から思うと、そういう状況のなかで観客席に手を振ったりしてみたかったです(笑)。私は若すぎたので、達成感でなく、ただただ驚いてしまっていただけだったので」
――確か岩崎さんは、レース前にはそれほど注目はされていなかったですよね。あの勝利後の盛り上がり方とは対照的に。
「はい。千葉すずさんや林亮選手さんが話題の中心でした。私は優勝候補でもないですし、記録自体、あの場で5秒ぐらい縮めていたので。水泳で5秒の差って、全く相手にならないタイムですから、地元でしか注目されていなかったです」
――そんなか金メダルを獲得し、日本では岩崎さんのことを知らない者はいないというぐらい注目されるようになりました。
「金メダルを取ったことで、自分も変わった部分は少なからずあったと思います。お転婆で負けず嫌いな中学生が、周囲の視線を感じることによって、『これしちゃいけない』、『これはダメだ』っていう風に思うようになって。なんで、ああいう風になったのか、そのままでいられなかったのかなって、疑問を持つ部分もあったのですが、発言一つするにも真剣に考えるようになっていました。金メダルを取る前は、そんなことは考えたこともなかったのに」
――本来、考える必要がないことですからね。
「自分が何をいうかでなく、『この人は私にこういう話をしてほしいのかな』なんて思うようになっていたんです。そういう部分ですね、私が変わったのは。いつも注目されている状況がものすごく嫌でしたし、目立ちたがり屋だったはずなのに、日本中から見られていると思うと――。」
――まさに岩崎さんでなければ、分からない心境ですね。マスメディアの怖さというのでしょうか。
「自分自身の強い意思の下で、金メダルという結果を手にしていれば、また違っていたのかもしれないです。一番にはなりたかったですし、金メダルは欲しかったのですが、オリンピックで金メダルを取るとどうなるのか、その先の心の準備ができていなかったかなって」
――仮にバルセロナが4位で、アトランタを迎えていれば、心の準備はできていたと思いますか。
「それは……、どうでしょうか。バルセロナと違い本当の意味で金メダルを狙っていれば、それまでに経験したことのない緊張感に襲われていたかもしれないですし。バルセロナのときは、天真爛漫といってもいいような状態で泳げていましたから。
アトランタが終わった後は、凄くスッキリしました。それはもう一度、オリンピックを目指したいと思ってから、また水泳にのめり込むことができたので。競技者としては良くなかったのですが、私が人生を歩む工程として、凄く意味のあることだと思っています。オリンピックとオリンピックの間は、凄く辛いこともありましたし、色々なことを考えていて、その結果だったので」
<後編へ続く>