溝口健二監督作『夜の女たち』1948年

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戦後、笠置シヅ子はシングルマザーとなって育児に芸能活動に奮闘。1947年に発表した「東京ブギウギ」が大ヒットして国民的スターとなった。笠置の評伝を書いた砂古口早苗さんは「笠置のファンは“夜の女たち”と呼ばれた街娼にも多かった。彼女たちは日劇に通って笠置のステージに熱狂し、ファンクラブにも入って笠置と直に交流していた」という――。

※本稿は、砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(現代書館)の一部を再編集したものです。

■80年前、終戦直後の東京では毎日餓死者が出ていた

敗戦の荒廃の中で人々は日々一刻、すさまじい飢えと格闘した。1945年末に渋沢敬三大蔵大臣が「来年は1000万人の国民が餓死するかもしれない」と発表する。ぎょっとするような発言だが、上野駅地下道には毎日餓死者があふれ、大阪だけでも1カ月に70人の餓死者が出たというから、大臣の発言はさほど大袈裟(おおげさ)ではなかった。

46年12月、厚生省は全国に浮浪者が6000人(そのうちの4000人が浮浪児)、また“闇の女”が1万8000人と発表。46年1月、性病の蔓延を防ぐために警視庁が街娼を初検挙して以来、“パンパン狩り”“狩り込み”といわれる街娼の検挙が繰り返された。

彼女たちの年齢は10代半ばから40代半ばで、約3分の1が20歳未満だった。検挙後は病院へ送られて診察後、性病に罹(かか)っている者は治療、ない者は放免され、行き場のないその多くはまた夜の街へ戻った。

47年、政府は街娼が6大都市だけで推定4万人、48年には全国で45万人と発表。敗戦の現実はまず、夫や親を失った女性と子どもを悲惨な境遇へ追いやったのだ。

“闇の女”“夜の女”といわれた街娼たちは有楽町や上野などのガード下に多く出没した。有楽町から銀座、築地あたりの劇場や映画館、旧第一生命本社ビルに置かれたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)本部にも近く、とくに彼女たちの得意客が進駐軍の兵隊だった。

■米兵相手に体を売る“パンパン”は笠置のブギに熱狂した

米兵を相手にする彼女たちは“パンパン”と呼ばれて蔑まれるが、当時の世相を反映する存在となってたちまち小説や流行歌にも登場する。有楽町界隈は、夜の女と靴磨き少年たちの“職場”であり、敗戦日本の縮図となった。そこはまた浅草とともに戦前から娯楽の殿堂の場であり、歌姫・笠置シヅ子の職場でもあった。

やがて有楽町の夜の女たちが、ショービジネスの世界で脚光を浴びるブギの女王の熱狂的なファンになるのは自然なことだった。彼女たちは、いわゆる“遊郭の女郎”と呼ばれた女性たちとは違い、自らの意志による売春のせいか、どこか自由な奔放さがあった。

46年、GHQは日本の民主化改革の一つとして公娼廃止指令を出す。娼妓業・遊郭は廃止となったが(58年に売春防止法施行)、女性の自由意志による売春自体は禁止していない。理由は米兵の“買春”を黙認したからである。そこで当局は米兵の(街娼のためではなく)性病を防ぐために大掛かりな性病対策に乗り出し、48年5月、1本の映画が公開された。溝口健二監督の松竹映画『夜の女たち』である。

溝口健二監督作『夜の女たち』1948年(写真=松竹/PD-Japan-film/Wikimedia Commons)

■GHQは女性の意志による売春は禁止せず米兵の買春を黙認

田中絹代、高杉早苗の演技が評判を呼び、たちまち大ヒットとなった。占領下時代、映画はすべてシナリオの段階からGHQ民間情報教育局(CIE)の検閲を受けたが、この映画は売春・性病の問題を国民に広く認識させるためにとくにGHQが製作から“指導”し、推奨したのである。

ストーリーは戦争未亡人となり、子どもも亡くしたヒロインが「食べるため、世の中や男たちへの復讐のため」に娼婦になり、やがて性病に罹り、更生施設に入って改心するというもの。やや道徳じみてはいるが、溝口健二の演出と田中絹代の演技が光る。舞台は敗戦直後の大阪で、難波や心斎橋、天王寺あたりでロケされ、まだ空襲の跡も生々しい場面も出てくる。映画のシーンにはダンスホールでブギの歌が流れ、47年に笠置が歌ってヒットした「セコハン娘」を高杉早苗が歌う場面があって、女性たちのせつなさが漂う。

