村上頌樹が振り返る「669球を投げぬいた」甲子園
3年春のセンバツでは669球を投げぬき優勝した村上頌樹選手(写真:岡沢克郎)
高校1年の夏からベンチ入りを果たした村上頌樹は、甲子園に3回出場している。なかでも3年春のセンバツでは、エースとして全5試合をひとりで投げ抜き、チームを初の全国制覇へと導いた。甲子園を本拠地とする虎のエースが、8年前の記憶をたどる。
※本稿は、『プロ野球選手の甲子園伝説 21世紀新時代編』から、一部を抜粋・編集してお届けします。
「大阪桐蔭」ではなく「智弁学園」を選んだ理由
── 兵庫県の淡路島出身で、中学時代は硬式クラブチームのアイランドホークスでプレー。奈良の智弁学園へ進んだ理由は?
とにかく甲子園に出たい気持ちが強かったんです。兵庫や大阪だと学校数も多くて、厳しいというのが正直ありました。それと智弁OBで元阪神の庄田隆弘さんが中学のチームの指導をされていて、そこから小坂(将商)監督も見にきてくれるようになり、決めました。
── 甲子園への憧れはいつ頃からですか?
小学生の頃からずっとテレビで見ていて、特に夢中になったのは藤浪(晋太郎/現・メッツ)さんたちが春夏連覇を達成した時の大阪桐蔭。中学2年の時です。
── 大阪桐蔭に行きたいとは?
それはならなかったです。甲子園にも出たいし、エースにもなりたい。現実的に考えて、大阪桐蔭よりも……となったんだと思います。
── 当時の智弁学園には2つ上に岡本和真選手(巨人)、1つ上に廣岡大志選手(オリックス)ら、錚々たるメンバーが揃っていました。
だから高校野球のスタートは「すごいな」と圧倒されたところから始まりました。
── 何が一番すごかったですか?
それはもう岡本さんのバッティングです。金属ではなく、木製のバットで軽々とサク越えして……とにかくすごかった。
── 高校時代の岡本選手は、ピッチャーとしてもマウンドに上がっていました。「ピッチャー岡本」はどんな印象ですか。
球が速いなと。あとは……。
── ボールを見て圧倒されることはなかった?
はい(笑)。ほかの3年生のピッチャーのほうがすごかったです。
── しかし、そんなすごい先輩たちのなかで1年夏からベンチ入り。
最初はBチームからのスタートで、ある時、監督から「次の練習試合で結果を出したらAチームに上げる」と言われたんです。そこで抑えて、次からいきなりAチームで、平安(龍谷大平安)相手に投げていました。
甲子園の「熱気と応援」しか記憶がない1年の夏
── 1年夏の県大会はどうでしたか。
2回戦で代打として出たのが最初で、3回戦は先発で投げると言われていたのですが……それが当日になったらレフトでスタメンでした。なんでレフトだったのか、わからないです。その次の試合もレフトで、結局、県大会は4試合野手として出場しましたが、登板はありませんでした。
── それだけバッティングが評価されていたと。智弁学園で1年夏から出るのはなかなかです。しかし甲子園では、明徳義塾に初戦敗退。この試合の最後、マウンドに上がりました。
あの時も試合中に投球練習をして、監督に「準備できました」と言ったら、キャッチボールしとけと言われたので登板かなと思ったら、たしか6回の守備からレフトに入りました(笑)。
── レフトで途中出場し、4対10とリードを奪われた8回裏に4番手で登板。しかも岡本選手のあとを受けてのリリーフ。なかなかの豪華継投です。
そうですよね。いざ投げるとなると、一気に緊張感が増して、マウンドでのことはほとんど覚えていなくて。覚えているのは、甲子園の熱気と応援がすごかったことくらいです。
── 試合当日は8月15日。お盆期間の第1試合、観衆は4万7000人でした。
ほんとにすごい雰囲気のなか、相手の明徳も岸(潤一郎/現・西武)選手中心に強かった。
── 智弁学園も岡本選手を中心に注目されていました。
自分がいた3年間のなかで、間違いなく1番強いチームだったと思います。
近畿大会での大阪桐蔭戦が、大きく変わる契機に
── ここで1年夏が終わり、秋からはエース。しかしその秋と2年夏は、最大のライバルである天理に連敗し、甲子園出場はなりませんでした。そして2年秋は奈良大会を制し、センバツにつながる近畿大会でも初戦で神港学園に勝利。ただ、つづく大阪桐蔭戦は9失点で完敗でした。
あの大阪桐蔭戦は、自分が大きく変わるきっかけになった試合です。「打たれたらどうしよう」と、弱気な気持ちになって攻め込まれたんです。やる前から気持ちで負けていた。だから、ピッチングでも厳しいところばかり狙いすぎてフォアボールにしたり、カウントを不利にしてストライクを取りにいったところを打たれたり。
技術面も足りなかったと思いますけど、気持ちの部分で負けていたら抑えられるものも抑えられない。
── それからどのように変わっていったのですか。
OBの方にメンタルやピッチングの考え方を教えてもらったことも大きかったのですが、1番は「打たれたらどうしよう」ではなく、「やってやろう」「抑えてやろう」という気持ちで投げられるようになったことだと思います。
── そう思えるだけの練習を積んだことが大きかったと思いますが、気の持ち方によってボールって変わるものですか。
