人生の後半を豊かにするにはどうすればいいのか。医師の和田秀樹さんは「『お金を貯めることが美徳』という考えからは脱却したほうがいい。お金を使うことは脳を使うし、気分がワクワクして免疫機能も上がる」という――。

※本稿は、和田秀樹『本当の人生 人生後半は思い通りに生きる』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/courtneyk

■不合理な日本の高齢者バッシング

2000年前後だったと思いますが、当時、「小売の神様」と言われたセブン‐イレブンの鈴木敏文さんと対談したことがあります。

鈴木さんは、長い間、人類は消費に生産が追い付かなかったけれど、90年代に生産は消費を上回るようになった。これからも生産性は高まることはあっても落ちることはないだろう。さらに少子高齢化で消費は減る。どうすれば消費者に買ってもらえるかが大事な時代になったのだという意味の話をなさいました。

私も長年似たようなことを考えていました。消費不足なのに、生産性を上げろという声が当時(今でもかもしれませんが)高かったわけですが、それは豊作貧乏なのに、もっとハクサイをつくれというのと同じだと思っていたからです。

いずれにせよ、鈴木さんの言うことは当たっていたようで、欧米や東アジアでは、さまざまな職種で従業員の給料を上げることでマーケットが拡大し、経済も成長していったのに、日本だけは生産性をうるさく言うのに、従業員の給料をケチな経営者たちが上げなかったせいで、長期不況の解決の糸口が見えなかったのです。

こういう時代であれば、生産もしないで消費をしてくれる高齢者は神様のようにあがめられてしかるべきなのに、日本では高齢者バッシングが止まりません。

あるいは、生産しないで消費をしてくれて、しかも貯金が禁止されている、つまり国が支払ったお金を全額消費に回してくれる生活保護受給者も経済にものすごく貢献しているのに、やはりバッシングの対象です。

■高齢者は堂々と遊んで暮らしていい

アリとキリギリスは、日本人の好きな童話の一つでしょう。かなり残酷な話です。勤勉なアリは冬場になっても、蓄えがあるので幸せに乗り切れるのに、遊んでばかりいたキリギリスは、冬場に飢えてアリに助けを乞うが、相手にされず死んでしまうという話です。

でも、現在のように消費不足、生産性過剰の時代であれば、働き者のアリは一生楽しみを知らずに死ぬということになるでしょうし、遊び人のキリギリスは、冬になってももの余りのために一生贅沢ができるということになるはずです。

歳をとったらしつけで身に付けた「今がまんしたら、後でいいことがある」という信念のようなものを捨てろと言い続けたわけですが、「働かざる者、食うべからず」という価値観も実は前時代的なものになっているのです。

高齢者は社会のお荷物のようなことを言う人がいますが、そういう人こそ、資本主義がわかっていない――たとえ外国の大学の准教授とかの肩書をもっていても――と思っていいのです。

定年になるというのは、労働から解放される意味があるわけですから、高齢者は堂々と遊んで暮らしていいのです。

■老後のお金はなんとかなる

アリとキリギリスの話は、冬というたとえを使っていますが、老後に蓄えておかないとひどい目にあうよという寓話のように考えている人は少なくないでしょう。

さて、老後の蓄えというのはどういうものなのでしょう?

歳をとっても、それなりの生活ができるように貯金をしておこう、準備をしておこうという意味なのだと考えられます。

年金制度が充実していなかった(日本では年金は戦時中に始まりました)頃は、老後対策というと、子どもに頼るか、貯金をするかということだったのでしょうが、私が聞いた話では、老後に備えて借家のようなものを買っておいて、そこから入る家賃で生活するということもあったようです。

子どもの数も多く、長生きできる人が少なかったから、年老いた人が飢え死にや野垂れ死にすることは意外に少なかったのかもしれません。子どもが先に死ぬということは深刻なことで、私が勤めていた浴風会という老人施設は、関東大震災で子どもを亡くされたお年寄りのための救護施設として始まったのですが、そういう人は救わないといけないという意識が高かったのでしょう。

