「国際メディアのキャスターになる」という中学生の頃からの夢を叶えた吉田まゆさんだったが、2022年に会社を辞め、1年7カ月の間、育児とPTA活動に専念した(写真:筆者撮影)

病気、育児、介護、学業などによる離職・休職期間は、日本では「履歴書の空白」と呼ばれ、ネガティブに捉えられてきた。しかし、近年そうした期間を「キャリアブレイク」と呼び、肯定的に捉える文化が日本にも広まりつつある。

この連載では、そんな「キャリアブレイク」の経験やその是非についてさまざまな人にインタビュー。その実際のところを描き出していく。

夢だった仕事を手放し、キャリアブレイクをとった人がいる。現在J-WAVEのニュース情報番組『JAM THE PLANET』ナビゲーターを務める吉田まゆさんだ。

吉田さんは慶応義塾大学卒業後、共同通信社に記者として入社。その後、NHK WORLDの経済レポーターとして金融ニュースを担当したのち、日本人女性で初めてロイター通信の英語キャスター特派員となった。

「国際メディアのキャスターになる」という中学生の頃からの夢を叶えた吉田さんだったが、2022年に会社を辞め、1年7カ月の間、育児とPTA活動に専念。「あの経験が、人生のリセットボタンになった」と語る吉田さんの、キャリアブレイクとはーー。

「スーパーウーマン」を目指していた

――吉田さんは2022年にキャリアブレイクをとったそうですね。

吉田:そうですね。あの時キャリアブレイクをとっていなかったら、アクセル全開のままどこまで進んでしまっていたんだろう?と思います。

ーー「アクセル全開」というのは?

吉田:いわゆる「スーパーウーマン」になることが幸せだと思っていたので、かなりハードワークをしていたんです。キッチンで料理をしながら手が空いた時間で映像を編集して、子どもを寝かしつけながらメールを打ち、子どもが寝たらまた仕事して……といった生活で。日本のメディアであればチームで担当する業務量を、1人か2人で回す。キャスター業や取材はもちろん、時にはカメラマン役まで。ニュースは途切れないのでそんな生活が24時間365日。仕事が楽しかったので、つい働きすぎてしまっていました。

ーー国際報道の仕事は、小さい頃から志していたそうですね。

吉田:はい。中学生の頃にテレビで見た、9.11同時多発テロのニュースを報道する海外のレポーターの姿に感化され、国際メディアのキャスターを志すようになりました。

当時から、キャリアを緻密に計画していましたね。例えば、当時はまだ東京オリンピックが決まっていなかったのですが、「いつか東京オリンピックが開催されるはずだから、その取材をする」という目標を掲げて、そこから逆算して「◯歳までに◯◯をする」と決めていました。

ーーなるべくキャリアに不確実性がないようにしていたということでしょうか?

吉田:そうです。私はよく「チャレンジ精神旺盛だね」と言われるのですが、本当はすごく臆病で、失敗することをなるべく避けるために逆算をしていたんだと思います。

例えば、共同通信の正社員を辞めて、テレビの放送に関わる日本企業に転職したのも、目標から逆算してのことでした。国際メディアのキャスターの仕事に応募するには、テレビの経験が絶対に必要になるだろうと。そんなふうに、なるべくキャリアを逆算し、さらに失敗したときの代替案となる「プランB」まで考えていましたね。

キャリアブレイクをとった3つの理由

ーーキャリアブレイクも、目標から逆算していたのでしょうか?

吉田:たしかに逆算していた部分もあります。

私がキャリアブレイクをとった大きな理由は「家族単位の幸せ」を考えた結果です。きっかけは3つありました。

仕事柄、いろいろな女性リーダーにお話を聞く機会があったのですが、取材で多くの方がおっしゃていたのが「子どもが小さいときに、もう少し一緒にいたかった」という後悔でした。幼稚園に上がるタイミングの3、4歳で辞めざるを得ないという人も一定数いました。

私も長男がその年齢に達したときに「子どもといたい」という気持ちが「仕事のやり甲斐」を少しでも上回れば、会社員を辞めてフリーランスに切り替える選択肢をとれる状態にしておこう、それまでにスキルを身につけよう、と考えていました。

そのためには、1年も産休・育休をとっていたら間に合わないと考え、産後2カ月で復職して、仕事メインの生活にしました。そしたら本当に、長男が3歳になるときに辞めるタイミングが来たんです。

もうひとつは、「仕事をやり切った」ということ。中学生の頃に掲げた「東京オリンピックの取材をする」という目標も叶いました。東京オリンピックの閉会式の会場で、「ARIGATO」の文字が電光掲示板にぱっと表示されたのを見た瞬間に、「あ、もうやり切ったから辞めよう」と思ったんです。

