学生たちを見ていると「社会を生き抜くためには、こういう条件を満たさないといけない」という強迫観念に囚われている人たちが多いようです(写真:Fast&Slow/PIXTA)

若者と接する場面では、「なぜそんな行動をとるのか」「なぜそんな受け取り方をするのか」など理解しがたいことが多々起きる。

企業組織を研究する経営学者の舟津昌平氏は、新刊『Z世代化する社会』の中で、それは単に若者が悪いとかおかしいという問題ではなく、もっと違う原因――例えば入社までを過ごす学校や大学の在り方、就活や会社をはじめビジネスの在り方、そして社会の在り方が影響した結果であると主張する。

本記事では、前回、前々回に続いて、著者の舟津昌平氏と文芸評論家の三宅香帆氏が、Z世代を通して見えてくる社会の構造について論じ合う。

「生き残る条件」という強迫観念


舟津:学生たちを見ていると、「社会を生き抜くためには、こういう条件を満たさないといけない」という強迫観念に囚われている人たちが多いようには思います。

この原因は大きく2つあると思っていて、1つ目は拙著でも触れたように、反実仮想ができないから。つまり、「もし○○の条件を満たしたら/満たさなかったら」の両方のルートを現実で経験することができないからです。

例えば就活では、約9割の人がなんらかのインターンをしていると言われています。なぜなら、インターンに参加しないと受からないと思っているから。でもこれって、典型的な誤った推論なんですよ。内定を取った人はインターンに行っているから、自分も行かないと内定がもらえない、っていう。「すべての犯罪者はパンを食べていた」という類の話と同じです。

もちろん、自分だけ損するのは嫌だから、条件を捨てる勇気が出ないというのはわかります。でも、条件ってどんどん増えていくんです。内定を取った学生はみんなインターンに参加していて、バイトしていて、留学に行っていて、授業は真面目に出ていた、というように、学生を苦しめる「条件の誤認」が重なっていく。みんなそれらをやってるから自分もやらないと、っていう条件は経時的に増え続けるわけです。

舟津:2つ目の原因としてSNSの影響も大きいと思っていて、そういう条件がはっきり可視化されるツールになっている。「この人はあれもこれもどれもやってるから、成功者なんだ」と、自分にもそれらが全部揃ってないとそうなれないような錯覚を起こしてしまう。

三宅:SNSって、努力を見せるツールとして使っている人も多いですからね。就活だと、オープンチャットで、「ESでこういうことを書きました」とか「面接ではこう答えました」とか情報をかなりシェアし合っている。そういうものを見ていると、「あれをしなきゃ、これもしなきゃ」と余計に思ってしまうのはよくわかります。

本当に必要な条件はごく限定的

舟津:ただ、その中には要らない条件も入っているはずなんですよ。でも誰も、そのことを確かめられない。自分の身をもって確かめるような人がいたら逆にすごいと思いますけど、普通はそんなことしないですよね。そういう意味で、あれもこれもできないといけないんだという強迫観念が強まって、降りることができないチキンレースになってしまっています。


舟津 昌平(ふなつ しょうへい)/経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師。1989年奈良県生まれ。2012年京都大学法学部卒業、14年京都大学大学院経営管理教育部修了、19年京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了、博士(経済学)。23年10月より現職。著書に『制度複雑性のマネジメント』(白桃書房、2023年度日本ベンチャー学会清成忠男賞書籍部門受賞)、『組織変革論』(中央経済社)などがある。

三宅:前回お話しした、「受験に合格するために、部活を、SNSをやめます」というお話と通ずるところがありますよね。つまり、目的を達成するための条件が増えすぎているから、結果的に他のことに手が回らなくなっている。目的達成には不要な「ノイズ」として切り捨てられてしまっているのかなと思います。

舟津:本当にそう思います。でも、世の中ちゃんと見れば、当たり前ですけど完璧な人ばかりじゃない。何でもやらないと幸せになれないとか、生き残れないというわけではない。

学生には胸を張って言いたいです。大学の先生を見てみなさいと。変な人やダメな人ばかりじゃないですか(笑)。でも、そういう人たちばっかりでも、その人たちも自分なりに頑張っていて、そうやって世の中は回っているんだから、余裕を持って生きるべきだと思うんです。

その中で、「この人はこれが良いから生き残っているんだな」と感じられるものはある。それはごく限定的な性質のはずです。全部が完璧だから生き残っているわけではなくて、欠落している部分があっても、大事なものがちょっとだけあるから生き残れている。自分にとってそれが何なのかを見極める。


三宅 香帆(みやけ かほ)/文芸評論家 1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了。天狼院書店(京都天狼院)元店長。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書)、『人生を狂わす名著50』(ライツ社刊)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)『それを読むたび思い出す』(青土社)など著書多数)。

三宅:今のお話を聞いて思ったのが、時に「ノイズ」はものすごい「人間的な魅力」に変わることがある、ということです。一般的には、例えば仕事をたくさんして、お金を持っている人が魅力的だと言われがちです。だけど、実はそうでもなくて、いろんな話ができたり、いろんな経験をしている人、あるいは何か変なことができる余裕のある人のほうが、他人にとっては魅力的に映ることがあったりします。

個人に限らず、例えば読み物や商品とかにも、ちょっとしたノイズなるものに惹きつけられることって、けっこうあるんじゃないか。そう私は思っていて。合理的で純度の高いものは早くて便利ではありますが、一方で、雑味の多いものが人を惹きつけることも、世の中には多いはずなんです。そういう意味で、一般的に必要だと言われているような条件以外の「ノイズ」と考えられているものが、意外と人々の生存戦略の一つになるのでは?と思ったりしますね。

ビジネス化した社会では「自分らしさ」は不要

舟津:なるほど。それは論文と本の違いを考えるとすごくよくわかりますね。

現代の論文って、無駄なことは書かずに、必要なことだけ論理でつなぐものが論文である、とされています。それは正しいんですよ。ところがそうすると、例えば執筆動機は基本的に書かないことになる。でも、すごく面白い論文があったとして、「この人、なんでこんなこと知ろうとしたの?」って気になったりしませんか?

