男性が育児退職してはいけないのか?フリーランス翻訳者という選択

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小説家、漫画家、編集者、出版業界の「仕事の舞台裏」は数あれど、意外と知られていない出版翻訳者の仕事を大公開。『スティーブ・ジョブズ』の世界同時発売を手掛けた超売れっ子は、刊行までわずか4ヵ月という無理ゲーにどうこたえたのか?『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋』(井口耕二著)から内容を抜粋してお届けする。

『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋』連載第10回

『スティーブ・ジョブズの「突然の訃報」...『スティーブ・ジョブズ』の翻訳者が世間とは違う「意外な反応」をした「納得のワケ」』より続く

大切なのは家族の許可

『スティーブ・ジョブズ』のプロジェクトを引き受ける際、大切だったのは家族の許可を取ることでした。そもそも子育てに必要な時間のやりくりを共働きの家庭内でつけるために、私が会社員を辞めてフリーランスの翻訳者になったのです。

妻はいわゆる男女雇用機会均等法の第一世代にあたります。キャリア志向というのともちょっと違うのですが、「どういう人生を送るにせよ、仕事は続けるのが基本」という人なのです。中学生だか高校生だかからそう考えて準備をしたということですから筋金入りです。ちなみに、「自分が結婚するとは思っていなかった」と聞いています。

私のほうもいわゆる「猛烈サラリーマン」という共働き夫婦でした。

訪れた転機

転機が訪れたのは1996年春。妻の妊娠です。ちょうど育児休業制度ができたころで妻も1年間は休業できるのですが、その先が問題です。保育園に預けることができても保育時間は朝7時から夜7時まで。親の手を借りようにも、私のほうも妻のほうも遠方に住んでいます。八方手をつくしましたが、万事休す。夫婦どちらかが退職するか、それとも家から近くて残業のない会社に転職するか。

いろいろと検討した結果、私が翻訳者として独立するのが一番いいんじゃないかというアイデアが浮上しました。会社の業務でも翻訳の機会が多く、知り合った翻訳者と飲んでいたとき、「会社員を辞めてフリーランスの翻訳者になればいいじゃない」と言われたのです。

会社には一生勤めるつもりで就職していますし、そもそも、会社員以外の働き方というのは発想にありませんでした。ですが、フリーランスであれば、保育園の送り迎えも問題ないし、朝起きたら熱が出ていたなんてことにも対応できるしと、育児休業後の生活をシミュレーションし、こういうときに困るよねと話していた問題がすべて解消しそうです。まさしく、その手があったか、目からうろこでした。

宇宙に移住するのと同じくらい⁉

というわけで、ある晩、私が会社員を辞めてフリーランスになるという方向を妻に提案してみました。

「冗談じゃない」

言下に却下されました。

「いや、冗談じゃなくてまじめな話なんだけど……」なんてとても言えた雰囲気ではありません。あとから聞くと、「宇宙に移住しようというくらいありえない提案だと思った」とのこと。

さまざまな説得を1ヵ月くらいくり返すと、ようやく、「たしかに、フリーランスとして仕事がちゃんとできるなら、いろいろ解決するわね」まで到達しました。

退職金はすずめの涙

会社に退職を願い出たときのことは、いまでもよく覚えています。上司に伝えた翌日出社すると、人事担当者に呼び止められ、会議室へ。

「聞いたよ。きみ、そういうときは、ふつう、嫁さんが辞めるんじゃないんかね」

「はい、うち、ふつうじゃありませんから。子どもが小さいあいだの何年間か、残業のない暇な職場に飛ばしてもらえるという話があれば辞める必要はないのですが、そんな話はありませんよね?」

「ないな」

「ですよね。でも、子どもは生ものでほうっておけません。どうしても、急に休むとか、無理やり早く退勤するとか、そういうことが起きます。そんなこんなで、まずまちがいなく、あいつのせいで仕事が回らないなど部内に不満がたまって辞めざるをえなくなります。それくらいなら、いまのうちにきちんと引き継いで辞めたほうが、私にとっても、部にとってもいいと思うんです」

「……いま退職しても退職金はすずめの涙だぞ? 」

「理由がゼニカネじゃないのでしかたありません」

役員からも「世の中はいま、失業者があふれている。なにもこんなときに辞めんでも」と言っていただきました。たしかに独立を目的に会社員をしてきたのなら「なにもこんなとき」でしょう。でも、子どもが生まれてうんぬんではしかたありません。そう返すと「仕事を続けたいなら子どもを作ったのがまちがいだったな」と言われてしまいました。

あのころの企業社会ではそれもまた真実という考え方ですし、そう考えるような人でなければグループ1万人の大企業で頂点近くまで昇り詰めることはできないでしょう。そういう意味で、一理あるコメントではあります。

妻は「我々世代が子どもを生まなかったら、あなたの年金、だれが払うの?と言えばよかったのに」と口をとがらせていましたが。

会社員をやめたのは正解⁉

夫婦ともフルタイムの共働きで親の助けなしに子育てをするのは大変です。しかも我が家の場合、長男は「元気はいいけど、病気には弱い子」とかかりつけのお医者さんに言われるタイプだし、次男はぜんそくの気があるしで、朝起きたら子どもが体調を崩しているなど何回あったかわかりません。そういうときは、ベビーシッターさんの手配をしてから混む前の朝イチで小児科に連れて行きました。病気対応は基本的に私です。そういう融通が利かせられるようにとフリーランスになったのですから。

夫婦とも通勤に片道1時間以上かかるような組織勤めのままだったらどうにもならなかったはずです。会社員を辞めたのは正解でした。

ですが、本来は、勤めていても子育てくらいできて当然でしょう。これほど大変なのはほんの何年かであり、その間だけ融通の利く働き方ができればいいのですから。

息子からの言葉

私はあくまで「育児の時間的やりくりを家庭内でつけられるように転職した」のであって「主夫」になったわけではありません。しかし、私も育児の担当であることは、『スティーブ・ジョブズ』を訳している頃も同じでした。

当時、子どもたちは中学生でした。夏休みですし学校行事もあり、まったく放っておくわけにもいきません。家族の協力もこのプロジェクトには不可欠だったと言えます。

無事、家族の協力を得て、3ヵ月あまり、気力・体力の限界ぎりぎりまで仕事に打ち込みました。最後は頭痛と吐き気をこらえながら、です。

そして2011年10月13日、『スティーブ・ジョブズ』の最終チェックが終了しました。「終わった〜!」――ツイッターに書くと、仲間から次々とお祝いの言葉が届きます。でも、祝杯は何日かお預けでした。だって、飲んだら吐きますよ。飲まなくても吐きそうなんですから。

妻も帰宅し、家族そろって晩ご飯を食べ始めたとき、長男が私を見て言いました。

「お父さん、ようやくいつもの顔に戻ったね」

スティーブ・ジョブズの「突然の訃報」...『スティーブ・ジョブズ』の翻訳者が世間とは違う「意外な反応」をした「納得のワケ」