変わりますね。不安のまま投げたボールは、打者の手元で力がなく、怖さもない。でも気持ちがしっかり入って投げたボールというのは、最後までスピンが効いていて、ベース上で勢いがあります。
── しかしあの当時、近畿大会での大阪桐蔭戦の投球を見て、センバツであれほどの投球をするとは想像もしませんでした。
自分でも出来すぎた感はありましたけど、負けたくない気持ちがいい方向に出たのだと思います。
── センバツは全5試合、47イニングをひとりで投げ抜き自責点はわずか2。振り返ると、まず福井工大福井戦の10安打完封からのスタートでした。
この試合はめちゃくちゃ印象に残っています。試合が終わって、校歌を歌う時に整列してスコアボードを見たら、「えっ、10安打も打たれてたん?」と。そんなに打たれていると思っていなかったんです。
── そこから鹿児島実を4対1、滋賀学園戦は2安打完封。その後、龍谷大平安、決勝の高松商はともに2対1のサヨナラ勝ち。本当に厳しいゲームが続いたなか、669球をひとりで投げきりました。ふつう、それだけの球数をひとりで投げると徐々にへばってくるのに、まったくその気配がなかった。いま振り返っても、すごいことだと思うのですが。
子どもの頃からずっと投げてきたので、そのおかげかなと。小学校の時もふつうに1日2試合投げていましたし。ほんとに投げるのが好きで、投げるほど球もよくなって、コントロールも段々よくなっていったんです。
センバツの時もそうでしたし、プロに入ってからもキャンプではみんなより球数を投げて調子を上げていきます。
ほかの投手が投げて負けるのは「絶対に嫌」
── あれだけひとりでへばらずに投げきれた理由を解明できたら、投手指導の大きなヒントになりそうです。
今は球数制限とかあるじゃないですか。大変だなって思いながら見ています。
僕の場合は、当時からずっと投げたいと思っていました。エースナンバーを持っている自分が投げて負けるならまだしも、ほかの投手が投げて負けるのは絶対に嫌でした。
だから、球数制限で投げられずに負けるなんて……自分のなかでは考えられないです。このあたり、自分は完全に”昭和チック”なんですけど(笑)。
── 甲子園優勝投手となり、何か変化はありましたか。
周りからの見られ方が変わりましたし、夏へ向かう間の練習試合がめちゃくちゃしんどかったことは覚えています。
招待試合を含め相手が強いところばかりで、センバツ優勝校ということで挑戦者みたいに向かってこられて……。それが続いたのはしんどかったですね。
── 春夏連覇に向けてのプレッシャーはありましたか?
自分たちに「絶対連覇や!」という気負いはなかったんですけど、周りがその気になって、圧みたいなものは感じていました。
── そして最後の夏、奈良大会は5試合、40回1/3を投げて優勝。ほかの投手が投げたのは5回2/3ですから、ここもほとんどひとりで投げて、天敵・天理を下しての甲子園でした。
県大会の時も監督から「全試合行くぞ」と言われて、「はい、わかりました」っていう感じでした。「全部投げなあかんのか」という気持ちにはならず、「よっしゃ、やったろう!」って。言われる前から、全部行くつもりでいました。
── 甲子園では、初戦の出雲戦は6対1。5安打、7奪三振、無四球完投でした。センバツの続きのような投球で好発進。しかし、次の鳴門に敗れ、高校野球が終わります。
記憶に残っているのは9回です。9回表、2対2の同点から3点を取られて。
── 二死満塁からライト前にタイムリーを打たれ、さらに悪送球も絡んで走者一掃でした。
最後は高めに浮いた球を運ばれ、ライト前に落ちたんですけど、その1球前をしっかり投げ切っていれば三振に打ちとれたはず。でも、それが少し外れてしまって……。
いいコースにいったと思ったんですけど、後から見たら外れていましたね。でもその時は「えっ、ボール?」と思ってしまって、気持ちがちょっと切れたというか、切り替えられませんでした。
あぁ、高校野球の終わりってこんな感じなんや
── 終わった瞬間の記憶はありますか。
9回裏、自分が一塁に出ていて、次の選手がフライを打って試合が終わったんです。その瞬間は「あぁ、高校野球の終わりってこんな感じなんや。明日から野球なくなって、何をしようかな」と。そんな感じだったと思います。
── あの夏から8年。今は甲子園球場を本拠地で投げていますが、当時と違いますか。
今も甲子園はすごい場所ですけど、子どもの頃から憧れ続けて、当時はとにかくそこを目指して、毎日練習していましたからね。やっぱり、高校生にとって甲子園球場は特別な場所だと思います。
今は本拠地として、ファンの方の熱い応援を受けて落ち着く場所。そんな感じです。
── もし鳴門に勝っていたら、センバツの時のように夏の甲子園でも投げ続けていたでしょうか。
どうだったんですかね。体は大丈夫でしたし、夏もいくらでも投げられそうな感じはありました。
でもこうして振り返ると、春に優勝することができて、夏も甲子園で終われた。高校野球も甲子園も十分満喫させてもらったなと、ほんとにそう思います。
(谷上 史朗 : ライター)