戦国のトリックスターと呼ばれた真田昌幸は、どんな動きを見せるのでしょうか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第34回「豊臣の花嫁」では、未曾有の大地震により方針転換をした秀吉が、妹の朝日姫を家康に嫁がせ家康に上洛を促しました。第35回「欲望の怪物」では、家康を取り込んで己が欲望のまま突き進む秀吉と、戦国のトリックスターと呼ばれる真田昌幸らしい姿が描かれます。昌幸になぜこのような異名がついたのか、『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

兄の戦死によって真田家の家督を相続

真田昌幸は、武田家に仕え、武田二十四将の一人にも数えられた真田幸綱の三男として生まれました。三男ということで、昌幸は早くに養子に出され、武藤喜兵衛を名乗っていました。武藤氏は武田家の重臣クラスであり、昌幸もすでに重臣に準ずる地位を得ていたようです。

家康との関係で言えば、三方ヶ原の戦いに参戦したとの記録が残っています。若き日の昌幸にとって、家康が信玄によって苦もなく打ち破られる姿は、さぞや印象的だったでしょう。

信玄が亡くなり勝頼の時代になると、真田家も幸綱から長男の信綱が家督を継ぎました。勝頼は、織田・徳川を相手に積極的に攻勢に出たものの、長篠の合戦で大敗を喫します。山県昌景ら信玄子飼いの宿老が討ち死にしたこの戦いで、真田の家督を継いだ信綱、次兄の昌輝も討ち死にしてしまいました。

昌幸も出陣していたのですが、勝頼の旗本に任じられていたため戦死を免れます。長兄、次兄の戦死によって、昌幸は武藤家から真田家に復し真田家の家督を相続しました。

勝頼は、長篠の合戦で衰えた勢いを取り戻すべく、父の頃からの宿敵だった上杉家と同盟を結び、さらにはその上杉家の家督争いに首を突っ込みます。この結果、重要な同盟であった北条家との関係が悪化してしまいました。

勝頼は、それに輪をかけるように昌幸に北条領だった沼田への侵攻を命じます。武田にとっては明らかに悪手です。しかし昌幸は勝頼の命に従い、沼田城を攻略。のちに、この沼田城をめぐって昌幸は家康と対立しますが、沼田はもともと北条の領地だったという背景があります。

勝頼の最期と昌幸の動向

1582年3月、信長は朝廷から武田討伐の大義名分を受け、家康とともに武田領へ攻め込みます。このころ勝頼には、すでに領地を守るだけの力はなく、家臣の離反も相次いでいました。

昌幸は窮地の勝頼に、自分の城である岩櫃城に移るよう進言します。しかし勝頼は、その申し出を断り、重臣である小山田信茂の居城・岩殿城を目指すことを決断。結果的には、その小山田信茂に裏切られて命を落としました。

この逸話は昌幸の武田家に対する忠誠心を表したものですが、一方で昌幸は、この少し前から上杉、北条、徳川と接触していたようです。勝頼からすれば、昌幸は信じきれる相手ではなかったのかもしれません。

もしも本気で昌幸が勝頼を救う方法があるとすれば、どういった策が考えられるでしょうか。これは、あくまでも推測です。

岩櫃城は確かに堅固な城ですが、それでも織田・徳川の大軍を撃退できるほどではありません。とすると、ほかの勢力との連携が必要です。徳川は論外として、北条もこの時点では信長に従っており、さらには勝頼に対していい印象を持っていませんでした。そうなると現実的なのは上杉景勝との連携です。

勝頼を岩櫃城にいったん入れて、そのまま上杉領へ脱出させ、織田・徳川軍を引きつけておいて上杉の援軍を待つという策が考えられます。もっともこの策も実効性は低いでしょう。

昌幸が武田滅亡後、すぐに織田に臣従していることから、やはりこの進言は本気ではなく気休め程度のものであり、それを理解していた勝頼も昌幸の言葉を真に受けなかったのではないでしょうか。

本能寺の変で甲斐信濃は騒乱に

昌幸は、甲斐を治めることになった織田家重臣・滝川一益の与力に組み込まれます。これで一段落と思ったのも束の間、武田滅亡からわずか3カ月後に本能寺の変が起こりました。これによって甲斐信濃は騒乱に陥ります。

