旧統一教会と闘い続ける郷路征記弁護士 個人の自由の侵害を許さない「強さ」と「優しさ」の源泉
世界平和統一家庭連合(旧統一協会)の伝道・教化活動の違法性を争った「青春を返せ訴訟」は1987年に提訴、14年後の2001年に札幌地裁で原告勝訴の判決が下り、最高裁で2003年に確定した。元信者らの被害救済への正面突破を図った第一人者である郷路征記氏は、現在も「違法伝道訴訟」を闘っている。「人の心のことが深く分かる人」と評されるその強靭さの源泉を探る。(ジャーナリスト・本田信一郎)
※名称変更前の団体名が「世界基督教統一神霊協会」であることなどから、郷路氏は「統一協会」の表記を使っています。
●「信仰の自由の侵害」という本質を、司法の場で問い続ける第一人者として
2022年7月8日の安倍晋三元首相銃撃事件によって、にわかに注目された旧統一協会。当初は、《空白の30年》を象徴するかのように、ある政治家は「何が問題なのか分からない」と言った。
それは、メディアも同様であり、1992年をピークとする「騒動」を彷彿とさせるような被害の羅列や反社会性への「疑惑」が多く見られた。一方で、郷路征記氏は8月の段階で、事件について「圧倒的に努力が足りなかった。裁判所や社会に『正体を隠しての伝道・教化活動は許されない』との規範があって、容疑者の母親の入会を防ぐことができていれば、この悲劇は起きなかったのです」と自戒の念を滲ませていた。
1987年からの「青春を返せ訴訟」と2004年からの「信仰の自由侵害回復訴訟」で勝訴判決を勝ち取って以降も、現在に至るまで被勧誘者である国民の自主的、主体的な信仰選択を侵害する不法行為を立証することで被害回復への正面突破を図ってきた。
その人の「努力が足りなかった」という言葉は重い。郷路氏はさらに、狙撃事件の背景となった宗教2世が直面する家庭崩壊について、「たとえば、その2世たちが旧統一協会に損害賠償を求める場合には、親が違法な伝道・教化手法で信仰を植え付けられたというところを出発点にしないと苦しみの根源を問うことはできません」と指摘した。
この時の取材記事が8月20日に弁護士ドットコムニュースに掲載されると、ネットはバズ状態になった。その後も郷路氏は講演やテレビ出演が相次ぎ、瞬く間に旧統一協会の伝道・教化活動そのものの違法性を問い、勝訴した弁護士として認知された。書き込みは「目から鱗」「大切な論点」「すごい弁護士」などの新鮮な驚きに始まる好意的なものがほとんどだった。
そして、政治家やメディアも第一人者が提示してきた本質と違法伝道の確定判決を認識し、明瞭な根拠を得たかのように違法性と被害者救済の議論が進んだように思われる。
実のところ《空白の30年》は多くの者が、忘れていたか知らなかったことにして緩慢に放置してきた《不作為の30年》なのである。
それにしても、「信仰の自由が侵害されているという裁判をやっている弁護士は僕だけです」という郷路氏は、なぜ35年間もたゆまずに旧統一協会と対峙してきたのだろうか。
その始まりは「信仰を植え付けて人間を支配することができるように変えてしまう。『それはないだろう』と思いますよね。法律を悪用して弱い者から収奪を行った上、加害者にしてしまうなんて、やっぱり許せないですね」という怒りである。
しかし、それだけで対峙できる相手ではないし、当時、請求の対象となっていたのは霊感商法での損害賠償や合同結婚式での婚姻無効、脱会に伴う人身保護であり、洗脳やマインドコントロールという言葉すら認識されていない時代である。
郷路氏も「『青春を返せ訴訟』を提起した時に、旧統一協会の反応として伝わってきたのは、『変な訴訟を起こされたよ、慰謝料請求だぜ』という嘲笑でした。多くの弁護士らからは、『そんな請求を裁判所が認めるわけがない』と言われました」と語るように、傍から見れば、コストパフォーマンスが余りにも悪く、勝てそうにない奇異な訴訟に弁護士人生を賭したことになる。そもそも宗教や心の問題は裁判にそぐわない。
