終活の「適齢期」は自分の基準で決めればいい
増え続ける「〇〇活」は、略語ではなく、ただの造語だという(写真:tokomaru7/PIXTA)
終活に婚活、妊活、捨て活、推し活……。昨今、やたらと増え続ける「〇〇活」。そんな「〇〇活」はもはや略語ではなく、単なる「造語」だと指摘するエッセイストの中山庸子氏。特に「終活」という言葉には、言葉自体に矛盾を感じるといいます。
70歳を越えてなお、まだ「終活」はしないと中山氏が言い切る理由とは?
※本稿は中山氏の著書『やめると人生ラクになる 70歳を越えたらやめたい100のこと』から、一部を抜粋・編集してお届けします。
「こんな世の中だから」とただ嘆いてもしかたない
テレビのニュース見すぎの知り合いの口癖がこれ、「こんな世の中だから……」です。
こんな世の中って、どんな世の中なんだ?
地球規模で考えても、国内規模で考えても、確かにやり切れないような出来事はたくさんあります。
だからといって、今の自分の不安や不満とそれらがすべて直結しているわけじゃないから、「こんな世の中」とざっくりネガティブに評するくらいなら、「足元のごみを拾え」というのが、私なりの考えです。
足元、つまり自分の生活圏内を見てみる。最近の値上げ対策を考えると、「見切り品」を買うことで食品ロスの減少につながるかもしれないし、水道光熱費の高騰対策として節電や水の浪費を抑える暮らしぶりは、ほんのちょっとだけど地球に優しくなっている?
ボランティアや色々な形の支援の方法も見つけられるのが、この情報過多時代のいい面でもあるから「こんな世の中」と言っているヒマがあったら「シニア ボランティア 地域名」などで検索をかけてみてもいい。
時代小説が好きな私なんですが、当時の暮らしをそのまま今に持ってきて「1週間やってみて」と言われたら、絶対に音を上げると思います。
「こんな世の中」と言いつつ、すぐに宅配は届き、シニアがひとり歩きできるレベルの清潔さや治安が保たれている環境にいられることを「そんなの当たり前」と感じるとしたら、ちょっと自分勝手かもしれないと思うわけです。
こんな世の中だから……嘆いたり、怒ったりするだけでなく、動いたり楽しんだりしましょう。こんな世の中だから……こそ、ごまかさず自分のものさしで暮らしたいです。
「誰かの受け売り」じゃなく、自分の経験を尊重して
これは「こんな世の中だから……」と嘆く人が多いのと関係があるかもしれませんが、コメンテーターや評論家の受け売りなのか、そんなに評論しなくてもよくない? と普通に雑談をしながら感じること多しのこの頃です。
もともと、雑談があまり好きじゃないのもあるけれど、時間の無駄遣いと思うんですよねー、評論家っぽいというか誰かの受け売り。
何がイヤか、というと「誰々が言ってたけど」がつくので、自分の意見じゃないから最終的には責任取らなくていい感があふれ出ている。
その誰々に権威があろうが、見識があろうが「あなた自身はそれに対してどう思うの?」の方なら、ちょっとは聞いてもいいかな。
ほんと、すべてにおいて単なる受け売りはやめたい。せっかく70年以上生きてきたのだから、自分の経験や体感をもっと尊重してあげてはどうですか? と言いつつ、ご意見番みたいなのもなりたくないなぁ。
憧れるのは、飄々とした少し仙人テイストが入ったご老人の佇い。ごまかしたり見栄はったりとは対極にいる、自然体の自分になれるなら、これからの歳月も無駄じゃない気がします。
おいしいものも、おしゃれやおしゃべりも、誰かの真似や受け売りじゃなく、自分でじかに感じて感激して、まずは自分の中の「栄養」や「エネルギー」にする。
「おススメのおいしいモノあります?」と聞かれたとしたら、自分の中の抽斗から、いくつかおいしいモノの名前やエピソードが出せたら、とってもうれしいです。
そして聞いた相手が、実際にそれを食べるかどうかの問題は、その人の人生の問題だから、気にすることなく抽斗をそっとしめる……。こんなシニア、只者じゃなくカッコイイなぁ。
シニアにとって「失敗は、むしろ伸び代」
昨日までできなかったことができる幼児と、昨日までできたことができなくなる高齢者、どちらも通るのが人生なんでしょうね。90代を経験した父母も、やはりつい最近までできたことを失敗するようになると、娘の私には隠すことが多かったです。
