『新しい市場のつくりかた』の著者はM-1誕生秘話をどう読んだのか(写真:ナオ/PIXTA)

年末恒例の漫才コンテスト「M-1グランプリ」の決勝戦に向けて世間の期待と漫才熱が高まる中、2001年にM-1を立ち上げた元吉本興業の谷良一氏がM-1誕生の裏側を初めて書き下ろした著書『M-1はじめました。』が刊行された。

谷氏がつくったM-1という新しい「文化」は、漫才ブームという新たな市場の創造につながった。この過程をロングセラー『新しい市場のつくりかた』の著者で専修大学の三宅秀道准教授はどう読み解くのか。

前編に続き、後編をお届けする。

ドカンと報酬で報いてこそ業界は成長する


産業論の視点から指摘すると、ある分野を活性化するのはやはり健全な競争の存在である。

1000万円という巨額の賞金に若手がやる気を出して、ネタを練り上げてくる。ある分野で、現場のクリエイター本人にドカンと報酬で報いてこそ、優れた人材が流れ込んできて、成長もするのは当然だ。いま、お笑いの世界が元気なのは、野心ある若者に成功のイメージをちゃんと見せられているからだろう。

この点、芸能以外のいろんな業界でも学べるはずである。あちこちの事例で、現場をこき使うばかりで工夫のない管理者層の取り分が多すぎないかと時に思う。

そういえば大学教育は、例えば予備校講師と比較して、どうなっているだろうか。面白い授業をしたらドカンと御褒美を出す大学もあっていい。私は貰えないが。

画期的だった「芸人同士の競争」のメイン要素化

画期的新商品の企画・開発という点でもM-1の事例は非常に面白い。

もちろんむかしから、芸人同士のライバル意識や熾烈な競争はあっただろうが、それも観客が喜ぶ演芸コンテンツのメイン要素に取り込んだ点でM-1は画期的だった(「笑点」の大喜利や「お笑いマンガ道場」での演者間の鞘当ては余興的演出に過ぎないと本稿では見做す)。

商品化されてみればそれは、笑いあり涙あり驚きありの物語コンテンツになり、類似コンセプトの後発商品として「R-1グランプリ」や「キングオブコント」などが続くことになった。

格闘技のK-1にヒントを得た島田氏のアイデアがそれだけ優れていたのである(同氏には『ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する』という優れたビジネス書の著作がある)。

また、吉本興業は1982年から「吉本総合芸能学院(NSC)」という芸人養成所をつくっていたが、これは吉本が運営している各地の劇場とセットでお笑いをビジネスとして発展させるエコシステムを形成していた。

M-1の開始はそれをさらに充実させ、才能ある若手芸人に脚光を浴びせて一気に市場価値を高めるブースターの役割も果たしている。

こうした「文化産業のエコシステム戦略」を、鈴鹿サーキットをつくったホンダや宝塚歌劇団をつくった阪急電鉄と比較しても面白いはずである。

本書は、新しい商品、それも文化イベントというユニークな商品の開発ストーリーとして秀逸だが、やはりそれだけではない。

笑いという、摩訶不思議な現象をつくりだすクリエイターたち、彼らをサポートする裏方たちの人間ドラマがまた面白い。その意味で本書の後半の主役はやはり漫才師たちである。

M-1第1回のシーンを読んでいると、私もリアルタイムで観ていたことを思い出して昂揚した。ああ、あの夜、トップバッターの中川家が最後まで最高得点を守り通したよなあ、と記憶が蘇ってくる。

そこで思いついて、本書の第1回決勝のシーンを読むのと並行してM-1第1回の映像を動画配信で観ることにした。

そうすると改めて舞台裏のドラマがよりリアルに見て取れて、非常に面白い。いわばM-1のBehind the scenes(舞台裏) コンテンツとしての読み方である。舞台上の漫才師の心理を想像しながら、審査員のひとことの重みを感じながら、改めて深く大会を楽しむことができる。

お笑いはもっとビジネス的に分析されていい

この業界を呼ぶときの、「お笑い」という呼び名自体に、「肩肘張って真面目に論じるほどの対象ではなく、せいぜい肩の力を抜いてつきあってほしい」というような含意があるだろう。

そんな界隈についての本を、経営学的にどうとか言って批評すること自体、野暮の極みである。そのことを承知しつつも、このエンターテインメント産業の中でもユニークな業界の繁栄は、やはりもっとビジネス的に分析されるべき対象だろうと考える。

コロナ禍で長く社会的活動が抑制されていた時期に、多くの消費者は娯楽を求めてネット配信を視聴する習慣を確立した。

それからまた社会が元に復しつつあるにしても、この習慣は最早、廃れそうには見えない。そのくらい人は切実に笑いを必要としていたのだ。実は笑いはそのくらい、消費者のQOLを高めうる、生活の必需品だったのである。

いまの日本の消費者は、食べ物がなくて飢えたり、着る服がなくて凍えたりすることは滅多にないだろう。もしあってもそれは福祉的支援でなんとかならないことはない。


でも、仮にどれだけふんだんに衣食住に恵まれていたとしても、その人の日々の暮らしに笑いがなければどれだけ味気ないだろうか。

しかもこの笑いという現象は、他の情動と比べればなんと絶妙な技巧が要求されることか。むかしの外国映画でも勧善懲悪的ヒーローに快哉を叫んだり、泣かせるシーンで目頭を熱くしたりすることはできるが、それは怒りや哀しみの構造が古今東西でさほど変わっていないからだろう。

笑いはそうではない。少し文化的背景や時代が変わると、面白く感じる対象も変わる。そして笑わせる側が精進してイノベーションを起こすと、笑わされる側のリテラシーも発達し、同時代の社会の笑いの琴線が洗練し、進歩してしまう。

ある時点で笑いの天才が一世を風靡しても、聴衆たちがその笑いをパターン学習するとむしろそれがマンネリに感じられて、また進化することを期待する。天才自身がそれに追いつけない悲劇も時に起きるだろう。

なんともすさまじい世界である。こんなにヒット商品の陳腐化が早い市場、なにか他にありますか?

そんなプロたちの生態を読んでいると、大学の授業のつかみ程度で芸談を気取り、「やはり緊張と緩和が大事」とか言っていた自分が気恥ずかしくなってくる……。勉強し直します。

『まんが道』に比肩する歴史的証言

この著者の娯楽コンテンツ産業論をまとめて読んでみたいが、芸人たちのエピソードをもっともっと読んでみたい気持ちも実は強い。なので著者には、そのどちらをもこれからどんどん書いてほしい。

本書は、マンガ史における藤子不二雄Aの『まんが道』のように、将来のお笑い史研究者にとっての基礎的テキストのひとつになるだろう。その意味で、ただのビジネス書ではない、歴史的証言である。

(三宅 秀道 : 経営学者、専修大学経営学部准教授)