「3人組に拉致されて車でどこかに走っています」味の素ナイジェリア駐在員が体験した"恐怖のドライブ"
※本稿は、黒木亮『地球行商人 味の素グリーンベレー』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
※本稿は、2000年の話です。登場人物の肩書は当時のものとなります。
■日本では見たことのない不穏な光景
6月――
ラゴスの地平線のあちらこちらから、禍々(まがまが)しい黒煙が立ち昇り、普段から物騒な街は、異様な緊張感に包まれていた。
昨年5月に就任したオバサンジョ大統領が、IMF(国際通貨基金)から経済改革として各種の補助金削減を求められ、先週、ガソリンなど燃料価格を50パーセント値上げすると発表した。これに対し、400万人以上の組合員を有する労働組合の上部団体「ナイジェリア労働会議」がゼネストを呼びかけ、ラゴスなど南西部の地域でストライキが発生し、街は混乱状態に陥っていた。
政府は軍に対して、ナイジェリア全土の政府関係の建物を守備し、警察の治安維持に協力するよう要請した。警察は、ラゴス市の北にあるイケジャ地区で騒ぎに乗じてバスを待つ通勤客たちに強盗を働こうとした2人組の男を射殺し、79人を逮捕したと発表していた。新聞は、今回のゼネスト関連の死者数はこれまでで少なくとも10人に上ると報じていた。
ラゴスの街のあちらこちらで高々と立ち昇っている黒煙は、値上げに反対する人々が古タイヤを積み上げて燃やしているものだ。日本では見たことのない不穏な光景に、小川(※)は全身に緊張感を覚えた。
「オーケー、レッツ・ゴー」
小川は、会社のランドクルーザー・タイプの車の運転手にいった。
※小川智氏:ナイジェリアのラゴスに本社を置く味の素の現地法人、ウエスト・アフリカン・シーズニング社(WASCO、現・ナイジェリア味の素食品社)の営業部長
■突然3人組の男が車に乗り込んできた
街は普通ではない状態だが、セールス活動を行なっている営業マンたちの様子を見に行かなくてはならない。
この日はたまたま護衛の警察官が付いていなかった。
少し走って高速道路の入口の手前まで来たとき、運転手が車を停めた。
「ミスター小川、ちょっとここで待っててもらえますか。ゼネストに関して中立であるのを示すために、車に緑の葉っぱを付ける必要があるので、取ってきます」
身長が185センチ以上ある大柄な運転手は、そういって車を降りた。
車窓から見ると、確かに緑の葉が付いた木の枝などをワイパーに挟んでいる車が多い。
数分後、どこかで手に入れた木の枝を手に運転手が戻って来て、運転席に戻ろうとしてドアを開けた。
その瞬間、突然3人組の男が背後から運転手に飛びかかった。
「ウガアッ!」
運転手がドアに指を挟み、うめき声を上げた。
3人組は屈強な運転手を羽交い締めにし、車のキーを奪った。
(強盗だ!)
小川の全身が凍り付く。しかし、なすすべはない。
3人の男たちが、車に乗り込んで来て、2人が運転席と助手席、1人が後部座席の小川の隣にすわり、車を発進させた。
■「もしかして自分はここで死ぬことになるのか……?」
バックミラーの中で路上に置き去りにされた運転手がどんどん小さくなっていく。
「ハウ・アー・ユー?」
小川の隣にすわった男が訊いた。
(ハウ・アー・ユーって……いい気分なわけないだろ!)
自分の心臓の鼓動がドクンドクンと聞こえ、血圧と心拍数が急速に上昇していた。間違いなく、生まれてこのかた、最高の血圧で最大の心拍数だ。
(これが強盗というものなのか……)
ナイジェリア駐在5カ月にして、ついに強盗に遭ったかと思うと、身の毛がよだち、全身がゾクゾクと震えた。動物的本能で、今まで経験したことのないような生命の危機感を覚えた。
(いったい、どこに行くつもりなんだ?)