正義感からくる怒りに加え、そこにあったもの―どうして旧統一協会の問題をやることになったのか、今日までやれてしまったのか―をやはり確かめたい。
1カ月半ぶりの事務所は整理整頓が行き届き、夏の終わりを思わせる日差しに満ちている。目の前の独歩の人は、柔和で涼やかな笑みをたたえている。
●毎日12時間の勉強が、弁護士としての「やり方」を作った
1943年、郷路征記氏は戦時下の札幌で生まれた。もちろん戦争の記憶はない。
その自我が芽生えたきっかけは小学校5年生の時だった。「家は貧乏でしたけど、母が学習参考書を買ってくれたんですよ。それで勉強すると学校の授業が全部分かるから面白くなりました。それから、向かいの家が銀行員で、うちよりも豊かな生活をしているのを見ていたので、『長男だから銀行員になって親に楽をさせたい』と一生懸命に勉強しました」
そして、この頃にはすでに理不尽を許せない正義感の強さも現れていた。「女の子をいじめる奴に向かっていきましたね。腕をねじりあげられて『折るぞ』と言われて『折るなら折れ』と言い返したこともあります」。この点は、母親の影響が大きかったのだという。
「性格の激しい人でした。熱烈な愛国少女だったようですが、戦後は権力嫌いになっていました。小さい頃に布団で寝ていると、よくラジオで選挙演説を聞 いていたのを覚えています」
父親が各地を巡って羊毛を買い付ける仕事だったために引っ越しを重ね、中学校を3度転校した。自身曰く「根無し草」だった。2年生からは進学校を受験するために釧路でひとり下宿生活を送った。
「寂しさを感じることはありませんでした。毎日午後3時頃に下校してから午前3時まで勉強していましたからね。暖房がないので寒くて手がしびれてしまうけ ど、苦ではなかった」
そして、この時の勉強が今に至る郷路氏の「やり方」を形成した。
「要点はどこかとかは考えずに、ともかく目にしたものは全部読んで、メモで整理し、全てを理解してから論を組み立てる。旧統一協会の訴訟についても最大の武器になっているのはそこなんですよ」という。
この「やり方」は全てに及び、「もう性(さが)としかいいようがない」のだそうだ。
●学生運動に投じた青春時代。そして、訪れた「人生最大の挫折」
毎日の12時間勉強を経て釧路湖陵高校に入学した郷路氏は「教科書を読み、大学受験の問題集を解くことだけをやっていました。ただ、1カ月間だけ勉強をせずに集会やデモを組織しました」という。彼もまた60年安保闘争という時代の奔流の中にいたのである。
「1960年5月20日に自民党が新安保条約を単独強行採決して国会が空転。6月15日には学生7000人が国会構内で警官隊と衝突した際に東大生の樺美智子さんが亡くなりました。民主主義国家なのに民意を無視するのはどうしても許せなかった。正義感が激発されたのです。居ても立っても居られない感じでした」という。
その政治的な嵐が一時だけ過ぎ、たぎった正義感ゆえに、ある種の虚無感を味わっていた10月12日、「日比谷公会堂で、社会党の浅沼稲次郎委員長が17歳の山口二矢に刺殺された時に、僕も『岸信介を殺すべきか』と思ったことがあったのです。『山口と自分はどこが違うのだろうか?』と…」。
郷路青年はテロリストにはならなかった。そして「『ともかく僕にはまだ分からない複雑な社会の仕組みや何かがあるみたいだ。やはり大学に行って勉強しよう』。そう思い、文系でもあったので経済学部に進むことにしたのです。銀行員になって親に楽をさせたいという思いから飛躍した瞬間でした」という。
東北大学では「学生運動を必死でやった」という郷路氏は、卒業目前になって「人生最大の挫折」を味わう。
