大阪城(写真:でじたるらぶ / PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は豊臣秀吉政権を支えた「五大老」と「五奉行」の違いを解説する。

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慶長3年(1598)8月18日、天下人・豊臣秀吉は、我が子の秀頼の身を案じながら、62歳でこの世を去った。

家康を恐れていた秀吉

秀吉が自分の亡き後、秀頼の後援者として期待すると同時にその挙動を恐れていたのが、徳川家康であった。

「家康は3年間在京せよ。所用ある時は秀忠(家康の3男)を京に呼べ」と秀吉が言葉を残したのは、関東に戻り、豊臣家にとって不穏な動きをするのを食い止めるためでもあったろう(その一方で、家康には京都に居てもらい、諸大名にしっかりと睨みをきかせてほしいとの想いもあったはずだ)。

ちなみに、この頃の家康は、豊臣政権において、「五大老」の1人という立場にあったとされる。五大老、すなわち、家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝である。

前田利家は尾張国に生まれ、織田信長に仕えていた。本能寺の変後、秀吉と柴田勝家の戦いで、秀吉につき、その後、加賀百万石の礎を築く。

毛利輝元は、あの毛利元就の孫であり、中国地方を中心に120万石を有する大大名である。

宇喜多秀家は、謀将として名高い宇喜多直家の子。備前や美作(岡山県)の大名として秀吉に仕える。秀吉の養女で、前田利家の4女・豪姫を娶っていた。そのような関係もあり、秀吉は幼少時より取り立ててきた秀家にも秀頼を盛り立ててくれることを期待していた。

上杉景勝は、越後の雄・上杉謙信の養子であり、越後の春日山城を拠点としていた。秀吉の治世末期(1598年)には、会津120万石に転封・加増された。

以上、5人が「五大老」である。

石田三成や浅野長政などの五奉行

一方で、秀吉政権ではこの五大老に対するものとして「五奉行」がいた。それが石田三成・浅野長政・前田玄以・増田長盛・長束正家の5人だ。

石田三成は、近江国(滋賀県)の出身。少年期より秀吉に仕え、本能寺の変後は、太閤検地実施の中心となるなど、特に吏務(役人としての職務)で功績を残した。近江国佐和山19万石の大名であった。


龍潭寺にある石田三成之像(写真: ドラ / PIXTA)

浅野長政は、尾張国の安井重継の子として生まれるが、織田信長に仕える浅野長勝の養子となる。長勝の養女が、秀吉の正妻となる「おね」(北政所)であった。長政は、甲斐国(山梨県)府中城22万石の大名となった。

前田玄以は美濃国(岐阜県)の出身と言われ、織田信長の子・信忠に仕えた。本能寺の変後、京都奉行に任命されるなどした。丹波亀山5万石の大名であった。

増田長盛は、尾張国の出身(近江国との説もあり)、秀吉に仕え、検地奉行として尽力。大和郡山20万石を領した。

長束正家は近江国の出身。丹羽家に仕えていたが、やがて秀吉に召し抱えられ、官僚として活躍。近江水口5万石を拝領していた(後に12万石に加増)。

以上、5人が「五奉行」である。

この五奉行については、これまで一般的に次のような言われ方をしてきた。「五大老の下にあって、重要な政務を処理した5人の奉行」「五大老の下に位した」と。つまり、五大老が五奉行の上位にあり、政権運営を担っていたというのだ。

確かに、先ほど紹介した五大老・五奉行のメンバーの経歴や所領などを見ると、五大老は数十万石〜百万石クラスの大名であり、五奉行は数万石〜数十万石の大名。これだけ見たら、五奉行は、五大老より格下に見える。

一方で、そうした通説に誤りがあるのではないか、との指摘もある。まず五大老・五奉行の名称自体が当時のものではない。江戸時代になってから付けられたものなのだ(五大老は、江戸幕府の大老を基にして創られた名称と言われている)。