車窓から見えるのはいつもと変わらない雑然としたラゴスの街並みだ。
(もしかして自分はここで死ぬことになるのか……?)
不安と恐怖で動転した小川を乗せた車は、ゼネストで混乱気味のラゴスの街を走り続ける。
ゼネストがなくても、元々交通はカオスで、一方通行の道を逆走するのは当たり前という国だ。
五寸釘をたくさん打ち付けた板を道路に置いて車をパンクさせ、銃やナイフで襲いかかる「剣山強盗」も出没する。
■携帯電話で社長に「強盗に遭いました」
(そういえば、携帯電話が……)
小川は、携帯電話を持っていることを思い出した。
たぶん取り上げられるだろうと思いながら、ダメもとで社長の石井(※)に電話をかけた。
※石井正氏:小川氏より8年次上で、WASCOの社長
意外なことに、男たちは止める気配がない。
「石井さん、小川です」
小川は携帯に話しかけた。喉がからからに渇いていた。
「おう、どうしたんだ?」
会社にいる石井が訊いた。
「強盗に遭いました。3人組に拉致されて、今、車でどこかに走ってるところです」
「ええっ⁉」
小川はかいつまんで事情を説明した。
受話口の向こうで石井が大声で「ミスター小川・イズ・インナ・デインジャラス・シチュエーション! コール・ポリス、ナウ! ナウ! ナウ!」と叫んでいるのが聞こえてきた。
「それで、今、どこにいるんだ?」
石井が深刻な声で訊いた。
「分かりません。どこかに勝手に走って行きます」石井と話していると、車はある建物の前で停まった。
「ミスター、建物の中に入ったら5000ナイラ(約5250円)、ここなら2000ナイラだけど、どうします?」
隣にすわった男が訊いた。(んー? いったいどういうことだ?)
「それは、何の金なんですか?」
「駐車違反の罰金です」
■「強盗じゃなかったのか、はぁーっ!」
聞くと、3人の男たちは地元の区役所に雇われている駐車違反の取り締まり班だという。
建物の中に入ると正式な罰金になって5000ナイラ、ここで自分たちに払って見逃してもらいたいなら、2000ナイラだという。
(強盗じゃなかったのか、はぁーっ!)
地獄から天国に行ったような気分だった。
「ちょっとボスに電話させてくれますか?」
再び携帯電話で石井に電話をかけ、今の状況と場所について説明すると、石井も一安心し、会社に常駐しているラゴス警察の警察官たちをすぐに差し向けるという。
30分ほどで、数人の警察官と、羽交い締めにされ、置き去りにされた運転手が車で駆け付けた。
3人の男たちと警察官たちがナイジェリア独特のピジン・イングリッシュで激しい口論を始め、殴り合いになるのではないかと思うほどヒートアップしたあと、2000ナイラを支払うことで決着した。
皆、一転して笑顔になり、兄弟の契りを確認するハイタッチと握手が行われ、互いにブラザーと呼び合う。どうやら同じ部族であることが分かったようだ。
この国は、ハウサ、ヨルバ、イボ、フラニ等、250以上の部族が住む多民族国家で、彼らの発想は日本人にはなかなか理解できない。
ただ一人、運転手だけが釈然としない顔をしていた。
ゼネストの方は、「ナイジェリア労働会議」が政府と交渉し、ガソリンの値上げ幅は10.5パーセント、灯油の価格は据え置きということで決着し、5日間で終わった。
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黒木 亮(くろき・りょう)
作家
1957年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒、カイロ・アメリカン大学大学院(中東研究科)修士。銀行、証券会社、総合商社に23年あまり勤務し、国際協調融資、プロジェクト・ファイナンス、貿易金融、航空機ファイナンスなどを手がける。2000年、『トップ・レフト』でデビュー。主な作品に『巨大投資銀行』、『法服の王国』、『国家とハイエナ』など。ロンドン在住。
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(作家 黒木 亮)