なぜ先生は学生を「怒れなく」なっているのか
いま教員が非常に難しい立場に立たされることがあるのは確かだ(写真:mits/PIXTA)
若者と接する場面では、「なぜそんな行動をとるのか」「なぜそんな受け取り方をするのか」など理解しがたいことが多々起きる。
企業組織を研究する経営学者の舟津昌平氏は、新刊『Z世代化する社会』の中で、それは単に若者が悪いとかおかしいという問題ではなく、もっと違う原因――例えば入社までを過ごす学校や大学の在り方、就活や会社をはじめビジネスの在り方、そして社会の在り方が影響した結果であると主張する。
本記事では、著者の舟津昌平氏と教育者である鳥羽和久氏が、Z世代を通して見えてくる社会の構造について論じ合う。
大学生と高校生までとの決定的違い
鳥羽:私は学習塾や単位制高校を運営していて、小6から高3までの生徒たちの授業を担当しています。子どもとかかわるうえでは、非常にありきたりな言い方ですが、最後の一人まで諦めずに向き合いたいという信条で仕事をしています。ただ、舟津さんの『Z世代化する社会』を読んで、そこで描かれる若者像は大学生が中心ですから、これはどうも小中高の生徒とはかなり勝手が違うらしいと感じました。
その一つが大学における匿名性の高さです。大学では高校までと比べて学生たちが「先生に見られている」という意識をあまり持たずに過ごすことができます。その結果、高校までの管理の反動と言えるのかもしれませんが、匿名性を悪用する学生が出てくる。舟津さんの本でも、授業中の私語を注意された学生が、授業後のリアクションペーパーで教員に粘着する例なんかがでてきますが。
私も元教え子の大学生たちと話す機会はありますが、彼らが大学の先生とどんなやりとりをしているかを聞く機会はほぼありません。まずそんな話題にはならない。だから舟津さんの本の内容はすごく興味深かったですし、大学という現場ならではの苦労を読み取れた感じがしました。
舟津:ありがとうございます。まさに、匿名性は明確な違いですね。高校まではクラスがあって、ある程度一人ひとりに目が行き届きます。何か悪いことをすれば、「あっ、誰々だな」というのがおおよそわかる。ただ、大学はたくさんの学生がいることで集団に紛れやすく、その結果、個々の攻撃性も高まるということが起きやすいように思います。
鳥羽:知人の大学教員はゼミ生との関係性に悩んでいました。例えば男子学生たちが複数で男性教員に対して反発し、なにかとマウントを取ろうとするようなことがたびたび起こるようなのですが、極めて動物的な反応だなと思うんです。
舟津:自由な環境であるからこそ、そうした動物性が表面化してしまうのかもしれません。ただ私は、拙著のスタンスとしても一貫している通り、それは今の若者に限った話ではないと思うんです。我々が大学生のときにも近いことは行われていた。かつての学生運動だって、ある種の動物性の解放だと考えることもできます。
鳥羽:そうだと思います。
変わったのは学生ではなく大人
舟津 昌平(ふなつ しょうへい)/経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師。1989年奈良県生まれ。2012年京都大学法学部卒業、14年京都大学大学院経営管理教育部修了、19年京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了、博士(経済学)。23年10月より現職。著書に『制度複雑性のマネジメント』(白桃書房、2023年度日本ベンチャー学会清成忠男賞書籍部門受賞)、『組織変革論』(中央経済社)などがある。
舟津:ただ、我々の学生時代と変わったのは、周囲の受け取り方だと思います。乱暴な時代だと、怒鳴るとか殴るとか、動物性には動物性ではっきり「ダメだ」と対処するという手段が残されていた。それも一種のコミュニケーションだったわけです。
昨今の変化として、怒鳴るとか殴るはやめよう、まではよいと思います。ところが現代では、教員が動物性を出すことが人としておかしい、絶対に許されない、というプレッシャーがより強くなっている。対して子どもや若者には、清く育てば動物性を持たないんだ、みたいな妄想が強まっている気がしていて。結果的に、大人の動物性は徹底的に抑制され、若者の動物性は看過される。