ここでは混乱を避けるため、便宜上、あえて、五大老・五奉行の名称を使うことにしたが、秀吉自身は「五大老」のことを「五人の衆」、「五奉行」のことを「五人の者」と呼んでいた。

また、石田三成ら「五奉行」の者は、自分たちのことを「年寄」と呼び、「五大老」のことを「奉行」と言っている。年寄というのは、政務に参画する重臣のこと。それに対し、奉行は上司の命令を奉じて政務を遂行する人と言える。

年寄と奉行では、年寄のほうがランクが上だったと言えるだろう。つまり、石田三成らは、自分たちを「年寄」、家康らを「奉行」と呼ぶことにより、自分たちのほうが、位が上なのだということをアピールしようとしたと思われる。

一方、家康らは「五奉行」を「奉行」と呼んでいた。ということは、家康らは自分たちこそ「年寄」(豊臣政権の重臣)だと思っていたのだろう。

五大老の仕事内容は?

では五大老の仕事は、どのようなものだったのかというと、1つは、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)後の朝鮮半島からの撤兵に関わること。2つ目は、謀反への対処。しかし、この2つは臨時のものであって、つねにある職務ではなかった。

3つ目は、領地の給与。秀吉の後継者・秀頼がまだ幼少であったので、代理で五大老が行っていた(もちろん、これは秀頼の意を奉じるもので、五大老が大名に対し、領地を与える権限はなかった)。この領地の給与が、五大老の通常時の職務だったと言える。

一方で五奉行は定期的に集まる日が設けられ、直轄地の運営や訴訟の処理など実務を行っていた(五大老が実務を担っていたというイメージがこれまであったかもしれないが、実はそうではなかった)。

五大老は日常的に一同が会談することはなかった。家康と前田利家は、五奉行から求められたときは、助言をしていた。五大老(特に家康と利家)は秀頼を補佐し、五奉行の相談に応える相談役・名誉職的な立場にあったと言えるだろう。

つまり、五大老は秀頼を補佐し、大名へ領地の給与を行う、五奉行は豊臣家直轄領の管理を行っていたと整理することができる。

五大老は豊臣政権を権威付けるものであり、五奉行は政治実務を遂行していく、それによって、豊臣秀頼が成人するまで天下を統治していこうとしたのである。それが、秀吉の構想であったのだろう。

以上のことから、現在「五大老と五奉行はほぼ同格」「五奉行は格下ではない」とする見解が出てきている。

一方で、私はこの見解に対して、疑問を抱いている。所領の規模、官位(例えば家康は正二位・内大臣。石田三成は従五位下・治部少輔)から考えても「五人の衆」(五大老)のほうが格上だからだ。

また「五大老」は先にも述べたように相談役であり、「五奉行に政治運営を任せ、五大老にそれを権威づけさせる」とする見解もあるが、権威づけできる立場にあるということは、五大老のほうが格上であると言えるのではないか。

五大老の持つ力と、五奉行の限界

例えば、現場でバリバリ働いている中堅(もしくは上位)クラスの職員と、社長のすぐ下のクラスにいて、中堅社員の相談に乗る重役のどちらが格上かというと、当然、後者であるだろう。家康は「秀吉の下で、最も格が高かったのはまちがいない」と言われる人物である。

その人物が、石田三成らと「ほぼ同格」であると言ってしまってよいのであろうか。「五奉行が結束すれば、家康に対抗しうる力を持っていた」「五奉行は、五大老の重鎮である前田利家を動かし、毛利輝元を味方に引き入れるだけの潜在能力を秘めていた」として、五大老も五奉行も「ほぼ同格」とする説もあるが、五奉行が個々の力で対抗できず、五大老を自軍に引き入れなければいけなかったということ自体に、五大老の力を感じるとともに、五奉行の力の限界を感じてしまうのである。

(主要参考文献一覧)
・笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016)
・藤井讓治『徳川家康』(吉川弘文館、2020)
・日本史史料研究会監修『関ヶ原大乱、本当の勝者』(朝日新書、2020)
・本多隆成『徳川家康の決断』(中央公論新社、2022)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)