旧武田領の統治を任されていた諸将は逃亡し、一益とともに甲斐信濃の統治責任者だった河尻秀隆に至っては混乱のなか殺害されてしまいます。これは織田の統治がわずか3カ月だったことから起こりました。騒乱に乗じて徳川家康、北条氏政、上杉景勝らは熾烈な争奪戦を開始します。いわゆる「天正壬午の乱」です。

昌幸も当然、この好機に乗じて動きを活発化させます。武田の旧臣たちを集め、軍備を拡大しました。一益が北条氏直に敗れ上野も空白地帯になると、沼田城を奪回。ここから昌幸は変幻自在に立場を変えます。

まず上杉景勝が上野に進出すると、上杉に臣従。しかし、すぐに態度を変え北条氏直に降伏します。さらに今度は家康に連絡をとり、北条を裏切って徳川に。ここまでくると何がなんだか敵も味方もわからなかったでしょう。

これら一連の行動は、すべて昌幸による沼田への固執から生じたものです。北条に対する裏切りも、北条側が沼田領の返還を求めたことにあるようでした。

北条としては「北条領の沼田を昌幸が奪いとった」と考えており、沼田の返還は譲れない条件だったのです。昌幸は徳川をバックに沼田を死守する考えでしたが、これもうまくはいきませんでした。北条と徳川の対立が、織田信雄の仲介によって解決してしまったのです。

さらには、その条件に沼田の北条への返還が含まれていました。家康は沼田に特段価値を感じておらず、この条件を昌幸の了承なく呑んでしまいます。

家康に従いながら上杉への臣従を決意

家康のミスは、昌幸に事前交渉がなかっただけでなく、沼田の代替地も確約しなかったことです。これはプライドの高い昌幸には許しがたいことでした。昌幸は沼田を死守するために、北条・徳川と対立していた上杉に臣従することを決めます。

これは悪い手ではありませんでした。この時期、上杉は羽柴秀吉と連携していました。上杉に臣従することは、天下の覇権を握らんとする最大勢力の傘下に入ることであり、北条・徳川に十分対抗できるからです。

しかし、そもそも昌幸は一度、上杉を裏切った経緯があり、そう簡単にことが進むわけではありません。このため昌幸は、沼田の件については曖昧な態度で時間稼ぎをしながら、徳川方として活動します。

家康としても、このころ信雄が秀吉との対決を求め接近していたこともあり、沼田の一件はいっとき横に置かれていたような状態でした。


沼田城の本丸跡に復元された鐘楼(写真:K,Kara/PIXTA)

昌幸は表面上、家康に従いながら着々と独立に向けて画策を行います。そして1584年、家康は秀吉との対決を決意。小牧・長久手の戦いです。

このとき昌幸は、上杉の抑えとして国許に残りました。昌幸としては絶好のチャンスです。

昌幸は北条と小競り合いをしながら、沼田とその周辺を事実上真田領として確保します。当然、この動きに北条は激怒しますが、肝心の家康が秀吉との決戦に挑んでいることもあり、為す術がありませんでした。さらに昌幸は上杉への接近も怠りません。

昌幸のベストシナリオは家康が秀吉に敗れ、その勢力が一気に下がることだったのでしょうが、結果は局地戦では家康が勝利し、秀吉は家康との和睦を選びました。尾張から撤兵した家康を待っていたのは、激怒した北条のクレームでした。


秀吉は家康を利用することで東日本を押さえ、天下統一、さらなる野望に向けて動き出します(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

上杉を使い家康との決戦に臨む


もはや猶予はないと悟った家康は軍を甲府に進め、昌幸に沼田の返還を迫ります。昌幸は返還を拒否し家康は浜松に引き返しますが、これは最後通牒だったので、次は本格的に真田を攻めることを意味しました。

昌幸は徳川との手切れが確定的になったことを受け、正式に上杉景勝に次男・信繁(真田幸村)を人質として送り、上杉に臣従します。景勝にとっても信濃への徳川・北条の進出は望むところではなく、これを受諾。

こうして昌幸は、家康との決戦に挑むことになり、見事に勝利しますが、昌幸の計算はここで行き詰まります。秀吉は真田を徳川傘下に組み込んだのです。さらには、この騒動の間に北条氏が真田の名胡桃城を襲います。この北条氏の行動が秀吉の怒りを買い、北条征伐につながっていくことになります。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)