仕方ないことだと思うし、介護のプロの前では(ほぼ)正直にできないことを認めていたから、その辺のデリケートな気持ちは分かります。
親は、こういうことも、子に教えていくのかな……。時が経った今は、そんなふうに考えられるようになりました。
70代の今は、まだ90代とは失敗のレベルが違うから、たとえ何か失敗したとしても隠したりせず暮らせていますが、その年になってみないと本当のところは分かりません。ただ、私個人はこれからも失敗を隠すのはやめたいです。
それは「失敗が悪いこと」とは思っていないから。できないことや失敗には、理由があるわけで、隠されたり隠したりすると、解決方法が見つかりません。「失敗があるから、工夫できる」、そう考えたいです。
体裁や見栄より、少しでも暮らしやすく自分なりの快適を求めるなら、失敗は隠さずに家族やプロと相談しつつ、方法を見つけたいと思います。
きれいごとに聞こえるかもしれないけれど、ここでごまかさないで周りの人たちも自分も信用できるシニアでありたいです。
そして、もしかして、一度できなくなったことがまたできるようになったとしたら、とてもうれしく誇らしく思えるのではないでしょうか。
「少数精鋭」の友人がいれば寂しくない
友人の数にこだわるのもやめました。
私の場合は、同級生、かつての職場の友、趣味友などがいますが、現在は実際に連絡を取り合って会う友人はごく少数です。
昔は、同じ絵の研究所出身である夫との共通の友も含めて、賑やかに過ごす時間も多かった。誰もが若かったし、みんな今より寂しがりだったような気がします。
年を取ると、あまりに賑やかなのは疲れる代わりに、ひとりでいてもそれなりにすることがあって、誰かと会わないと寂しい……という気持ちも減ったかな。
まあ、老夫婦なりの会話はあって、共通の友達もけっこういたから、
夫「ほら、あの、あいつ名前はなんだっけ。いつも映画の話、してさ」
私「えーっと、苗字に田がつかなかった?」
夫「田は多いよな……吉田? あっ吉野?」
私「田じゃないじゃん、で何の話だっけ?」
みたいな「?」だらけの会話をしょっちゅうやっています。
60代後半からは、友人の訃報もチラホラ。70からの歳月は、もっとそういう機会は増えるでしょうが、そんな寂しい体験も含めて友人の数にこだわるのはやめたいです。
会わなくても、会えなくなっても懐かしい友人たちは、かけがえのないもの。今は苗字がすぐ思い出せなくても、かつて楽しかったことがなくなるわけじゃないし、大切な友であることに変わりない。
まずは自分のこれまでの多くの友たちとも過ごしてきた歳月を否定しないで、今の自分と仲良くしていきたいです。
それと、最近になって〇〇活というのを、本当によく目にするようになりましたよね。
初期の就職活動を縮めた「就活」あたりは、いわゆる略語として「就活はじめた?」みたいな感じで学生間で普通に使われていた感じ。
それがだんだん増えていき、婚活、妊活、捨て活、推し活などは明らかに略語というより造語。そして終活という言葉も作られ、シニア系の雑誌や特集ではひんぱんに目にするようになり、もう何年か経ちます。
鬱っぽくなりそうだから「終活」はしない
私の感覚では「終と活は合わない!」から、やりたくない。
終わりに向かって活動していくなんて難しい、哲学的なことは私には無理です。私の場合は終活しすぎたら鬱っぽくなりそうだから、やめる。
身辺整理しておかないと遺される人に迷惑が? 生きている今、老親に鬱々とされる方がよっぽど迷惑じゃない?
私も実家じまい問題というか、これも造語の「負動産」に悩まされはしたけれど、片付けながら小さい頃のことを思い出したり「これは今の家に持って行きたい」という懐かしのお宝を見つけてうれしかったりで、しんどいだけではなかった。
何もかも予定通りにはいかないから「人生は面白い」。
終活も、自分がその気になって「ああ、これを済ませて清々しい」という境地になれるようだったら、そうすればいいんです。
70歳を過ぎたら、自分基準で「やめときます」でいいのです。
(中山 庸子 : エッセイスト、イラストレーター)