■日劇での笠置のステージに街娼たちが毎日駆けつけた

ブギのリズムは元来、黒人ジャズやブルースの流れをくみ、逆境の中でも世を恨まず、強く明るく生き抜こうという希望を与えるものだ。だが何より“ブギの女王”が“夜の女”たちの心を捉えたのは、未亡人となった笠置シヅ子が乳飲み子を抱えて懸命に歌い踊る姿に、同性として心打たれたからだ。彼女たちは、苦しさを顔に表さずに舞台で明るく力強く歌い踊る笠置シヅ子に、生きる希望を投影していた。日劇のステージのかぶりつきに、花束を持ち、目を輝かせた彼女たちの姿を見ない日はなかったと、服部良一は証言している。

笠置もまた彼女たちの境遇を決して他人事とは思えず、わが身を重ねていた。

「私が未亡人で子どもを抱えながら歌っていることに共感するものがあるのでしょう。それに自分のように声を出し切って歌うことに、あの人たちは自分に代わって叫んでくれているのだと思うのではないでしょうか」(『婦人公論』1966年8月号「ブギウギから20年」)

■笠置は娼婦たちを差別せず、更生施設設立にも協力した

「東京ブギウギ」が大ヒットした直後、“ラクチョウのお米”姐(ねえ)さんをリーダーとする“夜の女”たちが笠置の熱狂的なファンになり、やがて笠置に会いたがっていると知った笠置は多忙な中から時間を作って彼女たちに会い、こうした境遇の女性の自立のための更生施設作りの相談に乗るなど一役買っている。

雑誌『サロン』(49年)に田村泰次郎と笠置の対談で紹介されているが、白鳥会館という更生施設は、彼女たちが職業訓練のためのタイプライターや洋裁などを習って自立と親睦の場を図るものだった。

笠置と彼女たちの友情は、スターにありがちな作られた美談ではなかった。彼女たちから単に人気を得ただけに終わっていないところが、いかにも義理人情を重んじる笠置らしい正義感を物語っている。

たとえば、淡谷のり子は戦後、「パンパンの歌を歌うのは嫌だ」と言って「星の流れに」(最初のタイトルは「こんな女に誰がした」だったが、GHQから「反米感情を煽(あお)るおそれがある」とクレームがきて変更された)を歌うのを拒否し、47年、菊池章子が歌ってヒットした。同じ頃、水の江瀧子は劇団たんぽぽの間で、ベストセラーになった田村泰次郎の『肉体の門』を演ろうという話が出たとき、彼女は反対した。

「何が嫌だったかって、女は売春婦しか出ないんですよ。だから、『私がやることない。売春婦やるのは嫌だ』と言って」(『ひまわり婆っちゃま』)

写真=毎日新聞社/時事通信フォト
マイクの前で歌う笠置シヅ子、1949年 - 写真=毎日新聞社/時事通信フォト

■淡谷のり子と違って、笠置は身を売る女の境遇に共感した

水の江は劇団たんぽぽを解散することにし、そこから別に「空気座」を作った団員たちが『肉体の門』を舞台に立ち上げ、それが大ヒットした。水の江にはスターとしてのプライドがあり、それはおそらく淡谷と同様のものだっただろう。淡谷も水の江も、人の上に立つ者としての自覚があり、自分が何をやればいいかをよく知っていた。

だからといって、笠置がそのプライドを持たなかったというのとは違う。笠置も戦後スターになったが、もともと人の境遇を思いやることのできる苦労人であり、そこには成功者としての傲慢(ごうまん)さは微塵もない。笠置は“夜の女”たちと自分との間に心の垣根を作ることをしなかった。自分が歌で人々に元気を与えられるのは、自分もまたいろんな人から声援を得ているからこそできるのだという、淡谷や水の江には希薄な、スターであると同時に生活者としての自覚と、健全な社会性があったからだ。戦後、多くの戦争未亡人たちが母子家庭となったが、笠置は彼女たちが置かれた状況を決して他人事として見なかった。

■「底の底の人たちにまで、わたしの芸を理解してもらいたい」

「世間ではあの人たちのことをパンパンガールなんて悪くいいますけど、わたしにはどうしてもそんな言葉では呼べませんね。あの生一本な純情なところを見ると、あの人たちは決して悪い人たちじゃないと思いますよ」(『サンデーニュース』17号、1948年)

と語っていて、彼女たちに共感の心情を寄せているのがわかる。自分もまた生一本で純情だったからだろう。

「靴磨きの子ども達は可愛いですよ、わたしがコヤがはねて帰るでしょ、するとあの地下鉄の階段あたりのところで待機してるんですね、知らん顔して通るわけにもいきませんよ、私も思わず笑ってやったりして」(同)

有楽町の地下鉄の階段で、子ども好きの笠置が舞台を終えての帰路、靴磨きの子どもたちに笑顔を見せる表情が目に浮かぶ。

「ラク町(有楽町)でも靴磨きでもなんでもいい、そういう民衆の底の底の人たちにまで、わたしはわたしの芸を理解してもらい、そして一緒に喜んでもらいたい、これがわたしの生き甲斐です」(同)