そして3つ目は、我が家の場合ですが共働きの限界を感じてしまったこと。私は報道、夫は金融と、お互いにハードな仕事。家族単位での幸せを考えたら、お互いに今の働き方を続けるのはサステナブルじゃない。話し合いの中で、性別役割分業(女性だから家庭に入るなど)の視点はなく、そろそろ「どちらかが家庭、どちらかが仕事」メインという生活にシフトしたほうがいいよね、という話になりました。

そして、偶然の出来事もありました。「辞めよう」と決めたはいいものの、なかなか会社に言い出せずにいたのですが、緊急会議でチームの組織改革が発表されたのです。

さらに、そのミーティングの5分後に 妊娠検査薬で検査をしたら、3人目の妊娠がわかりました。その時は、「神様はなんてシナリオを準備してくれてるんだろう」と思いましたね(笑)。


(写真:筆者撮影)

人生で初めて、焦りがなくなった

ーーキャリアブレイクの期間は、どのように過ごしていたのですか?

吉田:子どものための生活にシフトしました。今までできなかったこと、例えば子どもと工作をしたり、カップケーキを作ったり、ママ友を作ったり。いわゆる“フルタイムママ”ですね。

一番情熱を注いだのはPTAの活動かもしれません。「やってほしい」と声をかけられ、PTA会長をやることになったのですが、すごく忙しくて。「仕事を辞めたのに、なんで深夜にメールチェックをしてるんだろう?」と思いましたね(笑)。

ーーなにか印象に残っているエピソードはありますか?

吉田:キャリアブレイクをとって一番「幸せだな」と感じた瞬間は、子どもの送迎をしていたときです。

それまでは、仕事と家の間の通過点でしかなかったので、「早く!早く!」と子どもを大声で常に急かしていました。キャリアブレイクをとってからは、徒歩3分ぐらいの距離を15分、20分くらいかけて歩く余裕がある。すると、子どもと話しながらゆっくり歩いているときに、「この選択をしてよかったな」という気持ちが湧いてきたんです。

そういった、仕事をがむしゃらにしていたときには味わえなかったちょっとした日常が、すごく楽しくて。 「スーパーウーマンにならなくても、人生楽しいじゃないか!」と気付くことができました。

ーー一方で、その間にも周りの人はキャリアを重ねていくことに、焦りは感じなかったでしょうか?

吉田:ないですね。特に若い頃は、自分と他人を比較することもありましたが、キャリアブレイクをとってみたら人生で初めて焦りがなくなりました。今では「隣の芝生をみるのではなく、自分の芝だけを青くすればいい」と思うことができています。

それは、それまでに仕事をがむしゃらにやり切ったからこそ、「自分が手を挙げれば、 仕事はいただけるはずだ」という自信が持てていることも影響しているのかもしれません。

ーーでは、キャリアブレイク中にリスキリングは……

吉田:なにもしていないです! 強いていうなら、料理の腕を磨いたぐらいでしょうか(笑)。一つ言えるのは、さまざまなバックグラウンドを持つ人をマネジメントするPTAでの経験もビジネスに繋がりましたし、「スキルが足りない」と焦る前に、まずは目の前の仕事を一生懸命こなす。それが後々立派なスキルや知識の習得に繋がると思います。

キャリアブレイクは「一番選択してよかった不確実な選択肢」

ーーキャリアブレイクは、吉田さんにとってどんな期間でしたか?

吉田:「一番選択してよかった不確実な選択肢」かな。人生のリセットボタンになった気がします。

それまでの価値観をリセットして、自分はどういう働き方をしたいのか考え、「スーパーウーマンじゃなくても、人生は楽しい!」と気付くことができた。新しいお仕事のチャンスも舞い込みましたし、一番最適な答えにたどり着いた、という感じがします。

ーーそれまでは、「スーパーウーマンにならなければ」と思っていたのですよね。

吉田:はい。そう思っていましたし、報道の仕事と育児を両立して、若い女性のロールモデルになりたいという気持ちもありました。

でも、かつての私の働き方を次世代に勧めたいかと聞かれたら、答えはNO。キャリアブレイクという選択をして、いかに自分が無茶をしていたかに気が付くことができました。

ーーでは、「女性のロールモデルにならなくてもいい」と思えるようになったと。

吉田:いや、「仕事を自分のタイミングで辞める」っていう選択も、もしかしたらロールモデルなのかもしれません。

私たち世代の女性は、「仕事と家庭の両立を」と言われ続けてきましたし、私もそれがいいことだと思ってきました。でも、キャリアブレイクを経て少し価値観が変わったんです。

