(写真: ペイレスイメージズ1(モデル)/PIXTA)

日本のGDPは、1968年から2009年までは1位のアメリカに次いで2位だったが、2010年に中国に抜かれ3位になり、2023年は4位になることが今月15日に内閣府によって公表された。また、IMF「国際通貨基金」は2026年にインドにも抜かれると予想している。

またスイスの国際経営開発研究所(IMD)が公表した「世界競争力年鑑」によると、日本は1989年から1992年まで1位を維持していたものの2023年版では35位と過去最低を更新した。このような状況を考慮したかのように、政府の教育未来創造会議は理系分野を専攻する大学生の割合を現在の35%から50%に増やす目標を掲げ、理系学部設置や理系学生への奨学金充実を目指す関係省庁による具体的対策が動き始めた。

現在の日本の出生数は年70万人台に落ち込み、第1次ベビーブーム世代のピークの270万人、第2次ベビーブーム世代のピークの209万人と比べるとあまりにも少ない。それだけに、理系分野の基礎として必須の数学に関する「数学嫌い」を減らし、目覚めた人たちが理系分野で活躍する人材に育ってもらうことが大切な課題であろう。

「数学嫌い」対策が必要な理由

ところが、TIMSS(国際数学・理科教育動向調査)等の調査結果でも、日本の青少年の「数学嫌い」の割合は、若干は改善されてきたものの、昔から高止まりしたままで推移している。理系学部で定員割れの危機に瀕している大学もいくつかある状況では、抜本的な「数学嫌い」対策を施さない限り、理系分野の充実は絵に描いた餅になるのではないだろうか。

GDPが1位のアメリカは、1983年に「A Nation At Risk」(危機に立つ国家)を教育省が発表した。その後、全米科学アカデミーの研究部門であるNRC(国家研究評議会)は「数学的な問題解決の方法を学ばなければ将来、世界から取り残される」との危機感を打ち出した報告書を出した(朝日新聞1989年1月28日夕刊)。さらに1997年には、教育省は「Mathematics Equals Opportunity」(数学により広がる将来のチャンス)を発表し、数学の学びの意義を訴えた。

その80年代から90年代にかけて日本では反対に、「(技術立国として)経済成長を遂げた日本は、これからは文化だ」という発言が大手を振って歩き、「ゆとり教育」に突入したことは残念でならない。

「ゆとり教育」での数学授業時間

1998年の学習指導要領改訂でその骨組みが定められ、数学を中心に教育内容や授業時間数を3割削減するなどの目標が設けられた。ちなみに、その時代の中学校での数学授業時間数は1年、2年、3年とも週3時間で、これは世界でも最低レベルである。

驚いたのは、その3割削減した内容が、当初は「ゆとり教育」の「上限」であったことである。90年代後半には、数学の授業時間数が今後減ることで、いくつかの県では高校の数学教員がゼロ採用になったばかりでなく、「数学の教員はもはや役に立たない。教員室でのあなたの机はない。家庭科の教員免許を取ったら残してあげる」、などと校長から肩叩きされた優秀な数学教員が何人もいたのである。

このような状況を「日本版文化大革命」と捉えた筆者は、その流れを改めさせるために軸足を数学教育に移し、行動を起こした。著書・雑誌・新聞などの活字によって数学の意義を訴えたほか、「数学嫌い」を減らすことが重要と考えて、90年代後半からは全国の小中高校に数学の面白さを伝える出前授業も積極的に開始した(半分は手弁当)。

筆者は、45年間に渡って10の大学で約1万5000人の大学生に数学を教えるのと並行して、全国の小中高校の出前授業でも約1万5000人の生徒に数学小噺をしてきたが、数学の「好き・嫌い」と「得意・不得意」は必ずしも一致しないものの、「好きこそものの上手なれ」という諺は適当であると悟っている。

残念ながら「数学嫌い」の問題だけは、目に見える形で改善されることは難しいと痛感している。ちなみに、数学教育に関する他のさまざまな問題に対しては以下のような提言も積極的に出して、それなりに改善されてきたと振り返る。

「ゆとり教育」に関しては、「教科書の改善・充実に関する研究」専門家会議委員(文部科学省委嘱、2006年〜2008年)としての最終提言に自説を盛り込んでいただき、現在は桁数の大きい掛け算、四則混合計算、分数・小数の混合計算などの指導は見直されている。

「は(速さ)・じ(時間)・き(距離)」式の問題点

2009年に開始された教員免許更新講習制度は、10年以上にわたって続いた。筆者は90年代後半から全国各地での教員研修会で講演してきたが、その制度は、教育現場に全く興味をもたない大学教員が自分の専門のトピックスをばらばらに話しているだけのところが圧倒的に多く、昔からあった各自治体での定期的な教員研修制度の方が、現場を考えての研修だけにずっと機能していたと考えた。