「北海道の銀行の採用内定が取り消されたのです。理由は明示されませんでしたが、ずっと学生運動をやっていたからなのは間違いない」。そして「不当な権利侵害に対して闘わなければならない立場でした。自分でもそう思い、期待もされていました。『やらねばならない』と取り組み、初めて弁護士にも相談しましたが、内心では闘う自信も気力もなかった。そもそも銀行に就職したいと思っていたのでもないし、社会性も身に付いていない。それに、運動に疲れ果てていたので続けられなかった。自分の中に内実が何もない。空っぽ。やるべきことをできない自分に初めて遭遇しました」という。
それは燃え尽き症候群のようなことかと問うと、「今考えれば確かにそうです。進む道もありませんでした」と答えた。
落ち込むある日のこと、書店で「弁護士になる方法」が書かれた本を手にする。「読んでみると試験に受かれば良いと分かって、『これならできるかも』と思ったのです」。この決断は啓示か運命か、もしくは安易というべきか。
卒業だけは果たし、翌々春から北海道大学の聴講生になったが、「授業が楽しくないし、ゼミもペースが合わないので本を読んで午後9時から朝9時まで勉強しました」という。またもや12時間勉強なのだが、この時ばかりは「バスの中で本に書いてあった内容の論理展開を考えたりすると額に脂汗が浮かびました。それだけ脳が疲労したのだと思います」というほど集中した。
●法曹史に残る大事件勃発。その時、募った怒りとは?
1968年に初挑戦で司法試験に合格した。約1万人が受験して合格者が約500人、司法修習は2年間の時代である。
そして、この年に大学の時から交際していた人と結婚した。すでに北海道で小学校の教諭として働きながら郷路氏を支えた。氏曰く「浮世離れが許されていた」のだから、修習中もさぞや勉強に励んだのだろうと思いきや、ここでも「研修所の要件事実教育は上から目線のようで馴染めないのです。どうしても事実全体の中から浮かび上がる本質は何か、事実を正確 に把握していかに説得力のある文章にするかを考えてしまう」という日々だった。
それでも無事に迎えた司法修習23期修了式だったが、そこで前代未聞の「罷免事件」が起きた。
修習生でクラス委員長の阪口徳雄氏が挙手をして発言を求めた。そして、承諾も制止もないままにマイクを手にし、「(7名の)任官不採用者に10分だけ話をさせてあげて欲しい」と訴えた。すぐに事務局長は式の終了を宣言。阪口氏は夕刻に「修習生の品位を辱める行状」であったとして罷免された。
「『何でこんなことで罷免なのか』と、暴力的な行為なんて全くなかったのに情け容赦ない。国家権力は怖いと思いました」
郷路氏も阪口氏や任官不採用者と同じく「青法協(青年法律家協会)」に所属していたこともあり、他人ごとではなかったし、ここでも郷路氏は「頭にきた」のである。それは、思想信条の問題以上に、当時の裁判官の暗黙の認識に対してだった。「貧乏な家庭の者や障害のある人、女性を裁判官にしなかったのです。それだけでなく確かカタカナの名前の人がいて『判決に名前を書くことになるんだが、権威に欠ける』という言い方をされたそうです。ですから、裁判所がある種エリート的な人たちだけで構成される場になっていくことは、大きな損失ではないかという思いがあった」のだという。
現在郷路氏は、法曹資格が回復されて弁護士となった阪口氏のメーリングリストに名を連ね、痛烈な体験を共にした仲間との交流が続いている。
●若き弁護士が体感した高揚感と、眠れぬ夜の恐怖がもたらしたもの…
1971年に弁護士登録し、「北海道合同法律事務所」に参加する。やがて「北大生不退去事件」で支援者らとの一体感に弁護士としてのやりがいを見出し、都市再開発に伴う様々な問題などで忙しくなった頃に、転機をもたらす訴訟に加わった。
「薬害スモン訴訟です。東京に行って、旧厚生省の前に座り込む患者さんたちの運動を組織する役割で、50日間も泊まり込みました」