鳥羽:とんでもない妄想です。ご著書では大学生が「PTAに言いつけてやる」と言ってきたとかいう呆れた話も紹介されていましたが、学生側は動物性を発揮し続けているのに、先生側はそれを封じ込められてしまうという不均衡が、教育現場としての学校を弱体化させている側面があります。
舟津:まさに。特異な例外ではあるものの、動物的に教員を罵倒する学生に対して、教員が応酬する動画がSNSで拡散されるといったことが実際に起きています。「さすがに学生がおかしいでしょ」という意見もありますけど、やっぱり教員や大学を責めたり揶揄する意見も多くて、それで責任を取らされるとなると、正直やってられない。
鳥羽:いろんな状況がありえますから一概には言えませんが、いま教員が非常に難しい立場に立たされることがあるのは確かだと思います。
舟津:それに関連して伺いたかったことがあって。鳥羽さんの著書や発信を拝見すると、基本的には子どもや若者にかなり肩入れしているように感じます。先ほどおっしゃったように、一人ひとりに向き合うことを惜しんではいけないというお考えに基づくのかなと。
ただ、味方であると同時にちゃんと叱るし、言うことは言うんだな、とも感じられたんです。でも、今はそうした「味方だからこそ、はっきり言う」ということが、両立できると考えられていない気がしていて。
怒られ慣れていない若者たちの実態
鳥羽 和久(とば かずひさ)/教育者、作家。1976年福岡生まれ。専門は日本文学・精神分析。大学院在学中に学習塾を開業。寺子屋ネット福岡代表取締役、唐人町寺子屋塾長、及び単位制高校「航空高校唐人町」校長として、小中高生150名余の学習指導に携わる。著書に『親子の手帖 増補版』(鳥影社)、『おやときどきこども』(ナナロク社)、『君は君の人生の主役になれ』(筑摩書房)など。
鳥羽:その点については、私は生徒との関係性の構築のために長い時間をかけているからできるところがあります。いま教えている高3の生徒たちの半分が小6の頃からの教え子ですからね。まだ関係性が構築されていないタイミングで厳しいことを言うとやっぱりびっくりされる。例えば、ある子の発言に対して「それは差別だよ」と言うと、反省するというよりただ唖然としていたんです。本にも書かれていましたが、子どもたちが大人から怒られ慣れていないことを、私も彼らの反応から感じることがありました。
一方で、生徒たちは反発している子も含めて、本音としてはむしろ大人に導かれたいって気持ちが同時にあって。私はそれを見逃したらダメだと思っているのですが、舟津さんはそのことも本の中で触れられていて、まさに現場で教えられている方だなと感じました。ただ、いまはこっちだよ、と導いてほしい若者もいるなかで、手を緩めることしかできない指導者が増えている現実があります。手を緩めるほうが、ちゃんと向き合うより無難なんですよね。
舟津:たしかにそうですね。鳥羽さんの塾のように、小学校から高校まで時間をかけて見るという教育スタイルはよくできていると思います。
ただ、はっきり言うタイミングが早いとびっくりされる、というのがやはりイマドキだと感じます。子どもたちは「差別はいけない」ってことを、お題目としては早期から教え込まれています。同時に、とても大切なことですが、実際には誰しも無意識に差別をしてしまうものです。差別の対象も幅広いから、外国人には偏見はないけど障害者の方には偏見をもっているとか、当然ありうる。
差別心というのは必然的にこぼれるものです。そして自分から思わずこぼれたものを「あ、今のはダメだな」と反省しながら学んでいく。その過程で「それは差別だよ」と教えるのは必要な教育なんですけど、「差別はいけない」というフレーズだけを叩きこまれているがゆえに、差別をしてしまったというギャップに耐えられないのが今の子どもたちなのではないかと。
鳥羽:ああ、なるほど。今の話は、「唯言【ゆいげん】(中身のない唯【ただ】の言葉)」という言葉をご著書で使われた際の問題意識を考えるとわかりやすいですね。お題目としてわかってはいるつもりだけど、実体験として理解はしてないから、「それは悪いことだよ」「差別だよ」って言われたらすごくびっくりしてしまう。そこに抵触したってことにおののいてしまったがゆえの、子どもたちの反応なのですね。
中身のない言葉だけが独り歩きしている