そこで、周囲からの「この問題に関してお上に逆らうのは危険ではないか」という忠告を鑑みないで、その旨を2013年に刊行した拙著『論理的に考え、書く力』(光文社新書)などで散々主張した。その後、現場サイドからの疑問の声が高まったこともあって、2022年の夏に教員免許更新講習制度は廃止された。

数年前から拙著『AI時代に生きる数学力の鍛え方』(東洋経済新報社)、『中学生から大人まで楽しめる算数・数学間違い探し』(講談社+α新書)などで、「やり方」の暗記だけの算数・数学の学びの問題点を精力的に指摘してきた。

最近、「は(速さ)・じ(時間)・き(距離)」式の学びの問題点が、ネット上で何人もの識者によって指摘されていて、正しい方向に導いていただいていると考える。また、プロセスをしっかり述べる記述式の意義が文部科学省からも発信され、教育現場では広く認識されてきている。

ところで、「なぜ暗記だけの算数・数学の学びが盛んになってしまったのか」ということを自問すると、やはり「答えさえ当てればよい」数学マークシート問題が本質にあるだろう。

1979年に導入された全問マークシート式の「大学共通1次学力試験」がスタートした前後で、数学の問題解法に関する生徒の意識で大きな変化があった。それまでは「数学は答えを導くためのプロセスが大切」というものが大半であったが、その後は「記述式問題を除けば、答えを素早く当てるテクニックも大切」という意識が広く浸透したのである。

ノーベル物理学賞受賞者の言葉

この件に関して筆者は、90年代から著書・雑誌・新聞等で「数学マークシート問題で裏技等を使って答えを当てることと、数学が好きになることは無関係である」と、事あるごとに訴えてきた。その気持ちを支えたのは、2008年に素粒子の研究でノーベル物理学賞を受賞された益川敏英さんが、受賞後の記者会見で「マークシートを使った現在の試験は改めたほうがよい」と述べられたことである。記者会見では基礎科学の充実を訴えると思っていただけに、そのときの感動は一生忘れられないものとなった。

さて、当たり前のことであるが、22年間勤めた城西大学数学科と東京理科大学数学科には「数学嫌い」の学生はいなかった。2007年に東京理科大学理学部から移った桜美林大学リベラルアーツ学群には、反対にたくさんの「数学嫌い」が在籍していた。

リベラルアーツの語源には算術、幾何、論理などがあるので、その立場からも「数学嫌い」を減らす活動には適当な環境であった。筆者の担当科目は、数学嫌いの学生が多く履修するリベラルアーツの考え方を示す「学問基礎」、数学好きな学生が受ける専門の数学科目、教職の数学科目、それにゼミナール等であった。

勤め始めた数年後に就職委員長を補職としてお引き受けした当時は学生の就職難で、就職適性検査の非言語問題が苦手な学生向けに、後期の毎週木曜日の夜間に「就活の算数ボランティア授業」を2コマ開催した。この授業は後に「数の基礎理解」として正規の授業になって退職年度まで続けた。「学問基礎」と「数の基礎理解」を通して、数学嫌いな学生を相当多く数学好きにさせたと振り返る。数学が嫌いで文系専攻のつもりで入学したものの、ゼミナールは数学専攻の筆者のところに参加した学生は毎年何人もいた。

もちろんゼミには、もともと「数学好き」だった学生も半分以上は在籍していて、昨年度のゼミ生から茨城県、埼玉県、千葉県の教員採用試験に合格して本年4月から教員として新たなスタートを切る者もいる。ちなみに、筆者のゼミナール卒業生で全国で数学教員として活躍している者は、城西大学数学科時代から数えるとのべ200人ぐらいになるが、人や本などのちょっとした偶然の出会いがきっかけであり、内容は十人十色である。

参考までに歴史的に有名な数学者でもその傾向があり、たとえば「5次(以上の)方程式は一般に解けない」を初めて証明したアーベル(1802−1829)は、高校生の頃に受けていた数学の先生が生徒を殺してしまった。それに代わって赴任した数学の先生がアーベルの才能を見抜き、才能を開花させる指導をしたのである。

ここで指摘しなくてはならない大切なことがある。数学の研究者でなく教育者として求められることは、生徒各自の頭の中を見抜く力である。その力によって、個々の生徒に適切なアドバイスが可能になるのだ。学力差の激しい数学という教科では、これが最も重要なことだと考える。

以上述べてきたことを踏まえて、「数学嫌い」を減らす目的をもった著書を他の関係者と別々に刊行し、本年1月には『数学の苦手が好きに変わるとき』(ちくまプリマー新書)を上梓した。

