清少納言ゆかりの地、今熊野観音寺(写真: legao / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第30回は、清少納言に関するひどい噂の数々について解説する。

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紫式部が清少納言を罵ったワケ

大河ドラマ「光る君へ」では、仲睦まじい友人同士として描かれてきた、まひろ(紫式部)とききょう(清少納言)だが、第29回「母として」(2024年7月28日放送分)では、2人の意見が衝突。やや険悪なムードとなった。

2人の関係性は実際どうだったのか。『紫式部日記』で、紫式部が清少納言を次のように辛辣に批判していることは有名だ。

「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり」

「したり顔」は「得意顔」、「さかしだち」は「賢い」「利口」という意味になり、以下のような意味合いとなる。

「清少納言は得意顔をして、偉そうにしている人。利口ぶってやたらと漢字を書き散らしているけれど、よく見たら間違いも多くて、まだまだ足りないところだらけ」

ずいぶんな言われようだが、2人に面識があったという記録はない。宮仕えをした時期もズレているため、生涯を通じて顔を合わせることはなかった可能性も高い。

だとすれば、なぜ紫式部はあれほど清少納言を批判したのか。一説によると、紫式部の亡き夫・藤原宣孝が参拝のときにまとった派手な服装を、清少納言が『枕草子』で「これはあはれなる事にはあらねど」(趣があることではないけれど)と、悪く言ったからではないかとも言われている。ただ、激怒するほどの悪口ではないだけに、真相はさだかではない。

「この先ろくなことがない」と不吉な予言

紫式部による清少納言の批判は、まだまだ続く。

「かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは」とし、「人より優れていようと思いたがる人は、必ず失望し、その将来はただ嫌なことばかりになり」と、自信ありげな清少納言の限界を示唆。さらにこう書いている。


清少納言ゆかりの、壷阪寺(写真: かぜのたみ / PIXTA)

「艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし」

意味としては次のようなものになり、清少納言の『枕草子』を意識した批判とも、とれそうだ。

「やたらと風流を気取ってしまう人は、なんということのないことでも、しみじみと感動してみせたりして、興あることを見逃すまいとしてると、自然と軽薄な態度にもなるのでしょう」

それでもまだ気が済まない紫式部は「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」とまで言っている。現代語訳は次のようになる。

「こんな人の行く末にいいことなんてあるだろうか」

こんな紫式部の不吉な予言を受けてのことだろうか。「清少納言が落ちぶれたらしい」という伝説は、彼女の死後にまことしやかに噂されることになる。

鎌倉時代の文芸評論『無名草子(むみょうぞうし)』では、清少納言の晩年について、次のように記している。

「めのとの子なりける者に具してはるかなる田舎にまかりてすみけるに 襖(あを)などいふもの干しに外にいづとて 昔の直衣姿こそ忘れねとひとりごちけるを見侍りければ あやしの衣着てつゞりといふもの帽子にして侍りけるこそ いとあはれなれ」

「めのとの子なりける者」、つまり乳母の子だった者に連れられて、清少納言は田舎に住んでいた。

落ちぶれた清少納言がつぶやいたこととは?

「襖」という庶民の着る着物を外で干しながら、「昔の直衣姿こそ忘れね」、つまり、こんな独り言を言ったのだという。

「昔の直衣姿が忘れられない」

直衣は貴族の着る衣服のことだ。宮中での暮らしを切なく思い出して、そんな独り言を言う清少納言の姿を「見侍りければ」、ある人が目撃したという。

清少納言は粗末な衣を着て、ぼろ切れの継ぎはぎを帽子にしており、「いとあはれなれ」、つまり、気の毒だった……と感想が書かれている。

人の家をのぞいているこの目撃者も、たいがい「いとあはれ」な人物な気もするが、「清少納言が落ちぶれた」ということを言いたいらしい。

鎌倉時代の説話集『古事談(こじだん)』では、「清少納言零落の後(清少納言が落ちぶれた後)」として、さらに強烈な逸話が紹介されている。

なんでも、大勢の若い殿上人が車に同乗し、清少納言の家の前を通ったところ、「宅の体、破壊したる」、つまり、ひどく家が崩壊していたらしい。車内ではこんな会話が交わされた。

「少納言、無下にこそ成りにけれ」

少納言は悲惨なことになってしまった――。

かつては定子のそばであれだけ輝いていたのに……と言いたげである。心配しているふりをしながら、落ちぶれた様をどこか楽しんでいるように見えるのは、私だけだろうか。

しかし、説話集『古事談』には続きがある。

桟敷に立っていた清少納言はそれを聞いて簾をかき上ると、「鬼形(きぎょう)のごとき女法師」、つまり、鬼のような尼僧姿をあらわして「駿馬の骨をば買はずやありし」と言った。現代語訳すれば、次のようになる。

「駿馬の骨を買わぬつもりか!」

この言葉は、中国の『戦国策』にある故事がベースとなっている。

燕の昭王が優れた人材を求めていると聞いて、食客の郭隗(かくかい)が「よい馬がほしいならば、死んだ馬の骨を買うとよい」という話をした。「死んだ馬さえ大金で買う」という評判がたてば「生きた馬なら、もっといい値段で買ってくれそうだ」と、自然と馬が集まってくるはず。なので、郭隗は「まず私のような取り柄もない人間を重用してください」とアピールしたという。

ここから「まず隗(かい)より始めよ」ということわざが生まれることとなる。

惨めな晩年は悪意のある伝承

また、この故事「駿馬の骨」から、清少納言はこんなメッセージを込めていたのである。

「優れた女性は老いても大切にする、そんな心がけでないと偉くなれないわ」

さすがは清少納言という切り返しだ。

惨めな晩年については、いずれも悪意のある伝承で、そのまま鵜呑みにすることはできない。だが、才女としての清少納言がひと際、存在感があったことだけは、ひしひしと感じられるのであった。


【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)