「障害者枠で働くしかない」発達障害男性の心情
ハヤトさんは4時間近い取材の中でほとんど笑顔を見せることがなかった。「人と関わりたいという気持ちがあるなら、もう少し笑ってみては」というと、「芸人でもないのにですか……」と困惑された。たしかにとりあえず笑っとけ、というのは定型発達の発想かもしれない(筆者撮影)
現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。
今回紹介するのは「人と関わりたい気持ちはあれど、流行に関心があまりなく、室内で本を読んでいるほうが好きな子どもだったので、小さい頃はともかく、高校あたりからクラスの輪からやや孤立気味でした」と編集部にメールをくれた40代の男性だ。
10社以上を転々としてきた
昼白色の蛍光灯がまぶしい東京都心のビルの一室。「私らしい働き方って?」「やりがいのある仕事を見つけるには……」。性別も年齢もまちまちな人たちが自己分析に勤しんでいる。一見垢ぬけたオフィスのようなここは、障害のある人が一般企業に就職するための訓練を受ける就労移行支援事業所である。
やりがいのある仕事に出合えるに越したことはない。しかし、「やりたい夢は? なりたい自分は?」と迫ってくるスタッフに対し、利用者の1人だったハヤトさん(仮名、40代)は内心モヤモヤがぬぐえなかった。「夢とか、理想とか、何を世迷い事を言ってるんだ」という言葉が喉元まで出かかった。
発達障害のあるハヤトさんはこれまで契約社員やアルバイト、派遣労働者などとして10社以上を転々としてきた。その間、マルチタスクができずに叱責されたこともあれば、パワハラを受けたこともある。働くことの厳しさは嫌というほど経験した。
「(事業所は)社会のリアルを教えていないと感じました。それに自分は年齢的にも1日にも早く就職したかった。無職の期間が長引くほど社会人としての感覚や知識が失われていくと思っているので」
「話すのが苦手なので」と取材用にメモを持参してくれたハヤトさん。生い立ちや職場での経験などがA4判5枚にまとめられていた(編集部撮影)
それでもこの事業所を選んだのは、いわゆる大手企業への就職という実績が数多くあったからだという。しかし、履歴書作成や面接の練習ではいつもスタッフから「夢や理想が見えない。そんな就職はむなしい」などとダメ出しをされてしまう。
事業所通いを中断し、再び派遣で働き始めたこともある。しかし、ほどなくして何度目かの適応障害を発症。結局同じ事業所に出戻った。とはいえ、両者の考え方の違いが解消されたわけではない。最後はスタッフから「あなたがどういう人かわからない」「(就職活動は)ご自身でなさったほうがいいみたいですね」と突き放され、通うのをやめた。
「理想論ばかりでなかなか就職させたがらないのは、(利用者の人数に応じて支払われる)報酬目当てなのでは、とすら思ってしまいます」と就労移行支援への不満を訴えるハヤトさん。「どういう人かわからない」という責任転嫁するかのような物言いに対しては、今も納得できないという。
ここで就労移行支援事業所について説明しよう。就労移行支援では、障害のある人がコミュニケーション訓練、職場体験などを通して就職のためのスキルを身に付ける。利用できる期間は原則2年。本連載で何度か取り上げた就労継続支援A型事業所と同じく就労系の障害福祉サービスのひとつで、いずれも利用者数などに応じて市町村などから報酬が支払われる。A型事業所が就労の場でもあるのに対し、就労移行支援事業所は学校に近い。
厚生労働省の統計によると、就労移行支援事業所は全国に約3300カ所あるが、事業所によってサービスやスタッフの質がピンキリだという声はたびたび耳にする。働く中でうつ病や自殺未遂を経験し、事業所に通い始めたのに「夢や理想を語れと一方的に言われ戸惑った」「心ない言葉で叱責された」と話す元利用者は1人、2人ではない。
また、ハローワークの相談員からは「就労移行支援のスタッフがよく『発達障害の人を紹介して』とやってくる。まるで営業活動のよう」という話も聞いたことがある。ハヤトさんの「しょせん金目当て」との指摘はあながち間違いではないのかもしれない。
2回の診察で発達障害と診断された
ハヤトさんに話を聞く中でもうひとつ気になったことがある。それは、ハヤトさんがわずか2回の診察で発達障害と診断されたことだ。ハヤトさんは就労移行支援事業所を利用していた5年ほど前に、事業所が提携する心療内科を受診。初診時に1時間ほどの問診を受けた後、次の診察で注意欠如・多動症(ADHD)、自閉スペクトラム症(ASD)と告げられた。発達障害の診断時に参考にされるWAIS検査も受けていないという。
就労でつまずき、自ら発達障害の診断を求めるケースは残念ながら数多くあるし、当事者は皆切迫した事情を抱えている。ただあまりに安易な診断は発達障害ビジネスにもつながりかねないのではないか。私の指摘に対し、ハヤトさんが被せるように反論した。
「そうまでしてでも診断をもらわないと就職先がないんです。自分にはもう選択肢がない」
もはや障害者枠で働くしかないというハヤトさん。その半生はどのようなものだったのか。
子どものころから内向的な性格だった一方で給食の「三角食べ」の指導に従わなかったり、漢字の書き順で我流を通したりと、こだわりの強さもあった。ただ「友達がいないというわけではなく、学校は楽しかった」。
クラスでも孤立しがちになったのは高校入学後。なんとか居場所を見つけようと、複数の部活やサークルで入退部を繰り返したほか、大学では所属もしていないゼミの飲み会に顔を出すなどした結果、逆に「周りを困惑させていました」と振り返る。