この大型訴訟は、キノホルム製剤によって下半身麻痺を伴う神経炎(スモン)を発症した患者が製薬会社と製造承認した国に損害賠償を求めたもので、1971年から1991年まで全国の33地裁、8高裁で争われ、原告は7500人を超えた。
その渦中で「皆で各省庁に行って涙の訴えをし、自民党で動きがあれば宣伝カーで駆けつけて要求を伝えました。もう目の前で政治が動き、救済が現実化していく訳ですよ。様々な人の思いが凝縮された空間で、ものすごい高揚感でした」。
しかし、この高揚感が郷路氏を疲弊させていた。
1985年のことである。「札幌に戻ってからも熱が冷めない感じで普通の生活をすることができませんでした。最初の異変は、急に心臓が凄い速さで拍動したことでした。友人が救急に連れていってくれましたが、体の異常はありませんでした。ところが、同じことが 続いただけでなく、強い不安感に襲われて眠れなくなりました。夜が、また眠れないのではないかという恐怖の対象になったのです…」
夜眠れずに、奈落に引きずり込まれるような感覚が続いたある朝、小さな森のある公園に足を運んだ。その朝靄の森に立った時のこと、「包み込まれている感じがして、『ああ、生かされている…。生きていける』と思えたのです。恐怖が薄らぎました」という。
少年期に貧しく孤独ながらも卑屈にならなかったのは「自然が豊かで、森で遊べたから」と回想した郷路氏は、また森の息吹に救われたのだ。それでも劇的に回復したのではなく「汽車に乗ったりすると、閉塞感から拍動が速くなって途中下車したりで、半年間は仕事に 行けませんでした」という。
自己診断で「不安神経症」と見立て、本で見つけた治療法を自己流で取り入れた。「恐怖などの感情と闘わず、ピークをやり過ごすことを身につけてようやく抜け出ることができた」という。この過酷な体験から行き着いたのは、「人間の心の問題です。その大切さが身に染みました。人の気持ちに寄り添えるようになったと思います」という他者の心の声に共鳴し、思いや情緒に共感する世界だった。
郷路氏が旧統一協会に関わったのがこの頃だった。ひとりの元信者と出会う。
「霊感商法の霊能者役をやらされて、市民に壺を買わせていた女性でした。その罪の意識からただただ滂沱(ぼうだ)の涙を流し続けたのです。僕は言葉ではなく涙に動かされた。その心を受け止めてしまったのです」
郷路氏の胸には、生来の正義感だけではない、彼女の苦しみへの共感と、苦しみを与えた者への怒りが確かにあった。
こうして1987年、元信者1名を原告に、霊感商法は公序良俗違反の不法行為であり、伝道・教化活動を洗脳による人格破壊と構成して100万円の慰謝料を請求する「青春を返せ訴訟」が始まった。
元信者とのマインドコントロール研究会で海外の文献を読み、内部の資料などを極力集めて、培ってきた「やり方」で教化過程を徹底的に分析したのである。
●「人間らしくしてくれた人」との別れと、「人間らしくしてくれた人」との再生
取材中、強い日差しが傾きかけた頃に、郷路氏が「喉が渇くでしょう」と冷えた葡萄をテーブルに置いた。気遣いを欠かさない理由を問うと、「僕を人間らしくしてくれた人がいたんです」と明かした。
駆け出し弁護士を見守り続けた妻について「僕が仕事をやれる人間になれたのは、彼女につくられたからです」という。
その人に悪性腫瘍が見つかったのは、1995年の年明け早々だった。「病状の変化は激烈でしたが、感情を乱すことなく『皆が私のために頑張ってくれているから泣くわけにはいかない』といい、最後までその姿勢を貫きました。52歳。立派だと思いました」
その年の初夏から晩秋までの5カ月間を郷路氏は、その人と共に病院で暮らした。同じ初夏に同じ病院で夫を亡くした人がいた。入院中に2組の夫婦は短い挨拶を交わしたことがあっ た。妻は発症する少し前に、社会学の教授であるその人の講演を聞いており、「私にはできなかったことを軽々とこなしている素晴らしい女性」とノートに書き残していた。
