前例のない漫才コンテスト「M-1グランプリ」創設までのストーリーとは(写真:でじたるらぶ/PIXTA)

お恥ずかしい話なのだが、私は人から「本当に知らないんですね!」と驚かれるほど「お笑い」には疎い人間だ。1980年代初頭の漫才ブームはリアルタイムで体験したし、当時は人並みにハマっていたと思う。ところが気がつけば、いつの間にやら興味が薄れていたのだ。

そのため、理由がわからないまま、モヤモヤとした思いを残しながら数十年を過ごしてしまった。したがって、いつしか大きな盛り上がりを見せていた「M-1」にもさほど興味を惹かれなかった。否定したいという意味ではない。家族が大笑いをしながら見ているのでその輪に加わり、一時的に笑ったりもしていたのだが、なんとなくそれだけで終わっていたのだ。

知らない世界を見てみようと思った

つまらない人間だなあと自分でも思うけれども、だからといってハマったふりをして無理に自分を納得させても意味がない。

だから白状してしまうと、『M-1はじめました。』(谷 良一 著、東洋経済新報社)を読み始めたときにもさほどの思いがあったわけではなかった。あまりにも自分が無知なものだから、少しはこの世界のことを学んでおかなければいけないかもしれないと思っただけのことだ。

ところが読んでみた結果、かつて漫才ブームを体験した自分が、時間の経過とともにお笑いへの興味を失った理由がはっきりわかった。

そもそも漫才とは、ふたりのしゃべりだけで世界をつくり、客を引き込み笑いを起こさないといけない。それには、いいネタをつくった上で、何度も何度も稽古をしてふたりの息と間を合わせる必要があった。
その息と間を身につけるには粘り強い稽古が必要で、しかも誰でもできるものではなく才能が必要だった。
その点コントであればセットや小道具、衣装、照明、効果音などを使って世界観はつくれる。そういうものの助けがあってコントを演じればいいので、漫才に比べるとハードルはかなり低いと言える。言葉だけで世界をつくらなければならない漫才とはスタート時点からして違う。特に、しゃべりがまだ拙い新人レベルにはとっつきやすかった。ネタさえしっかりしていれば新人でもそれなりに見られるものができる。(44ページより)


モヤモヤを解消してくれたのはこの文章だった。要するに、かつて漫才のおもしろさに魅了された私は、いつしか潮流がコントに移っていたことを知らなかったのである。だからただ漠然と、「なんだか違うなあ」と感じるしかなかったのだ。

でも、そのことに気づいたら、本書で明かされている漫才コンテスト「M-1グランプリ」創設までのストーリーが断然おもしろくなった。

ちなみにご存じのとおり、著者は吉本興業において横山やすし・西川きよし、笑福亭仁鶴、間寛平などのマネジャーを経験し、「なんばグランド花月」などの劇場プロデューサー・支配人、テレビ番組プロデューサーを経て、2001年に「M-1グランプリ」を創設した人物である。

漫才を盛り上げてほしいんや

話は2001年からスタートする。1981年に吉本興業に入社し、すでに43歳になっていた著者は、あるとき「ミスター吉本」と呼ばれる木村政雄常務からこう告げられるのだ。

「今度、漫才と新喜劇のプロジェクトをつくることにした。両方とも今低迷しているやろ。それを盛り上げてほしいんや。新喜劇は木山に、谷には漫才プロジェクトのリーダーをしてもらう。部署を横断して漫才を盛り上げていくプロジェクトや」(10ページより)

具体的になにをするのかはよくわからなかったものの、当時の部署ではやりがいを失いかけていたため、「漫才好きな自分にとってはいい話ではないだろうか」と感じたという。

なにしろ、テレビ・ラジオ部や劇場制作、営業促進など部署ごとに分かれている組織を横断し、漫才に関してはすべて自身の漫才プロジェクトが主導してやるということなのだ。少なくともやりがいはありそうである。

ところが……。

「他に誰がいるんですか」
「お前ひとりや」
木村常務は当然だという顔で言った。
ひとり! ひとりでプロジェクトと言えるのか? 部下のいないリーダーか。
「誰か部下はいないのですか」
「部下? 部下なんかいるか?」
木村常務は不思議なことを言うやつだという顔でぼくを見た。いるに決まってるでしょう。
「ひとりでできることは限られてます。ふたりになれば、できることは2倍以上になるはずです。誰でもいいので、新入社員でもいいので誰かつけてください」
ぼくは必死で訴えた。
「そんなもんいるかなあ。まあ、考えとくわ」
常務は、話は終わりだという感じで打ち切った。
おそらく考えてくれないだろうなあと思いながら部屋を出た。(11〜12ページより)
    

かくして著者の奮闘がスタートする。たしかに、映画の出だしのような突拍子のなさである。しかも、漫才ブームはとうに過ぎ去っていたのだ。

真剣な目をしていた

会社は右肩上がりの成長を続けていたが、こと漫才に関しては低迷していた。ここ数年は漫才師の中から新しいスターが出てきていなかった。相変わらずベテラン漫才師たちががんばっていて、寄席の最後の3組(シバリ・モタレ・トリ)の出番は若い者に渡さなかった。逆に言えば、ベテランを脅かすような新しい戦力が出ていないということだ。(18ページより)