「人と関わりたい気持ちはあるが、溶け込み方がわからない。独りは寂しいが、かといって仲良くなるためにファッションやバイクなどの流行りものに興味を持つ気にもなれない。自分でも勝手だとは思うのですが……」と自身を分析する。
就職後は生きづらさに拍車がかかる。初職は量販店の販売員で、正社員だった。しかし、複数の作業を同時にこなすことが、とにかくできなかった。例えば、商品の補充をしているときに客から質問をされたり、先輩から別の業務を指示されたりすると、仕事の効率が大幅に落ちるか、指示されたこと自体を忘れるかのどちらか。結局数カ月で辞めた。
「リーダー業務」は最も苦手なマルチタスク
その後は事務職系の仕事を中心に非正規雇用での転職を繰り返した。上司から「バカ野郎」「何回言ってもできないな」と罵倒されたり、古い伝票を束ねるときのひもの結び方が下手だと言われ同僚の前で繰り返し“練習”させられたり、給料を払ってもらえなかったり、電話対応ができずに雇い止めにされたり――。
ひとつの会社を定年まで勤め上げた父親からは「仕事を転々とするのはダメだ」と叱責された。ハヤトさん自身も「働かざる者食うべからずという価値観がぬぐえない。無職でいることに罪悪感や屈辱感がありました」と言い、失業してもすぐに別の仕事を見つけた。
しかし、追い立てられるように転職しても長続きしない。次第に「このままだと本当に行くところがなくなる」と不安が募った。30代なかば以降はできるだけ同じ会社で働き続けようと踏ん張ってみたが、今度はメンタルが悲鳴を上げた。勤続期間は多少伸びたものの、頭痛や不眠などの症状が現れ、適応障害の発症を繰り返すようになったのだ。
勤怠は真面目だったので、長く働くとリーダー業務を任されがちだったことも災いした。新人を取りまとめながら上司ともやり取りするのは、最も苦手なマルチタスク。ミスをしては謝罪する日々にストレスを覚え、リーダー業務を断ると「次の更新は難しいかも」と雇い止めを示唆された。
このころ、周囲からはたびたび「他責はいけない」「つねに感謝の気持ちを持て」と“アドバイス”されたという。面と向かって言われたことがないが、会社で発達障害のある人とかかわったせいで上司や部下のほうがメンタルに不調をきたす「職場内カサンドラ症候群」という言葉があることも知った。ハヤトさんなりに休職したり、勤務時間を短縮したりと試行錯誤してみたものの、限界が近いことが自分でもわかった。
メンタル不調に陥る前に辞めるのか、働き続けてメンタルを病むか――。進むも地獄、退くも地獄という状況の中で、たどり着いたのが冒頭の就労移行支援施設だった。
しかし、ここもケンカ別れのような形で辞めてしまう。その後、民間の転職支援会社を使って転職。契約社員として働き始めて数年がたつ。初めての障害者枠での就労で、毎月の手取り額は20万円に届かない水準だが、ハヤトさんは「スキルも資格もない自分には妥当な給料です」。今は勤続5年を超え、無期雇用になることが目標だという。
ハヤトさんは、インド独立の父・マハトマ・ガンディーが社会的大罪のひとつとして挙げた「労働なき富」という言葉をたびたび用い、働かないことへの嫌悪感を隠そうとしなかった。そしてこう持論を展開した。
「(現状に至った理由について)自分は社会が悪いとは思いません。最初に正社員を辞めてしまったことも含めて自分が悪かったことのほうが多いです。上司に気を遣うとか、同僚と助け合うといった社会人としの感覚が欠けているのは、派遣のような(細切れの)働き方をしてきたから。今の会社で心掛けているのは、甘えすぎないこと、ミスを障害のせいにしないことです。ですから障害者雇用であることは上司など一部の人にしか自分からは伝えていません」。
「もう二度と履歴書は書かないつもりです」
どこまでも謙虚な主張を、世間では賞賛する人のほうが多いのだろうか。一方で私は行きすぎた自己責任論の内在化にはもともと批判的な立場だし、メンタルに不調をきたした人に就労というゴールを強いることは弊害しかないことを取材を通して知っている。
それにハヤトさんが「派遣のような働き方」をしてきたのは、それしか選択肢がなかったからだ。派遣の対象業務が原則自由化される前は、それらは直接雇用であり身分は今ほど細切れではなかった。また、同僚も含めて障害の特性を理解してもらわなければ、障害者枠で就労した意味がないのではないか。
私が、理解を求めることは甘えではないのではと指摘すると、ハヤトさんは「でも、(発達障害ではない)定型発達にもいろいろな人がいますから。障害のせいでミスをしたというとやっぱり角が立つと思うんです」という。職場内カサンドラ症候群とバッシングされることを懸念しているように見えた。加えてハヤトさんは「記事が公開された後、どのような感想があったか教えてほしい」とも言っていた。自身の振る舞いや発言は世間にどう映るのか。ネット上の反応を含めて意識しているようでもあった。
今後について尋ねると、「もう二度と履歴書は書かないつもりです」と答えたハヤトさん。何としても今の会社で働き続けるのだという決意表明である。それまでとは打って変わって力強い口調だった。ハヤトさんとの話は考え方の違いから平行線をたどることもあった。ただもう履歴書は書かないという宣言には、有無を言わせぬ迫力があった。
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(藤田 和恵 : ジャーナリスト)