舟津:拙著にうまくつなげていただいて、ありがとうございます(笑)。実は今、自分でも無自覚に喋っていたのですが、まさに「唯言」なんですよね。「差別」ないし「差別はいけない」という言葉だけが独り歩きして威力を増している。キャンセルカルチャーが力を持っている現代では、「差別をした人間は世の中から消そう」ってなっているから、「差別するってとんでもないことなんだ」と小学生ですら刷り込まれている。
だけど、人間ってもともと差別心の塊のはずなんですよ。未熟な子どもたちは、自分たちと違うものをすごくナチュラルに、安易に攻撃してしまう。だからこそ、大人が「それはダメだよ」と言って修正していくべきなのに、そのプロセスが成立しなくなっている。
鳥羽:そうですね。さらに言えば、人は息をするように差別するけれども、他者との摩擦を通して「差別はいけない」ということを体感として知ることもあると思うのです。いまは、唯言的に記憶された言葉だけにはやたら反応してしまう感じもあって、反射的に「キャンセルすればいい」となっている。それが他者と出会う機会を遠ざけています。
舟津:本当にそうですね。言葉だけは知っているから、自分たちの動物性を無視して、「これは差別だ」と言葉さえ規定すれば、途端に排除すべきだってなる。強い言葉でしか判別ができなくなっている。
鳥羽:ハラスメントなんかまさにそうですよね。学生たちの動物的な反応に対して、先生側が動物性で対応できなくなったのは、パワハラ認定されてしまう風潮が高まっているからとも思います。いまや中学生たちも「それ、何ハラ?」と言って楽しんでいる感じもあって、ハラスメント自体がミームになっている。ハラスメントという言葉が叫ばれ始めたころの切実さを、いまの若い人たちは引き継いでいません。
鳥羽:とにかくヒエラルキーがあるところで上の立場の人が力を発揮するとハラスメントになる、っていうのは、いまや小学生でも知っている「常識」なので、指導者や先生と言われる立場の人たちは動きにくい世の中ですね。
「脱権力」を叫ぶ人が最も権力を行使しようとする
舟津:ヒエラルキーがある状況での権力の行使が、なんでもパワハラに回収されてしまう問題がある、というのはよくわかります。そういう意味では、主語は大きいですが、現代社会は基本的には脱権力を目指しているように感じます。もちろん、実際には権力を持つ人はたくさんいるわけですが、全体として、表向きには、権力をできるだけ排除しようという方向だと思うんですよね。
例えば、私の記事や本で「べき」という言葉を用いるだけで否定的に捉えられてしまう、という経験がありました。「若者はこうあるべき」と言った瞬間に、それが押しつけと見なされ、間違った教育だと批判されるのです。これが頻繁に見られる現状では、「べき論」を語るのが不可能になっていきます。
拙著の基本スタンスは、ピュアな若者たちが大人の行動を真似しているのだ、というものです。脱権力についても同様で、大人が「べきとか言ってる偉そうな人は嫌いだ」とか「権力を振りかざす人は嫌だ」というロジックで他人を非難する姿勢を、若者は模倣していると思います。本当に偉い人が、偉いから偉そうに振る舞っていたら、それを「偉そうだ」「権力を振りかざしている」と非難し、不快だからやめろと騒ぐ構図がある。まさにパワーハラスメントになるわけですよね。
そうなると、たしかに大学の先生って権力の塊であって、何百人もの学生を前にして一段高いところから講義をするわけですから、講義自体が権力の行使と見なされることがあります。でも別に、日常的に権力を振りかざしてハラスメントをしているわけではないんです。当たり前ですけど。
つまり、権力を行使して利己的な振る舞いをする以前に、権力をもつこと自体が糾弾される状況になっている。「べきだ」って言った時点で権力性を感じさせるからダメだ、となってしまう。そして「大学の先生は偉そうだからダメだ」という空気が強まり、動物性を発揮して子どもを抑えることも許されない。八方ふさがりです。
最も欺瞞があるのは、そうやって脱権力を叫んで権力を叩く側の人が「べき論」を駆使していることなのですが。大学の先生が「べき」って言っただけで嫌な顔をする人が、大学の先生はこうあるべき、と平気で押し付けてくる。脱権力を叫ぶ人が最も実効的に権力を行使しようとする転倒が、現実に起きてしまっています。
(7月17日に配信される第2回に続く)
(鳥羽 和久 : 教育者、作家)
(舟津 昌平 : 経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師)