当時、子どもが若くして死ぬというと戦死が多かったと思われます。年金の先駆けと言える軍人恩給は明治8年(1875)にすでにスタートしています。

いずれにせよ、その後、年金制度が充実したわけですが、自営業者などを対象にした国民年金だけではさすがに不十分でしょうが、厚生年金(あるいは、共済年金)と国民年金(老齢基礎年金)を併せてもらえる勤め人で、家のローンや子育てが終わっていれば、普通に生活する分には困らないように設計されています。

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■年金は「老後の蓄え」、退職金は「遊ぶためのお金」

そして、その原資は自分が納めてきた年金と、会社からの拠出金や税金ということになります。

だとすると、年金そのものが、老後のために払ってきたお金から支払われるわけですから、老後の蓄えと言えることになります。

その分、給料が減らされてきたのですから、それを貯めておいて、返してもらうということです。

ついでに言うと、企業年金だって、自分が貯めてきたものに会社が足してくれるものなのだと考えていいのです。これがある人は、家のローンなどが終わっていたら、相当豊かに暮らせるはずです。

実は、現在の年金は賦課方式といって、若い人が払ってくれた保険料から年金を支給するという制度に変えられたのですが、それは政府の財政の問題であって、自分は年金をもらうために税金を含めてお金を払い続けてきたことは事実なのですから、蓄えと考えていいはずです。

では、これまで貯めてきた貯金はどうでしょうか?

国民年金だけの人や勤労年数が足りないなどの理由で、年金だけでは生活できないという場合は、貯金を取り崩して生活をしないといけないでしょう。貯金が老後の蓄えと言えます。

生活できるだけの十分な年金がある場合は、それまでに貯めていたお金とか、退職金などは、老後に遊んだり、贅沢するためのお金と言えるでしょう。

■個室に入っても年金で足りる施設はいくらでもある

よく、年金だけでは赤字になる人のことが、情報番組で取り上げられますが、いわゆる老後の蓄えがあるなら、それを取り崩して赤字を埋めるのは、なにも問題はないと私は考えます。

それでは、大病したときや介護が必要になったときに備えられないと思うかもしれませんが、それなら病気になったときのための保険に入ったりすればいいし、健康保険には高額療養費制度があるので、自己負担限度額以上のお金は後で払い戻されることになっています。

介護費用についても、介護保険があるので、個室に入っても、年金で足りる施設はいくらでもあります。

また、多くの場合、だんだん身体が弱ってくると広い家はむしろ邪魔になるので、家やマンションを売って、狭いところに引っ越せば、それでもまとまったお金はつくれます。

資本主義の世の中では、お金を持っている以上に、使うことで経済も回るし、よいサービスが受けられます。

■「お金を貯めることが美徳」を脱却しよう

たとえば、孫にしても、お金持ちだけどケチなおじいちゃん、おばあちゃんより、大してお金持ちではないけれど、何万円もお年玉をくれる祖父母のほうになついてくるでしょう。

和田秀樹『本当の人生 人生後半は思い通りに生きる』(PHP新書

私なども映画を撮っている関係で、いろいろとスポンサーになってくれそうなお金持ちの紹介を受けるのですが、いくらお金持ちでも、スポンサーになってくれそうにない人とはつきあいたいとは思えないのです。逆に出資してくれるなら(映画の場合、ヒットすれば儲かることはあります)、もしその人が医療や何かで困ったことがあれば、できるだけのことをしたいと思います。現金な人間だと思われるかもしれませんが、こういうことは私に限ったことではないでしょう。資本主義の世の中では(お金を使ってくれる)お客様は神様なのです。

また、お金を稼ぐ能力のある人にとって、お金を稼ぐことは、新奇な体験ではないので、脳の前頭葉という部分を大して使うことにならないようです。お金を使うほうが脳も使うし、気分もワクワクして免疫機能も上がります。

自分のしつけ直しとして、稼ぐ、貯めることが美徳という考え方から、使うことこそすばらしいと思えるようになりたいものです。

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和田 秀樹(わだ・ひでき)
精神科医
1960年、大阪市生まれ。精神科医。東京大学医学部卒。ルネクリニック東京院院長、一橋大学経済学部・東京医科歯科大学非常勤講師。2022年3月発売の『80歳の壁』が2022年トーハン・日販年間総合ベストセラー1位に。メルマガ 和田秀樹の「テレビでもラジオでも言えないわたしの本音」
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(精神科医 和田 秀樹)