三宅:気になりますね。

舟津:でも、論文だと無駄とされることを、本では書けるんですよ。本は執筆動機や背景を書くことも多いですから。そういう意味で、本はノイズや雑味が入っている媒体だからこそ、魅力的に映るところはあるのかなと思いますね。

私の本を読んだ知り合いには「自分が出すぎだろ」と言われることもあります(笑)。でも、私はむしろわざとやっているというか、その点が逆に本のいいところだと思っていますね。

本はいろんな解釈ができて、読み返すたびに感想が違ったりすることがあるのも、本自体がノイズを含んでいるからだとも考えられます。無駄を排除した、洗練された効率性もすぐれていますけど、それを補完するものとしてノイズの概念もやはり必要なのだと思います。

三宅:今の話を聞いてすごい面白いなと思ったのが、自分らしさが、論文だと悪い意味でのノイズに、本だといい意味でのノイズになることです。

しかし現代のビジネス論理が支配した社会では、「自分らしさ」が「ノイズ」とされてしまう。学生さんたちの「社会が求める条件を追い求めて、自分の欲望を持てない」といった話もそこに関係しているのかなと。つまり、ビジネスの論理では、自分が替えが利かない存在であることが重視されず、替えが利くことが良しとされる。その結果、自分自身であることの意味が排除されてしまう。

でも、それってかなりディストピア的ですよね。それに論文では自分らしさが排除されてしまうのは、少しもったいないと思っちゃいますね。

自己分析では「自分の考える自分」がノイズになる

舟津:ええ、本当に。論文が筆者自身を排除して、客観的に書かれるべきだというのはわかりますが、自分が心血を注いだ創作物に対して「あなたを出すな」と言われるのも不思議な話ですよね。

おそらく、就活でも似たことが起きていると思います。例えば自己分析とは、他人から見た自分を表現すること。つまり自分がどう思うかは関係なく、他人との評価の中で自分を相対化してくださいということ。これって実は、「あなた自身の主観はどっちでもいいよ」と言われているのと同じです。

だから、準備されたような言い方をしないといけない。「私はリーダーシップがありますが、それは独りよがりなのではなくて、みんなの意見を聞けるリーダーです」と。

三宅:でも、それが一番求められているっていうことですよね。みんなの意見が聞けるリーダーか。本当にそうならすごいことです。

舟津:でも、実際はほとんどの社会人にはリーダーシップもないし、他人の意見も聞けません(笑)。そんなリーダーは大人の社会でもそうそういません。それでも社会は回っている。

三宅:それが求められているから、そこに合わせるだけで、自分が実際どうかは関係ないということですよね。自分自身をないがしろにしすぎて、少し切なくなってしまいます。

舟津:割り切って「そんなもんだ」と思ってやれればいいんですけどね。社会の中でつまらないことってたくさんありますし、就活もつまらない側面もあるけど、やらなきゃならないからやるぐらいの半身の気持ちでいいと思います。

三宅:自分らしくない、それっぽいロールプレーみたいなことに全乗っかりしすぎると、いびつになってしまいますからね。

例えば私がよくやる文章講座では、「ありきたりな言葉を使ったら、それに修正をかけるようにしましょう」と言うんです。本の感想を書くとき、「泣ける」とか「考えさせられた」みたいなありきたりだけどつい使っちゃう言葉をNGワードにして、じゃあ他に何を使うか考えよう、と。

就活や仕事でもきっと同じで、それっぽい言葉や振る舞いばかりでは、自分らしさを消すことになり、しんどいだけです。その点に社会は気づいてほしいと思いますね。

ノイズを楽しむことはどんな生き方とも両立できる

舟津:そうですね。ただ、読者の方に誤解のないように念のため言っておくと、私は別に「就活をするな」って言いたいわけではないんです。その努力を否定はしないし、できない。伝えたいのは、就活にコミットする必要はあるなかで、ノイズの魅力を見つける意識を持っていてほしいということです。


もし就活に全ベットしたとしても、その中でノイズの魅力を見つけることは両立可能だと思っています。例えば、自己分析をするなかで、仕事に関係なく本当に興味のあることや好きなことが見つかったり、創業者の記事や書籍を読むなかで、完璧でない側面を知ったりすることはあるのかなと。どんな生き方や選択をしても、その中でノイズの魅力を見つけることができる。それは、別の生き方を否定しなくても成立する努力だと思います。

本の読み方も同じで、役立つところだけ3行でまとめてもつまらないですよね。ノイズを楽しむ、ノイズの魅力を見つけていくというのは、少し注意の向け方を変えるだけでできることですし、学生でもやりやすいことだと思います。

三宅:ノイズの魅力を見つける能力って、続けていけばどんどん上がる気がします。それが余裕とか、全身全霊になりすぎないとか、真面目になりすぎないことにつながるんじゃないですかね。ノイズが魅力であることをもっと発信していきたいです。

舟津:そのとおりですね。

(三宅 香帆 : 文芸評論家)
(舟津 昌平 : 経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師)