漫才師たちも、漫才番組に出るよりバラエティー番組のレギュラーになることを強く望んでいた。漫才は漫才ブームとともに終わった古いものだという思いが、漫才師はもとより世間にまで広く浸透していたということだ。

だが、それは真実であると同時に、間違いでもあった。漫才を肯定的な目で見てくれる人は、決して少なくなかったのである。そのいい例が、漫才プロジェクトを始動させた過程で再会した島田紳助さんだった。著者はかつて、彼のチーフマネジャーをしていたうちのひとりだったそうだ。

そんなこともあり、世間話のつもりで「いま、漫才プロジェクトというものをやっていて、漫才を盛り上げるために動いています」と話したのだ。すると、聞いていた紳助さんが真剣な目をしていることに著者は気づいた。

ぼくが話し終えると紳助さんは真顔で言った。
「それはええことやわ。絶対やらなあかんことや。しっかりやってや」
紳助さんが心の底からそう思っていることは真剣なまなざしから伝わってきた。(58ページより)

漫才ブームの火をつけたフジテレビの「THE MANZAI」において、紳助・竜介というコンビが先頭を走っていたのは有名な話だ。一度も休むことなく全回に出て、毎回新ネタをつくってきたのだという。たしかにあのころは、テレビをつければ紳助・竜介が画面に映し出されるといった感じだった。

紳助・竜介の影響を受けて同じような漫才をやる新人がたくさん出てきたのは、むしろ当然のことであったわけだ。大学時代に紳助・竜介を初めて見た著者にとっても、それが吉本に入る遠因であったようだ。

金の力で漫才師の面をはたくんや!

紳助さんは、著者に「若手の漫才コンテストをやったらどうや」と提案する。似たようなコンテストはたくさんあるのだから平凡だと感じたものの、それでも紳助さんが話すと魅力的に思えたと振り返る。

しかも、後日また会った際に紳助さんは、さらに著者を驚かせる提案をしたのだった。

「優勝賞金を1000万円にしよう!」
「1000万!」
「そうや、優勝したら番組に出してもらえるとかいうあやふやなもんやない。金の力で漫才師の面をはたくんや!」
紳助さんはにやりと笑った。(65〜66ページより)

若い漫才師の多くは貧乏なので、たいていアルバイトをしている。アルバイトの合間に漫才をやっているような漫才師も少なくなかったようだ。そんな漫才師にとって、1000万という賞金は夢のような額である。

「今まであったようなもんやない。漫才のガチンコ勝負や。K-1のようなガチンコの大会にするんや」
「漫才やからM-1ですね」
「そうや、M-1や」
こんな風にタイトルはM-1に決まった。(67ページより)

かくして、前代未聞のコンテストを実現させるために、著者は奔走することになる。そもそも、まずは1000万円という大金を調達してこなければならないのだ。いうまでもなく、それは簡単なことではない。いや、現実的ではないと表現したほうが近いかもしれない。事実、1000万円を調達するまでのプロセスは、本書の山場のひとつになっている。

「前例がない」に打ち勝つために

いずれにしても、まだまだスタートライン。ここから著者の、血の滲むような戦いが続いていくのだ。ただし、以後のことについてはここで明かさないほうがいいと思う。簡単な話で、ネタをバラしてしまったら、読んで体験する楽しみが減ってしまうからだ。逆にいえば、それだけ楽しみがいのあるストーリーであるということ。

いわば本書は、次から次へと起こる苦難を乗り越えながら進んでいく主人公(著者)の足取りを描写した、格好のエンターテインメント作品なのである。しかし同時に注目するべきは、もうひとつの顔があることだ。すなわちそれは、ビジネス書としての側面である。

ビジネスの現場においては、実現させたいことを「前例がない」という理由で却下されることが少なくない。ビジネスパーソンは、それをいかに乗り越えていくかの力量を問われるわけだ。ただし、その際に参考となるテキストは意外と少ない。

そういう意味でも本書はきっと、「こういうときはこうしたらいいのかもしれない」というヒントを与えてくれるはずなのだ。なぜなら著者は、「前例がない」ことを実際に成功させているのだから。

それから最後にもうひとつ。

冒頭で触れたとおり、恥ずかしながら私は長らく「お笑いには疎い」状態のままでいた。また、そんな自分のこれまでの感じ方に、少なからず偏見が混じっていたことも認めざるをえない。

だが、本書を通じて漫才師たちが血の滲むような努力をしていたことを知らされた結果、彼らがたどってきた道のりに関心を抱くことができるようになった。だからこそこれを機会に、(動画などを通じて)過去から現在に至る漫才を改めて体験しなおそうと思っている。遠回りしてしまったのは事実だけれど、お楽しみはこれからだ。

(印南 敦史 : 作家、書評家)