今でも、世の中では「仕事と家庭の両立をすることが、女性の幸せ」という声が強いから、「両立しなきゃ」と焦っている人もすごく多いと感じています。でも、焦る必要はない。仕事と家庭を両立してもいいし、主婦(夫)になってもいいし、仕事だけに集中していてもいい。これからの時代は、男女かかわらず「自分で選択する」ことが大事なのだと思います。

専業主婦として家庭に人生を捧げてくれた母親世代。男性並みに働き女性の地位を底上げしてくれた先輩ワーキングウーマンたち。彼女たちの犠牲や貢献があったからこそ、私たちは男女ともに「自分らしい選択」を自分で決断できる時代にしていかないといけないと思います。

「仕事を辞める」ということも含め、自分で選択していいのだと伝えていきたいし、誰でも望んだ選択ができるような社会を作っていきたいと考えています。

キャリアブレイクは家族の転機でもある

ーーキャリアブレイクという選択について、「自分はとりたいけど、家族の理解が得られない」という方もいます。

吉田:たしかに私の場合も、周囲の理解や、家族のサポートがあったからこそキャリアブレイクをとることができました。特に夫とは、長男が生まれたときから3年くらい話し合いをしていましたね。

ただ、最初は「子どもが幼稚園に入るタイミングで、仕事を辞めたくなるかもしれない」という話をしたら、夫は「好きな仕事なんだから頑張りなよ」と、あまりピンときていないようでした。でも、長男が3歳になる頃が転機でしたね。夫は仕事に、私は家庭に時間を割きたくなりました。パートナーと時間をかけて話し合ったのはすごくよかったですね。お互いに少しずつ、生活を変える覚悟をすることができました。

ーーキャリアブレイクを、個人だけではなく家族の転機としてとらえ、パートナーと一緒に考えてきたのですね。

吉田:そうですね。話し合いの結果、浪費家の私の収入が途絶えることも心配だし(笑)、私も人生で初めてキャリアの目標がなくなる心配があったので、「とりあえず1年間」と期間を区切りました。ひとまず夫が一家の大黒柱をやり、1年経ったらまたお互いのキャリアのことを考えよう、ということになりました。

ーーその後、キャリアブレイク期間はどのように終えたのでしょうか。

吉田:キャリブレイク中の生活に満足していたのですが、そろそろ働き始めたいな、というタイミングで、「J-WAVEのパーソナリティーをやりませんか?」と声をかけていただいたんです。これまでの経験が活かせるお仕事だなと思ったので、やらせていただくことにしました。結局、キャリアブレイクは1年7カ月くらい。その時声がかからなかったら、もっと続けていたと思います。

ーー今はどんな生活を?

吉田:すごくバランスがいい生活ができてます。さらにキャリアブレイクをとったことで、プロフェッショナルとしての視野が広がりました。それまで築き上げた記者としてのものの見方に加えて、主婦時代に気づいた視点が加わりました。それは「ニュースは自分ごとでないと興味を持てない」ということ。リスナーの皆様がなるべく「自分ごと」として社会情勢に興味を持てるようにニュースの解説をしています。

ーーもともと計画から逆算していくというキャリアの歩み方をしてきた吉田さんですが、キャリアブレイクにしても現在の働き方にしても、予想外のことがたくさんあったのですね。

吉田:以前は常に計画から逆算してきていましたが、コロナを経て、「未来はなにが起きるかわからない」と痛感しました。今では、「思った通りにならなくても、一生懸命頑張っていれば、何か楽しいご褒美があるだろう」と思えるようになりましたね。

取材を終えて

「計画された偶発性理論」という考え方がある。ジョン・D・クランボルツ教授が提唱したキャリア理論で、「個人のキャリアの8割は偶然の積み重ねによって作られており、個人は能動的に行動をすることでその偶然を引き起こしやすくなる」というものだ。

吉田さんのキャリアブレイクは、綿密に計画されたキャリアから、計画はしつつも偶然も取り入れるキャリアへとシフトする機会だったのかもしれない。キャリアブレイクは、自分が想像していなかったよりよい人生と出会う機会にもなりうるのだ。


山中散歩さんによるキャリアブレイク連載、過去記事はこちらから

病気、育児、介護、学業など、さまざまな理由で、働くことができない時期があった方を募集しています。取材にご協力いただけます方、ご応募はこちらよりお願いいたします。

(山中 散歩 : 生き方編集者)