■1950年アメリカ公演に行く前には街娼たちが席を買い占めた

50年6月、渡米する笠置の歓送特別公演が日劇で行われたとき、夜の女たちの姐御“ラク町のお米”は仲間たちに大号令をかけ、日劇の1階の半分、約800席を買い占め、「ラクチョウ夜咲く花一同より」と書かれた、ひときわ大きく高価な花束をステージの笠置に贈った。笠置は感激し、彼女たち一人ひとりに「おおきに、おおきに」と応え、握手して回った。

当時の新聞は、「姉ちゃん元気で 笠置シズ子を送る夜の女達」との見出しでこう伝えている。

「ブギのコンビ服部良一と笠置シズ子は来る16日ハワイ経由で渡米するが、その送別特別リサイタルが12日夜7時から日劇で盛大に開かれた。しばらく笠置の歌ともお別れというのでこの日同劇場に押し寄せたファン聴衆は3千数百名、入場の際の整理の不手際から壁ガラスを破るというさわぎもあったが、笠置を姉と慕い美しい友情で結ばれている有楽町をはじめ上野、新宿、池袋等のナイト・エンジェル約300名は早くから予約していたかぶりつきに要領よく陣取って始終黄色い声援を送り心を込めた花束を贈呈、また廿の扉の宮田重雄氏、漫画家の横山隆一氏らも特別にステージに立って両氏に花束を贈った」(『毎日新聞』1950年6月13日)

■ファンクラブの女性たちを自宅に招き、入院のお見舞いにも

笠置のファンクラブには会長の南原繁や石川達三、吉川英治、田村泰次郎、獅子文六、林芙美子、梅原龍三郎、猪熊弦一郎、岩田専太郎、田中絹代、山田五十鈴などの著名人もいたが、その大半は有楽町界隈の“ナイト・エンジェル”たちで支えられていた。熱心なファンである彼女たちとの交流を続け、娘ヱイ子の誕生パーティーなどに彼女たちを自宅へ招いたこともある。笠置が「東京ブギウギ」でスターになってから10年後の57年、週刊誌で大宅壮一との対談でこう語っている。

大宅「笠置さんがブギをさかんにうたっていたころ、町のあねごたちに大へんなファンがいましたね。
笠置「まだつき合いしてます。誕生日には、あねご連中がちゃんときます。大阪のあねごが一人、胸が少し悪くて、徹底的に治すというので東京中野の国立病院に入っています。先だってお見舞いにも行って来ました。いろんなことでずっとつき合いしています。私はどういうものか、性分なんでしょうね、おとといも、出たことがないのに何回もいわれて即興劇に出た。野口英世の母をやって、しろうとの人が息子になる。ところがしているとパッと涙が出てくる。全然だめなんですよ。昔から映画を見ていても、芝居を見ていても、子役が出てきたら、ものいわん先に泣きまんね。なんてだらしがないと思うけど、セリフがいえない。」(『娯楽よみうり』1957年7月12日号)

■日本女性の純潔を守るための防波堤にされた街娼たち

後年、笠置は胸を患った“ラクチョウのお米さん”が肺結核で危篤と知って駆けつけ、「なんでもっとはよう知らせてくれなんだんや」と言って、すでに臨終で口がきけなくなっていた彼女の枕元で涙を流した。

砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(現代書館)(潮文庫でも発売中)

笠置が言うように、自分の芸を理解してくれて喜んでくれることが笠置の生きがいであり、また彼女たちにとっても、笠置シヅ子の熱狂的なファンであり続けることが生きがいだったのだ。この時代だったからこそありえた、スターとファンの関係の最も王道で、古典的な例なのか。

敗戦後の混乱期に有楽町や上野、新宿などに現れ、生きるために身を売る個人街娼の“夜の女”たちの数は、52年の進駐軍撤退とともに激減した。その後は結婚して家庭を持ったり職業を得て更生した者もなくはないが、健康を害して病死した者が少なくなかったといわれる。彼女たちは遊郭や赤線、風俗店など、いわば管理売春組織の売春婦と区別されてはいたが、いずれにしても敗戦後の一時期、当局(日本政府であれGHQであれ)の手で“純潔の日本女性を守るための防波堤”にされた女性たちだった。

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砂古口 早苗(さこぐち・さなえ)
ノンフィクション作家
1949年、香川県生まれ。新聞や雑誌にルポやエッセイを寄稿。明治・大正期のジャーナリスト、宮武外骨の研究者でもある。著書に『外骨みたいに生きてみたい 反骨にして楽天なり』(現代書館)など
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(ノンフィクション作家 砂古口 早苗)