そして、郷路氏が妻の追悼集を送ったことがきっかけで文通が始まり、それは1年間続いた。
直接会うようになって互いに亡き伴侶への「罪の意識」を語り合ったのは、郷路氏が夜の恐怖から抜け出す光を射した森のある公園だった。
やがて、心の奥底をさらけ出したふたりは共に歩むことになった。「僕たちは一緒になり、4人で生きようとしたことで、悲しみを乗り越えることができたのです」
それからしばらく経って、妻の友人から「なぜ結婚したの」と問われた53歳の郷路氏は、「恋をしたんです」と正直に答えた。
この年、1998年に「郷路法律事務所」は開業した。2001年、「青春を返せ訴訟」は14年間の審理を経て一審の判決を迎えた。原告は20名になっていた。
札幌地裁は「(旧統一協会の伝道・教化活動は)社会的に見て相当性が認められる範囲を逸脱した方法及び手段を尽くした、原告らの信仰の自由や財産権等を侵害する恐れのある行為であって、違法性があると判断すべきものである」と原告勝訴の判決を下した。
2003年に被告である旧統一協会の控訴、上告が棄却されて確定したこの地裁判決は、今となっても画期的である。
加えて、翌2004年に提訴した「信仰の自由侵害回復訴訟」の2012年の札幌地裁の判決でも「旧統一協会の場合、入信後の宗教活動が極めて収奪的なものであるから、宗教性の秘匿は許容し難いといわざるを得ない」。また、「信仰による隷属はあくまで自由な意思決定を経たものでなければならない」とされた。
これらの違法性の認定は、憲法の理念を反映し、宗教とカルトの峻別基準を示したに等しい。
郷路氏は《空白の30年》といわれる間も仕事を続け、現在も3件の訴訟を闘っている。政治やメディアは《不作為の30年》をかき消そうとするかのように慌ただしい。
郷路氏は問題の本質である「信仰の自由の侵害」が広く認識されたことを「率直に嬉しい」という。そして「『違法伝道訴訟というやり方があって、やっている人がいるんだ』ということが少しは助けになるかもしれません。ただね、それを踏襲する人がなかなか出てこ ないんですよ」と少しだけ残念そうな表情を見せた。
「弁護士は天職」と言い切る郷路氏は、膨大な資料と格闘し、伝道・教化活動のさらなる解明に余念がない。そして「心の問題となると要件事実などないから、自由に事実を調べて書面にできます」と、どこか楽しそうでもある。
「信仰の自由侵害回復訴訟」の札幌地裁の判決が出される1年前、郷路氏は「恋をした人」を看取った。
「癌が見つかってから1年8カ月あって、懸命に尽くしたので罪の意識はありません。人への気配りの大切さを教えてくれました。すごく助けられました」
事務所の机の傍らには「人間らしくしてくれた人」の2枚の写真が並べて置かれている。 「ふたりの妻に対して恥ずかしいことはできないのです。『ふたりに感謝しながら懸命に生きることで、ふたりが生きるんだ』と思っています」
これが郷路氏の本質なのだろう。操られるということは、人間性を否定されて失うこ とだ。それを取り戻そうとするには優しさをもって人の心に寄り添わなければならない。
郷路征記は、なぜ自分がそうなったのかをふと考える。言葉と格闘し、朝靄の森に立ち、ふたりの妻の夢を見る。
【取材協力弁護士】
郷路 征記(ごうろ・まさき)弁護士
1943年札幌市生まれ。1965年東北大学経済学部卒業。1971年弁護士登録。 北海道合同法律事務所を経て、郷路法律事務所。1980年代より旧統一協会問 題にかかわり、「全国霊感商法対策弁護士連絡会」代表世話人を務める。近著 は「統一協会の何が問題か―人を隷属させる伝道手法の実態―」(花伝社)。
事務所名:郷路法律事務所
事務所URL:http://www.glo.gr.jp/