ちなみにこの書では、数学は積み重ねの教科で算数が大切であること。数学は個人差が大きいので各駅停車の旅のようにゆっくり学ぶのも良いこと。数学の各分野である仕組み(代数)、変化(解析)、図形(幾何)、確率・統計などの視点を、順に、あみだくじ、ヤミ金融、名刺手品、(格差を測る)ジニ係数、などの身近な算数の題材をいろいろ用いて紹介。数学教育の歴史から考える未来、等々を「数学嫌い」の気持ちを大切にして述べた。

「数学嫌い」の抜本的な改善に必要なこと

筆者としての結論は、「数学嫌い」に関するデータの抜本的な改善には、行政も国民も一緒になった大きな動きを起こすしかない、と考える。その本質的な訳は、人が他の人を好きになるときも容姿、才能、趣味、心などの多様なきっかけがある。人が数学を好きになるときも同じで、「引き出し」はそれこそ無限にある。数学の題材や解法、実際の応用例、間違いは「間違い」と堂々と言える教科であること、等々をはじめ、多様な立場から数学に興味・関心をもつきっかけがある。

筆者については、小学生時代の以下の3つの経験が「引き出し」であった。4×4の枡目の中で1〜15が書いてある15個のピースを動かして遊ぶスライドパズル(15ゲーム)で、友人が”ズル”をして完成しないものを「できた!」と言ったこと。3桁×3桁の筆算で、繰り上がりの意味が分からないまま試験を受けて0点をとったこと。2、3、5、7、11、13、・・・という素数が無限個存在する(ユークリッドの背理法による)証明を友人から教えてもらったこと。

また中学生の頃から、「安心感」という気持ちから「数学」に興味が集中した。その訳は、恥ずかしい気持ちがあって明らかにしてこなかったが、ここで初めて述べよう。

数学がもたらす「安心感」

どんなに小さい物質でも、適当な倍率に拡大すると、手のひらサイズになるはずである。そして、手のひらに収まっているもののごく一部分の小さい部分をとっても、適当な倍率に拡大すると、手のひらサイズになるはずである。

この議論は際限なく繰り返し行うことができるので、物質の最小限については夜眠れないほど不思議になる。現在では、素粒子に関する研究が大切だと素人ながら思うが、中学生の頃に考えていた上記のことと、その頃に学んだ次の数学の公理を比べて、数学に逃避するような「安心感」をもったのである。

アルキメデスの公理 任意の正の実数a、bに対し、na>bとなる自然数nが存在する。

数学好きになった人の中には、数学がもたらす「安心感」に憧れたことがきっかけであった人も意外と多くいる。ベトナム戦争が激しかった頃、戦争に矛盾を感じたことがきっかけで数学好きになった人の紹介が新聞に載っていたことを思い出す。

筆者にも身近な例があり、かつて世間を震撼させたカルトから離れた方が、いくつもの数学の質問をもって訪ねてきてくれたこと。元ホストが新たな人生を送る決意をもって、東京理科大学での筆者のゼミ生になってくれたこと。など、いろいろ思い出す。それだけに、数学嫌いの青少年を数学好きにさせるためには、「安心感」も含めて多種多様な「引き出し」を用意してあげるとよいだろう。

「数学嫌い」を「数学好き」に変える国に

「ゆとり教育」に向かう頃の日本と比べて現在は、2019年3月26日に経済産業省が発表したレポート「数理資本主義の時代〜数学パワーが世界を変える」があるように、数学に関してはフォローの風が吹いている。それだけに、「数学嫌い」を「数学好き」に変える国としての積極的な行動は「待ったなし」ではないだろうか。数学嫌いが数学好きになるきっかけはいろいろあるので、国としての多様な取り組みが求められるはずだ。もちろん、数学に関しては学力差が大きいことも考慮しなくてはならない。

1つとして、今から20年ほど前にあった文部科学省委嘱事業の「その道の達人」の復活を望みたい。想えば対象が高校生の「スーパーサイエンスハイスクール」、対象が中学生以上の「サイエンスパートナーシップ」と並んで「その道の達人」での出前授業も数多く行ったが、これは分野を問うこともなく、対象は小学生以上である。

すぐに「成果」を問うような短絡的な意見によって、この事業は長続きすることもなく終了してしまったが、数学を好きになる魂を小学生から抱いてもらうためにも、このような事業を復活させて、いろいろな視点から子ども達に刺激を与えてもらいたい。「三つ子の魂百まで」である。

もちろん筆者個人としては、今まで通り依頼されればボランティア的に出前授業に出掛ける気持ちをもっている。チョーク1本をもって、日本全国各地への旅に出る夢をもつ。

(芳沢 光雄 : 数学・数学教育者)